10:新しい無言歌−−−長島有里枝の『SWISS+』展

長島有里枝に初めて会ったのは1994年のことなので、かれこれ15年は遡る。その前年に渋谷パルコで開かれていた公募展『アーバナート#2』で荒木経惟に見初められ、家族と撮影した全裸のポートレートでパルコ賞をとって間もない頃だった。当時、同じ渋谷の旧タワーレコード近くで、秋田敬明がマンションの自室を改装して開いたギャラリー「P-HOUSE」で、彼から展覧会をディレクションしてほしいと依頼があった。では長島有里枝がよいのではと、当時まだ武蔵野美術大学に在学中で、個展歴のなかった彼女を強く推したのだ。布施英利のディレクションによる岡崎京子展に続く第2回企画展(『Nagashima Yurie-A Room of Love』、1994年)であった。別会場に準備したオープニングパーティーでは、レントゲン藝術研究所(大森)に続いて登場した都心の新しい現代アートの拠点として、多くの人が押し寄せ、そこで僕は中原昌也や工藤キキらと瞬発的に結成したバンドでお祝いのつもりの演奏をしたが、1曲目で中原の叩くスネアドラムが破れてメチャクチャとなり、いたたまれずに「もうやめましょうよ!」と叫んだ中原の一声を最後にバンド活動も終了した。
 
他方、肝心の個展はギャラリーといっても独り住まいのマンションを無理矢理ホワイト・キューブに仕立てたようなものだったから、展示というよりは部屋というのがピッタリであった。その小さな居室=展示空間を長島は濃いピンクの羽で埋め尽くして自作写真を飾り、全体を「愛の部屋」と名付け、自演する「娼婦」が私的な秘密を来場者にひとりひとり手渡すような展覧会へと仕立てたのだった。
 
どうしてもこのときの印象が強いので、僕のなかで長島有里枝というと、今でもそれを基に考えてしまうところがあるからかもしれない。その後も何度か彼女と会うことはあったが、先頃、SCAI THE BATHHOUSEで開かれた個展『SWISS+』を訪れてみたときも、ふとこの「愛の部屋」のことが鮮明に記憶から呼び戻されて二重写しになるような奇妙な感覚に襲われたのだ。むろん、その間に作者が米国への滞在を経験したり、木村伊兵衛賞をとったり、結婚して子供を授かったり、パートナーとの別れを経験するなど、多くの経験を重ねたことは聞き知っている。にもかかわらず、いま『SWISS+』展を見るとき、これもまた別のかたちではあったとしても、まぎれもない「愛の部屋」なのだということを強く感じたのである。
 
少し順を追ってみよう。まず、この展覧会はそれに先立つ写真集『SWISS』(赤々舎)を前提としてつくられている。この本には、2007年に作者がアートプロジェクト「Laboratoire Village Nomade」のレジデンシープログラムにより、スイスの小さな街、エスタバイエ・ル・ラックに短期滞在した際に撮られた室内や庭の草木の写真で構成されている。ただし単に写真を並べたわけではない。ベースとなるのは滞在中に同伴した息子との関係を軸に変化していく彼女の心境で、その移ろいの様態が草木や室内へと反映され、驚くほどメランコリックな感情を結実させている。造本も表紙に何色かを用意し、随所で紙質を使い分け、彼女が綴った「日記」を収める器として機能する本書は、いわゆる写真集というより、新しいタイプの画文集と呼ぶべきだろう。

こうした本を下敷きにつくられた展示空間としての『SWISS+』展も、当然のことながら写真集の発行に合わせて、収録された写真を披露するというような単純な代物ではありえない。もともと『SWISS』のなかで居室に飾られていた何の変哲もなさそうな花の写真は、今はもう他界してこの世界にいない彼女の祖母が25年前に撮影したものだ。長島はスイス滞在中に、日本から持参したこの写真を当時の居室の壁に貼り、現在の風景として撮影し直した。つまり、祖母の撮った花の写真を収めたスイスの居室は、25年前の風景を入れ弧状に収めることで、写真を通じてもう一度それを2007年に彼女が身を置かれた場所へと呼び戻す行為でもある。つまり写真集であってもそこにはすでに往還的な時と場が圧縮されて収められていたのだが、展覧会でこのことは一層強調されている。
 

会場の壁には写真に加えて半鏡面状に来場者を映す反射板や、スイスの部屋窓からの風景を収めてゆっくりと動く映像などが加えられている。また、今回の展覧会のために壁を飾った展示の一部を撮影したモノクロ写真などが、ふたたび展示の壁に加えられることで時空の入れ弧は更に輪を掛けられ、見る者がいま居る場所の時間・空間をかく乱している。さっき見たあの写真は、いま見ているこの写真の風景に対して、いったいどのような時空に留められているのか。見る者はいちいちそんなことを考えながら、しかし、見るという経験としてはすべてが2010年という現在の時を逸れることはないということとのギャップに悩まされながら、頭の中の焦点を何度もまさぐりつつ、小さな部屋をさまようことになる。記憶の揺らぎと「いま」という定点の流動化から来る、この「さまよい」こそが『SWISS+』展の特徴なのだ。

それにしてもなぜ、それを僕はなお「愛の部屋」であると感じたのか。94年の愛の部屋に彼女は家族の一員として登場していた。その裸の一群の人たちを結びつけていたのはあきらかにある種の家族愛であり信頼関係であった。だから、当時の「愛の部屋」は、どんなに破天荒なポートレートに見えたとしても、どこかで揺るがぬ安心感がそれを後ろ支えしており、それが裸の家族というエキセントリックで、近親相姦さえ連想させる過剰さを中和していたと言える。けれども今回の『SWISS+』で、家族とはすでに他界者を含んでおり、息子と一緒に異国に滞在する作者にとって、自分がその一員である集団というよりは、みずからが家族を主宰し、子を育てる仮りの器となっている。『SWISS+』が濃厚に家族の気配を漂わせながら、実際には人の姿が写されず、自分の記憶を投影する半分鏡面状のスクリーンを通じてしか、ぼんやりとした自己(=鑑賞者)に届かないのは、単に時の経過を示すだけでなく、写真を通じて、「関係」ではなく「関係の離散」をどう表象するかというむずかしい問いを扱っているからだろう。けれども、どんなに不在の部屋と化したとしても、その不在感すら支えているのは依然として人への思慕と愛の念にほかならない。おそらく言葉を備えた『SWISS』に対して『SWISS+』が試みているのは、ある種の無言歌にほかならない。

写真(全て):長島有里枝『SWISS+』 2010年
SCAI THE BATHHOUSE 展示会場風景 
撮影:木奥惠三 

長島有里枝『SWISS+』展
2010年7月2日(金)〜8月4日(水)
SCAI THE BATHHOUSE 2F ビューイングスペース

長島有里枝 写真集『SWISS』
発行:赤々舎、5,250円

目次
連載 椹木野衣 美術と時評

Copyrighted Image