46:象徴としてのわいせつ — ろくでなし子と赤瀬川原平

※本連載での進行中シリーズ〈再説・「爆心地」の芸術〉は今回お休みとなります。

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「まんボート」とろくでなし子 画像提供:新宿眼科画廊

美術家のろくでなし子が再逮捕された。今年7月のときと同様、みずからの女性器をモチーフとする作品が、警視庁保安課より「わいせつ」に当たると疑われたことによる。もっとも、これはかなり異例の事態だ。というのも、彼女が先に逮捕された際に容疑をかけられたのも、今回と同様の内容だからだ。そのときは勾留決定に対する弁護人の準抗告が認められ、当人はそのまま釈放に至っている。つまり、逃亡や証拠隠滅の恐れがないということだ。それがなぜ同じ容疑で再逮捕なのか、辻褄が合わない。

もっとも、先に「同様の内容」と書いたが、厳密にはまったく同じではない。7月にろくでなし子が逮捕されたのは、「自らの女性器の3DデータがアップロードされているURLをメールで送信した(わいせつ電磁的記録媒体頒布罪)」疑いなのだが、今回は送信した相手が別とされている。しかしそうだとしても、それだけで再び身柄を拘束するほどの正当な理由に当たるとは、とても思えない。だからなのだろうか。警察はこれに加えてもう一つ、前回とは異なる容疑でも逮捕の理由を挙げている。それは「自身の性器を型取りして着色した『わいせつ物』をアダルトグッズ販売店で展示した(わいせつ物陳列罪)」疑いで、ショップのオーナーで作家の北原みのりも併せて逮捕されている。

けれども、データ配信による容疑が、最新の技術による克明な女性器の再現可能性によって仮に「わいせつ」に繋がるのだとしても、後者の「作品」には、そのような再現性がまったく感じられない。加えてそれが「陳列」されたのは公的な場どころか、はじめから個人的な関心を持つ来客しか見ることのできない「アダルト・ショップ」であって、過去にも同様の罪状がしばしば問われてきた街頭や美術館(しかもこれらのケースの多くは写真)と比べたとき、著しく公共性に乏しい。もし、アダルト・ショップで性別を問わず性器の形状をしたものを「陳列」することが罪に当たるのだとしたら、世にあまたある同類の店舗の責任者は、すべて逮捕のうえ、身柄を拘束されなければならなくなるはずだ。

ろくでなし子と共謀を疑われた北原は、東京地検が求めた勾留請求を東京地裁が却下したため、すでに釈放され、捜査は在宅のまま続けられている。が、ろくでなし子は現時点(12月22日)でも身柄は拘束されたままであり、当初は接見禁止付き(弁護人以外は家族などの面会も許されない)という厳しい措置を施されていた。さすがに接見の禁止は解かれたようだが、再逮捕といい勾留の継続といい、いささか常軌を逸しているとしか言いようがない。

ただし私は以下では、こうした不当性の主張とはやや異なる観点から文章を書いてみたいと思っている。それは、ろくでなし子と彼女の作品が今回このような扱いを受けていることに対して、同じ美術家たちや美術関係者たちの反応が、奇妙に鈍く感じられたからである。

端的に言ってしまえば、その理由は、今回の一件が不当であるとは感じていても、美術家としての「仲間の被害ではない」と考えているからではないか。ここでいう「仲間」というのは、必ずしも直接の知り合いであることを意味しない。むしろ、ろくでなし子のことを「美術家として認めていない=彼女の作るものは美術作品として価値がない」と考える関係者としたほうがよいだろう。もとより「他人」なのであれば反応が薄くなるのは当然だ。

では、彼女を他人とする美術界の(価値)判断はどこからやってくるのだろう。いくつかの理由が考えられる。まず、「ろくでなし子」というアーティスト名が、真っ当な芸術家が名乗るにはあまりにも「ろくでもない」(現在では国立の美術館に作品が収蔵されているChim↑Pom も、「チンポム」という響きが即、男性器を連想させるためか、当初より長く「自称アーティスト集団」」とされていた)。次に、作家自身が「まんこ」を多発するなど性器の扱いが「品性に欠け、軽薄かつ芸術的な重みに欠ける」。最後に、もともと「マンガ家」として活動するなどジャンルの狭間で制作しており、出自がアカデミズム=美大・芸大にない(これはChim↑Pomも同様であった)。ほかにもあるだろうが、いずれにせよ、ろくでなし子など「美術家としては語るに落ちる」と思っているからこそ、表現の自由はおろか、表現者が当の表現ゆえに接見禁止付きで身柄を束縛され続けるという異常な事態となっているにもかかわらず、「どこか対岸の火事」なのである。

話は飛ぶようだが、ここで今年の美術界をめぐる大きな出来事に赤瀬川原平の逝去があったのを思い起こしていただきたい。美術界にとって赤瀬川と言えば、真っ先に1960年代に美術界のみならず広く世を騒がせた「千円札裁判」ということになるわけだが、実は私は今回のろくでなし子の一件に、この千円札裁判と、どこか似たものを感じずにはいられないのである。以下、そのことについて述べる。


赤瀬川原平「模型千円札Ⅳ」1963年 作家蔵 協力:白石コンテンポラリーアート
画像提供:千葉市美術館

第一に、赤瀬川が彼の「模型千円札」によって逮捕され、最終的に最高裁で有罪が確定されたということは、単に「よくある」偽札事件(事実、偽造紙幣でないことは裁判官も認めている)などではなかった。ちなみに、東京高裁での同件に対する控訴棄却文がここで読めるが、そこに含意された有罪性は潜在的にはもっとはるかに根が深いように思われる。私が思うに、千円札を極めて克明に描き、それを公的な場で「陳列」し、あるいは印刷というかたちで「頒布」することが、国家の隠された「恥部」−−「しょせん」は紙切れが天下の国家を支えているという実も蓋もない事実−−を歴然と晒すという、権力にとって決してあってはならない行為に当たっていたのではあるまいか。いわば「象徴的な意味でのわいせつ行為」が、重大な「思想犯」に当たっているのではないか、ということである。

この点、赤瀬川とろくでなし子とのあいだには、紙幣ではなく性器であり、「象徴としての恥部」ではなく「生身としての恥部」という違いがあるにはある。だが、それまではしっかりと恥部として隠されていたはずのものが、たとえ「表現」とはいえ、改めて白日のもとに晒されることへの潜在的な「畏れ」が、赤瀬川のときと同様、今回の一件にも働いているように思えてならないのである。赤瀬川の模型千円札が国家にとっての恥部=盲点を精密にかたどった「模型」であったのと同様に、ろくでなし子による自分自身の女性器を用いた「模型」もまた、「恥部とは、そもそも誰にとっての恥部なのか」という、やはり極めて原理的な問いをあからさまにせずにはいない。

そもそも、ろくでなし子の性器は他の誰のものでもない、彼女自身のものである。これは、もともと自分のものを「陳列」(赤瀬川が画廊であったのに対しろくでなし子はショップ)しようが「頒布」(赤瀬川が印刷であったのに対してろくでなし子は電磁データ)しようが、それがなぜ罪とされなければならないのかという、きわめて根本的な問いへと繋がりかねない。ゆえにこの問いは、現行の社会的な秩序(=多くは男性による女性の支配)を維持するためには、決してあからさまに露出されることがあってはならない。が、具体的な被害者がおらず、被害に対する当事者性もないのであれば、せいぜいが抽象的な「わいせつ」で裁くしかないのであって、それは赤瀬川と同様、「みせしめとしてのわいせつ」でさえなく、「象徴としてのわいせつ」なのだ。

これは、ろくでなし子の作品や容姿、言動が一見して与える印象のように軽い問題では決してない。言い換えれば、だからこそ、そこには異例の再逮捕や身柄の拘束、接見の禁止といった過度の執拗さがはびこるのではなかろうか。たとえ警察がそのことをはっきりと認識していなかったとしても——いや、認識していない(=深く無意識化している)かもしれないからこそ。

ならば、新しい東京五輪を控え、赤瀬川原平が死んだのと同じ年に奇しくも起きた今回の「模型女性器」による逮捕劇が、今日、赤瀬川の「模型千円札」がそうなっているように、やがて美術史的な価値を得ることがないとは、決して言えない。いやむしろ、後世が女性にとって、より開放的な社会になっていればいるほど、その可能性は高い。そして、私たちはそのような世界の到来(現政権による政策的提言「女性が輝く」)を、進んで望んでいるのではなかったか。ろくでなし子による作品の「質」や作家の「名」が、「<美術>としての評価に値しない」などと考える、それこそ軽薄な「関係者」は、そのような「あるべき未来」の到来を疎外する側に、通俗的に加担していることに、単に気付いていない。あるいは、「模型千円札」に先立って、その原点として、赤瀬川に社会の恥部を晒す「まんこ」を扱った「患者の予言(ガラスの卵)」「ヴァギナのシーツ(二番目のプレゼント)」があったことを、単に忘れている。


赤瀬川原平「ヴァギナのシーツ(二番目のプレゼント)」1961/1994年
作家蔵(名古屋市美術館寄託) 画像提供:千葉市美術館

関連情報
ろくでなし子さん事件の経過(弁護団の山口貴士氏ブログより)

赤瀬川原平の芸術原論 1960年代から現在まで
千葉市美術館
千葉県千葉市中央区中央3-10-8
2014年10月28日(火)~ 12月23日(火・祝)
http://www.ccma-net.jp/

*千葉展の後には大分市美術館(2015年1月7日~2月22日)、広島市現代美術館(2015年3月21日~5月31日)に巡回予定。

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