41:再説・「爆心地」の芸術(17)竹内公太と福島(後編) — 絵画とツイッターの相関・往復

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竹内公太「エゴ・サーチ」連作 いずれも2013年、h.162.0 x w.130.3 cm、キャンバスに油彩
個展『影を食う光』展示風景 2013年、森美術館(いわき市) 写真提供:三凾座

ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が、かくも日常的なツールとして浸透した世の中にあっても、アートとネットとの関係はまだまだ「洗練」されたものとなっていない。そんななか、アートにおけるSNSの活用に関して新たな萌芽を私が見たのは、竹内公太によるツイッターを活用した一連の絵画への折り返しとその増殖である。本連載で一回のインターバルを挿み、<前編>に引き続き今回触れるのは、その竹内による福島県いわき市での個展「影を食う光」(森美術館)での展示である。竹内といえば、あの大震災直後の緊迫した福島第一原発に作業員として職を得て、「ふくいちライブカメラ」を指差すことでネット内を騒がせた人物であることが「公然の秘密」として知られる。が、同じお騒がせでも、その様相はいわゆる「炎上」とはまったく違っている。

竹内は先の「指差し作業員」としてのパフォーマンスで知られることから、アクティヴィストとしてのイメージも持たれているが、興味深いのは、その延長線上に、あえて油絵の制作を据えたことにある。

「油絵とツイッター」というのは、ごくふつうに考えれば、もっとも縁遠い組み合わせだろう。一方はキャンバスの表面に油絵具を塗り、経年変化をできるだけ低減するかたちで物質として定着させる。他方、ツイッターは、活字メディアのなかでも最も即効的な週刊誌やスポーツ新聞にも増して刹那的で持続性を持たない。いや、持続性がないからこそ好き勝手なことを呟き、ときにはそれが「炎上」することがあっても、思いも寄らぬ効果を生むのがツイッターの魅力でもあり脅威でもあるのだろう。

ところが竹内は、このツイッターならではの刹那的な情報伝達や移ろい易い性質を、あえて油絵として定着する方法を、愚鈍なまでに真面目に追求する。ネット内での炎上をねらう愉快犯と対比して言えば、真反対の「執着犯」であろうか。具体的にどうするのかと言えば、その手続きは以下の通りである。けっこう入り組んでいるので、筋道を整理しながらその過程を追ってみる。

竹内はまず、不特定「少数」の誰か「物好き」が、いかにもツイッターにアップしそうな行為を福島県内で行う。この点では、あの「指差し作業員」での誘導的なアクションを踏襲していると言えるだろう。では、なぜ福島県内でなのかと問われれば、あの原発震災以降、全国から「フクシマ」に寄せられる「偏見」が、それ以前であれば取るに足らないはずの行為までを「福島クオリティ」として受け取らせてしまうことを露呈(エクスポージャー)するためである。

具体的には竹内は、常磐線「いわき」駅の構内で雨のなか、頭にコーラの瓶を乗せて歩く行為(パフォーマンス)を行った。それ自体にメッセージがあるわけではない。震災後の福島県内(浜通り)で、周囲にとって脅威とはならない程度に奇異に映る——震災後の「フクシマ」では、そんな人があらわれても不思議ではない——行為を想定し、実行しているのだ。ありとあらゆる場所がネットに包含されうる情報化の対象となり、それを市民みずから進んで提供しようとする通報/偏在空間のなかで、竹内は、あえて呟かれそうな「フクシマ」的なる行為の計測を通じて、そのなかへと踏み込んでゆくのである。

もっとも、それが実際の電子空間のなかでどのように呟かれるかは、まったく保証の限りではない。みずから呟かれそうだと思慮して行ったアクションが、「現実の仮想空間」のなかへと参入できたかどうかについては他力本願であるしかなく、こればかりはあとから自分で調べてみるまで、様相はまったくわからない。

ゆえに竹内は、自身の行為の痕跡が「誰か」の手でネット内に拡散されようとしていないかどうか、検索エンジンを駆使して探し出すしかない。見つかれば行為は妥当であったことになり、見つからなければ有効でなかったことになる。そして見つかったなら、そのツイッターの画面そのものを油絵のモチーフに据え、できるだけ手を加えないかたちで忠実に模写するのである。


「エゴサーチ1」2013年 『第42回いわき市民美術展』展示風景 2013年、
いわき市立美術館 写真提供:三凾座

つまり、ここで竹内はメディアを駆使したアクティヴィストから一転、ネットの内部から事後的に見出された自分の行為の痕跡を、あたかも、それが「静物」や「裸婦」であるかのように描く画家へと身を翻す。その手つきが不器用であればあるほど、情報空間と絵画空間とのギャップもまた広がる。しかも速乾性のアクリル絵具ではなく、情報空間がシームレスであればあるほど対比的にもっとも鈍くて遠い、遅乾性の油絵具を使って、あえてキャンバスに描いてみせる。何重にもメディアをかいくぐって描かれているにもかかわらず、国家主導のメディア・アートは、そんな油絵をわざわざテクノロジーの産物として認知などするまい。加えて竹内は、この偽装(カモフラージュ)をさらに徹底してみせるかのように、この絵を「いわき市民美術」展に、わざわざ一般市民からの応募というかたちで送り出すのである。

いわき市での森美術館の個展で竹内がみせた複数の油絵は、実はこのもくろみに始まる第一作が、その後、ネットの内部空間を介して次々に別の形態へと派生していった様子を、ひと続きの連作として模写し続け、中断された過程の記録としていっせいに展示する試みなのである。


個展『影を食う光』展示風景 2013年、森美術館(いわき市) 写真提供:三凾座

ちなみにこの第一作は、いわき市との縁でこの回の審査員を務めていた美術評論家、南嶌宏の眼にとまり、みごと賞を射止めることに成功する。ツイッターの画面を描いた油絵を珍しいと思っただけなのか、それとも情報空間の入れ子構造を暗示するものとして積極的に評価したのか、それはわからない。ましてや、その描き手が福島原発事故現場での「指差し作業員」と同一人物であるなどと、はたして想像しただろうか。とにもかくにも、この絵は中央に飾られる「現代美術」としてではなく、過酷な原発事故を抱えた地方展の「公募作品」として、ひとまず日の目を見たのである。

だが、肝心なのはその先だ。竹内はいったん入賞したこの絵画作品を、今度は東京でのグループ展で、今度は「現代美術」として再展示し、同一のイメージをさらに別の場所へと転移させていく。そうなると、竹内のあの風変わりなアクションを「福島クオリティ」と呟いた張本人が偶然、この絵の前に立つことがないとも限らない。自分のあの日、あの時の呟きが、知らぬところでいつのまにか油絵になっていたことに気付いて、軽いショックを受けるかもしれない。もしかしたら、断りなく自分の呟きが写し取られ、絵として描かれていたことに、おおいに気分を害するかもしれない。しかし他方で、呟いた当の自分自身も、見知らぬ「誰か」の行為を許可もなく「福島クオリティ」と揶揄し、ネットに挙げていたことに気付き、にわかに身動きが取れなくなるにちがいない。

竹内の個展「影を食う光」に展示された一連の油絵は、これらのネット上でのやりとりが任意に繰り返された結果、得られた画面ばかりで構成されている。そこへと至る過程で、同様の油絵を展示する東京で二度目の機会となった「未来の体温」展(キュレーター=筆者、会場=ARATANIURANO、山本現代、2013年)では、会場での来場者による撮影とネットへのアップを原則、自由にし、当の油絵が再度、再々度、未知の情報空間に誰かの手で上げられるのを許容した。そしてそのあと、事後的に検索エンジンでもう一度、そのイメージが漂流してゆく姿を探すことで、直前までは油絵だったものの行方を探りあて、それをさらにもう一度、油絵に描くのである。そのなかには、写真家のホンマタカシが偶然、会場で写してツイッターに上げた画面までもが含まれている。ここでは、写真と油絵、油絵と情報、情報と写真といった区別は、もとより意味を失ってしまっている。


「エゴ・サーチ」連作 『未来の体温』展での展示風景 2013年、ARATANIURANO、山本現代
2013年10月5日(左:「エゴ・サーチ1」 右:「エゴ・サーチ2」)
撮影:木奥惠三(この写真のみ)写真提供:ARATANIURANO、山本現代(以降すべて)


2013年10月16日(「エゴ・サーチ1-1」〔右端〕が加わる。これは写真家・ホンマタカシが情報サイト「between the books」を通じて行ったつぶやきを元にしているが、作家はそうした事実を意識せず選んだという)


2013年10月25日(「エゴ・サーチ2-1」〔右端〕が加わる)


2013年10月31日(さらに「エゴ・サーチ1-1-1」〔手前右〕が加わった)

この意味で竹内の油絵の仮想化と、物質とのあいだを往還するその連鎖は、間を置けば火消しできる「炎上」などよりも遥かに鎮火が難しい。それこそ人知れずかたちを定めず燃え続ける油性の「火事場」なのである。

*竹内公太展『影を食う光』(森美術館、いわき市)は2013年11月22日〜12月23日に開催された。

著者関連情報

第48回MOT美術館講座 シンポジウム「1995年に見えてきたもの」
2014年6月14日(土)14:00~17:00
東京都現代美術館
登壇者:佐々木敦(批評家、早稲田大学教授)、椹木野衣、速水健朗(ライター、編集者)、南 雄介(国立新美術館副館長)
モデレーター:藪前知子(東京都現代美術館学芸員)
詳細:http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/chronicle1995.html#tabs=tabs-2

文明の踏み分け道で考える――北川フラムと“アート”を語る
「北川フラムを批評/批判(クリティーク)する」
2014年5月30日(金)19:00〜20:30
クラブヒルサイドサロン
ゲスト:椹木野衣
詳細:http://www.clubhillside.jp/series/fram/

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