20:再説・「爆心地」の芸術(1)  ルニット・ドーム、フクシマ、そしてラッキー・ドラゴン

2004年の夏、ちょうど蝉時雨が激しい今時分のこと、東京都立夢の島公園にある都立第五福竜丸展示館で、ある展覧会が開かれていた。『コラプシング・ヒストリーズ(崩落する歴史)』と題されたこの展示(キュレーター=アーロン・カーナー)には、日本からヤノベケンジと中ハシ克シゲが参加していた。
 
主会場となった展示施設は名にあるとおり、1954年3月1日、太平洋マーシャル諸島ビキニ海礁で行われたアメリカによる水爆「ブラボー」爆破実験で、大量の放射性降下物「死の灰」を浴び、被曝した日本のマグロ漁船、第五福竜丸の本体を保存、展示している。同船は被爆後、焼津港に戻るも、乗組員は急性放射線障害を発症。無線長であった久保山愛吉さん(当時40歳)は同年9月23日、帰らぬ人となった。

しかし、ことの甚大さはひとりの犠牲者を出すだけでは済まなかった。直後より、太平洋から大量の汚染魚が水揚げされ、国内では放射能パニックがまたたくまに広がったからだ。大量の汚染魚が処分され(たとえば、現在の築地市場正門横には、廃棄されたマグロが埋められたことを記すプレートが立っている。ただし、いわゆる「マグロ塚」は、築地市場の移転問題との兼ね合いで、第五福竜丸展示館の敷地内に置かれている)、同時に、かつて例を見ない規模の反核運動が日本全土を揺るがした。「ヒロシマ」「ナガサキ」がいったい何であったのか、国民が周知のこととなったのも、実はこの時期の運動と啓発によるところが大きかった(が、この運動の激化をきっかけに「原子力の平和利用」キャンペーンが大規模に張られ、「反核運動」が「原発という夢のエネルギー開発」へと巧妙にすり替えられていったのは皮肉と言うほかない)。
 
また、早くも同年11月3日には、この被爆事件を伏線とする東宝映画『ゴジラ』が公開されている。深海で生き延びていた約1億4000万年前の恐竜が、太平洋沖での水爆実験をきっかけに放射能を帯びた大怪獣「ゴジラ」ヘと変異し、首都東京に上陸するストーリーであるのは言うまでもないが、映画の冒頭では、第五福竜丸を連想させる船舶が水爆により被災するさまも描かれている。さらに岡本太郎もこの事件に衝撃を受け、第五福竜丸の被爆を描いた絵画作品「燃える人」(1955)を翌年に発表。このモチーフは後の巨大壁画「明日の神話」(1969)へと発展する。メキシコで制作されるも数奇な運命をたどり、現在は渋谷駅の通路に設置されているこの壁画への「添え足し」によって、Chim↑Pomが軽犯罪に問われて書類送検されたのは記憶に新しい(これについては椹木野衣「岡本太郎『明日の神話』をめぐる『レベル7』」、『新潮45』2011年7月号を参照されたい)。
 このように、特撮からマンガ、アニメに至る共通項としての核や放射能汚染による「ゴジラ以後」の系譜や、岡本太郎が後の美術家に与えた波及効果を考えたとき、戦後文化への潜在的な影響力として、「第五福竜丸」の持つ意味の大きさには、「ヒロシマ」「ナガサキ」を超えるものがあるとさえ言えるかもしれない。

ともあれ、こうして「第五福竜丸」=「ラッキー・ドラゴン」は、「ヒロシマ」「ナガサキ」に次ぎ、日本という「被爆国」を象徴することばとなった(4番目の符牒となったのがヒロシマの「島」と福竜丸の「福」を合わせた「フクシマ」であったことは歴史の奇縁と言うほかない)。
 そのことを考えるとき、毎年、広島と長崎で開かれる平和祈念式典に比べて、第五福竜丸の扱いは今日、あまりにも過少だと言わざるをえない。そもそも、この地に福竜丸が展示されることとなったこと自体が、一種の奇遇にほかならない。後に文部省の手で買い上げられ、除染のうえ東京水産大学の練習船(「はやぶさ丸」)となった福竜丸だったが、1967年、夢の島に隣接する埋め立て地に廃棄(超粗大ゴミ?)されているのを東京都の職員が発見。これをきっかけに保存運動が起こり、結果的にいまの地に展示施設が建つことになったのだ。筆者がこの地を初めて訪ねたのは冒頭でふれた展覧会がきっかけであったが、都心から遠隔であることや、第五福竜丸の「事件」そのものが風化しつつあった時期にもあたり、いささか寂しい思いをしたことを覚えている。
 が、「第五福竜丸」はいまこそ顧みられてよい。東京電力福島第一原発で過去に例をみない大規模な放射能漏れ事故が起こり、広島型原爆を遥かに超える放射能汚染がばらまかれ、国土や人身、具体的には呼吸や飲食・生殖といった生命の原理的次元にまで汚染が及ぼうとしている現在、日常に忍び寄る放射能の恐怖や、反核運動から原発推進へとシフトした戦後日本社会の政治・行政・高度成長の曲がり角という点でも、第五福竜丸をめぐる被爆事件は、現在の原発震災へと至る最大の伏線として考えることができるからだ。
 
話を戻そう。2004年、中ハシ克シゲがここで発表したのは「オン・ザ・デイ・プロジェクト」と題された作品だった。この展覧会に参加するにあたり、中ハシは、かつてアメリカによる水爆実験が行われたマーシャル諸島のエニウェトク環礁にあるルニット島を訪ねた。そして、その一角にある、どうみても南島に似つかわしくない円形のコンクリートによる巨大な造形物「ルニット・ドーム」−−−−実は、かつての水爆実験で汚染された島の土壌を一箇所に集め、汚染の拡大を防ぐためにドーム状にセメントで固めて蓋をしたもの−−−−の表面を、日の出から日没にかけ、7秒ごと12時間を費やし、延べ15メートル×3メートルにわたる数千枚の写真に収めた。さらに帰国後、参加者を募りこの写真を貼り合わせ、第五福竜丸の直近でその様子を再現したのだ。
 
ラッキー・ドラゴンとルニット・ドームの「夢の島」での出会い−−−−それは、放射能によって広範囲にわたって汚染された、いまも日本に眠る多くの事実をあぶり出す。第五福竜丸の被爆事件以後、自国の信託統治下に置いたこの海域で、アメリカは、1946年から継続的に核爆破実験を行っていた。これらの実験は、第五福竜丸の事件以後も58年まで総計67回にわたって試行され、その総量は広島型原爆にして7000発分に相当するという。
 
もちろん、マーシャル諸島が、いまも昔も無人地帯でないことは言うまでもない。それどころか、この地は島民が長い時を経て育んだ高い文化が根づく土地でもあった。多くの島民は、事前にさしたる情報も与えられることなく避難を強制された。が、被災の規模は甚大で、実際には避難は意味をなさなかった。多くの島民が被曝を余儀なくされた。先のルニット・ドームが建造されたのは、実験から数十年を経て、彼らがなんとか島に帰るために建造されたものだ。もっとも、汚染された島の畑や海がもとに戻るわけではない。島民たちは、かつてともにあった農耕や漁猟から離れざるをえず、現在では缶詰などで生活することを余儀なくされているという。これなども、福島を中心とした被災地で、これから起こるであろう事態を不気味に暗示せずにはいない。
 かつて、『戦争と万博』のなかで僕は、このルニット・ドームについて触れ、次のような一節を書き記した。

「ヒロシマ・ナガサキ」だけではない。太平洋の島民たちや、さらには日本国民全体が、すでに「ヒバクシャ」であるかもしれないのだ。「ヒバクシャ」とは、ほかでもないわたしであり、あなたでもありうる。いや、地球市民のすべてかもしれない。(中略)つまり、1950年代からすでに、問題は「いかに核戦争を回避するか」ではなく、「いかに核戦争後の地球を生き残るか」となっていた。となっていた。その意味では、その後、日本のサブカルチャーを中心に繰り返し描かれて来た、核戦争後の地球を舞台にした近未来SFは結果的に、当時、地球で起こっていたことへのアクチュアルな反応であった。
(椹木野衣『戦争と万博』、2004年、美術出版社、337-338頁)

こうして、国土や人身のみならず、文化もまた、数十年にわたり、あらかじめ「被曝」している。いま日本で起きている原発震災が前例なき深刻な事態であることは間違いない。が、それは、僕らが、すでに「ヒバクシャ」であり続けてきたことをも同時にあかるみに出す。そのような「爆心地」を潜在的に「どこでも」抱える場所で、はたしてどのような芸術が可能であるだろうったか。かつて『「爆心地」の芸術』(晶文社、2002年)を世に出した者として、以後数回にわたり、あらためて「爆心地の芸術」とは何なのか、そのことの意味について考えていきたい。(続く)

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