15:「わたし」に穿たれた深くて暗い穴(後編)

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「休日診療所」

これを読んでいるひとのなかには、「わたしのすがた」を見た人も数多くいると思う。そのなかの少なからずの人が、なにかよくわからないけれども、順路をめぐり終えても根強く残り続ける心的な刻印を受けたのではないだろうか。にしすがも創造舎で受付を済ませて校庭に空いた「はじまりの穴」から始め、人によって費やす時間は違っただろうが、最後の「休日診療所」を出て街に出ると、世界がもう前のようには見えない。そう感じた人は少なくなかったはずだ。あれから時間が過ぎて、きっとあなたは世界についての感覚を取り戻していることだろう。「休日診療所」から出たあとの、あのとりつくしまのない、帰る宛を失ったような感覚は、多分もうない。あれほど心を動かされたようでも、意外に忘れてしまっている−−−−−もっとも、その方が健全だ。あのような余韻が途切れずに続いたら、人はもう元のようには暮らしていけない。でも、本当に僕らは「はじまりの穴」の前の世界に戻れたのだろうか。本論の手掛かりに、まずそのことについて考えてみたい。


「休日診療所」

「わたしのすがた」を見たあとで、世界がもう前のように見えなくなっていたのは、いったいなぜなのだろう。そのときの心の状態を、試みにいま思い起こしてほしい。たしかに、僕らが小さな地図を頼りに歩いた3軒の家は、「ふつう」ではなかった。最初の「だいだいの家」は愛人として囲われた女性が年老いてなお一人で住んでいた“しもた家”だった。2軒目のもっと大きな「半分の教会」は文字通り、元はかつて隣接していた教会につながっており、その後はある宗教教団のための女子寮として使われていたという。そして3件目の小さなビルは、地域の休日診療所として広く利用者を受け入れる公共性の高い施設だった。それぞれの建物は、飴屋らの手によって大規模に手を入れられ、様子を一変させていた。その変貌がどれくらいのものであったかは、会期を終えたあと、借用した不動産を現状復帰した状態で一日だけ公開した「跡展」で実際に確かめることもできた。けれども、その程度はこの際あまり重要ではない。それぞれの空き家に施された仕掛けは、そもそも「表現」ではなかったはずだからだ。少なくとも、それは美術家が既存の施設を再利用して行うようなたぐいの「作品」ではなかった。前編にも書いた通り、それぞれのしつらいは、そこが空き家になる前に住んでいた人たちの「気配」を浮かび上がらせるためになされているかのようだった。むろん、飴屋はその人たちのことを直接には知らない。だからだろうか。代わりに彼は、自分がもっともよく知っているはずの、けれども、もう居ない人たちがこの世に遺した「物」を使って、そうした他者の気配を復元する際に意識が向かう具体的な行き先をつくり出している。その結果、なにが起こったか。
 

「だいだいの家」 

端的に言えば、「すべての家」は、いずれあのような家になりうるし、潜在的には「あなたの家」なのだ、ということではなかったか。つまり、それは仮想的には「わたしの家」でもありうる。たとえば、たったいまあなたが住んでいる家や、これを読んでいるその部屋が、何らかの事情で住めなくなり、あなたと家族がそこから引き払ったとする。すると、その家はどうなるだろうか。あるいは、すぐに誰かがそこを気に入って借りるかもしれない。けれども、そのような不動産の流通が可能になるためには、前に住んでいた人の気配がうまく消されていなければならない。壁を白く塗ったり、フローリングを張り替えたり、使い込まれたカーテンが外されたりして、家全体にわたって更新がなされる必要がある。そうでなければ、なかなか借り手はつくまい。別にそこで陰惨な事件が起こったからというのではない。誰かが住んでいたということが気配や痕跡として残っているということ−−−それだけで人は、「放っておけば思い出さなくてもよいこと」を思い出してしまう。
 

「半分の教会」

「放っておけば思い出さなくてもよいこと」というのは何だろうか。それについては各人にしかわからない。人には人のそれがある、としか言いようがない。はっきりしているのは、人には必ず、心の底に眠る「家」(かつて住んだ、あるいは、いまの家のかつての有り様)の中に、そうした“出来事”を残しているということだ。「わたしのすがた」は、「この家が空き家であるのは、いまここに人が住んでいないからではなく、かつて誰かが住んでいたからだ」ということを、来場者にいやおうなしに想い起こさせる。そして、「すべての家には、純粋に空き家という状態はなく、誰かが住んでいた家を、その気配=痕跡ごと引き継ぐのだ」ということがわかってしまう。壁紙の交換や床板の張替えは、そのことを忘れさせるための一種の儀礼のようなものに過ぎない。
 
ところが飴屋は、不動産からこの「儀礼」を−−見掛けに反して−−きれいさっぱり排除してしまう。言い換えれば、交換や張替えといった「更新」ではなく、家を引き継ぐということの事実性や気配の残留の方を露呈させてしまうために、家に手を加えるのだ。その点では、「あなたのすがた」には何ら神秘的なものはない。いっそ、本当に幽霊でも出てくれたら、そちらの方がよほどわかりやすい。代わりに僕らは、「いつだって、どこかには住んでいる」という扱いのむずかしい真実に気付いてしまう。同時に、「いつかは、どこかに移り住む」という変えがたい宿命のようなことにも。言い換えれば、いまあなたが住む家も、いつかは「わたしのすがた」のようになる。つまり、「わたしのすがた」で僕らが見たあれらの家は、そういう手続きを踏んだ上で言えば、やはり「あなたのすがた」でもあるはずなのだ。いつか、空き家になったあなたの家に、次の居を求めて誰かが入り込んでくるだろう。その誰かは、かつてそこにあなたが住んでいたことを知らない。当然だ。そんなことが生々しくわかってしまったら、不動産は「資産」たりえなくなってしまう。けれども、すべての不動産は、潜在的にはこの流通のむずかしさを含み込んでいる。「わたしのすがた」は、不動産というものに取り付いている、このとてもやっかいな特性をあぶりだすための、一種の反儀礼的な介入ということもできる。

霊がとりついているから人が寄り付かないのではない。そこに誰かが住んでいたことがわかってしまう事の方が、人をその家から遠ざける。この意味では、霊とは死人や行方知れずの誰かではなく、「あなた」のことにほかならない。当の<あなたのすがた>こそが、家に取り付いた「地霊」であり「霊障」なのだ。
 
その意味では、最後の「休日診療所」を出たあとで、道々に並ぶすべての家や建物が、「わたしのすがた」に出てくる「廃屋」のように見えたとしても、そこに何も不思議なことはない。どれも、いずれは順番に廃屋になることを待っている、そんな家々であることにちがいはないからだ。そしてあなたこそが、その家の当面の番人なのだ。

「わたしのすがた」
2010年10月30日〜11月28日
『フェスティバル/トーキョー10』
東京芸術劇場、にしすがも創造舎、あうるすぽっとほか池袋駅周辺

写真提供(全て):フェスティバル/トーキョー10 
©片岡良太 

目次
連載 椹木野衣 美術と時評

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