47:追悼・三上晴子 — 彼女はメディア・アーティストだったか(1)

※本連載での進行中シリーズ〈再説・「爆心地」の芸術〉は今回お休みとなります。

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「Molecular Informatics ~ morphogenic substance via eye tracking (Version 1.0)」、1996年、Canon ARTLAB、ヒルサイドプラザ、東京 Photo: Mikio Kurokawa 画像提供:多摩美術大学(以降すべて)

三上晴子の訃報は、まったく唐突な知らせだった。同じ大学で教鞭を執る関係から、正月明け早々に、まだ非公開の段階で不意打ちのように同僚から聞いた。にわかには信じられなかった。

もっとも、三上とは所属する科が違うこともあり、大学で顔を合わせる機会はほとんどなかった。せいぜい教授会でたまに目にするくらいだった。いま思えば、もっといろいろ意見を交換しておくべきであった。自分でも意外なくらい悔いが残る。

私は、かつて三上晴子の作品への激しい批判者だった。
私が大学を卒業し、京都から東京に移ってくる前から、三上の活動は始まっていた。その頃、三上は「新人類の旗手たち」のひとりであった(*1)。いわゆるニューアカデミズムが発する軽やかな知の輝きに彩られた80年代の文化シーンは、出版界やメディアを中心に、眩しいくらい活発に躍動していた。東京はその本丸だった。同世代の女性で言うと、ちょうどいま世田谷文学館で回顧展が開かれている岡崎京子がいたし、美術界では「超少女」と呼ばれた青木野枝、前本彰子、吉澤美香(「吉」は正しくは「土」に「口」)らが「ポストもの派」の延長線上にデビューし、各所でもてはやされていた。松本小雪や戸川純といった個性の強い尖ったタレントも現れた。まるで口裏を合わせたように、みなショートカットでパンキッシュだった。そのことの意味について、いまは問うまい。そんななかでも、三上晴子の存在は、暗黒世界からの闇の使者のように、ひときわブルータルな存在感を放っていた。


「New Formation of Decline 滅びの新造型」、1985年、
恵比寿ビール工場研究所廃墟(現ガーデンプレイス)、東京

美術家としての三上の活動は、1984年に遡る。使途を逸した鉄屑を都市の「骨」に見立て、その残骸が樹海のように広がる奇怪なインスタレーションを作り始めたのだ。その最初の衝撃となったのが、翌年にエビスビール・ファクトリー(恵比寿)で開かれたデビュー展「滅ビノ新造型」だった。ここで三上はあきらかに、当時ベルリンからの衝撃として日本に伝えられていたブリクサ・バーゲルトを中心とする破天荒なロック・バンド「アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン(崩壊する新建築)」の影響をもろに受けている。この個展のタイトルが同じバンドの三上なりの訳語であることを、私は先日、劇団「東京グランギニョル」を主宰し、最終公演となる「ワルプルギス」(1986年)から三上を舞台美術に起用し、パートナーとなる飴屋法水から聞いて初めて理解した(*1)


「Cross Section of Cable Neuron System」、1986年、
Iikura Atlantic Underground Shelter(地下施設)、東京

その後も三上は、都市のインフラに川のように張り巡らされた各種ケーブルを神経系に見立てた「BAD ART FOR BAD PEOPLE」(Iikura Atlantic地下、1986年)、骨から神経に続いて脳をモチーフに据えた「Brain Technology」(作家のスタジオ、1988年)を経てニューヨークに渡る。そして、ロバート・ロンゴによるキュレーション展への参加を経て、戦争や情報といった生体を超えるネットワークへの関心を募らせ、それまでのモチーフであったジャンクと合体させ、この時期の展示の集大成となる「Information Weapon 1」展(トーヨコ・グローバル・エンバイラメント・ラボラトリー、1990年)を開催するのである。


「Information Weapons:スーパークリーンルーム」、1990年、
トーヨコ地球環境研究所、横浜

私が上京して三上の作品を初めて見たのも、この展覧会であった。同展の会場となったのは、特別に作られた無塵室を持つ研究施設で、鑑賞者は途中で——まるで原発作業員のように――白い防護服に着替え、身体の輪郭を覆う人工の皮膜越しに三上のインスタレーションを間接的に体験する。

私がこの展示に違和感を持ったのは、それがひどく中途半端な試みのように思われたからだ。すでに東西冷戦を象徴するベルリンの壁は壊れ、人類の滅亡に怯える破局的な全面的核戦争の時代は終わりを告げていた。それに代わって、新たな目に見えない情報戦争が始まろうとしていた。目に見える破壊と目に見えない破壊とのあいだで、戦争の性質も大きく変わろうとしていた。三上の作品は、無塵室を使うという「目に見えない」次元に歩を進めつつあったにもかかわらず、そこに置かれた作品は、相変わらずジャンクの基板で作られた核弾頭ミサイルのようなオブジェ彫刻だった。「インフォメーション」は無色透明なのだから、それは計算や外交の問題なのであって、そこに冷戦期の名残である「ウェポン」の美学がジャンクまがいで忍び込むのは、時の逆行ではないか——それが私の主なる批判であった。

同じ観点から私は、同じ頃に三上と離れた飴屋法水が新たに結成したアート・ユニット「テクノクラート」による、やはり軍事兵器風の大規模インスタレーション「WAR BAR」展(青山246Club、1990年)を批判した。当時、私が目指していたのは、こうした一連のニューアカ以降の流れを文化シーンから一掃することだった。そのために私は『シミュレーショニズム』(1991年)という最初の評論集を書き、それを起点に、ニューアカに代表される海外の現代思想下におらず、むしろドメスティックなオタク文化の強い影響下にあった新世代の美術家たち、すなわち村上隆、ヤノベケンジらと活動していくことになった。

もっとも、その活動の拠点となったレントゲン藝術研究所の設立者であり、ディレクターでもあった池内務が、飴屋の演劇の熱烈な支持者で、なおかつ三上のオブジェ彫刻のコレクターであったことは、私にとってたいへんな皮肉であった。いわば、同世代でありながら時代を分ける美学/反美学の担い手が、同じスペースで共存することになったのである。だから、いまからは意外に思われるかもしれないが、のちに「ネオポップ」(『美術手帖』1992年3月号特集)とも「東京シミュレーショニズム」(中ザワヒデキ)とも呼ばれることになる動向が仮想敵としていたのは、「現代美術」の世界で直前まで受け継がれていた「もの派~ポストもの派」の流れだけではなかったのである。その最初の一撃に据えたのが、私が初めて展覧会のキュレーションを手がけた「アノーマリー」展(レントゲン藝術研究所、1992年、中原浩大・村上隆・ヤノベケンジ・伊藤ガビン参加)である。むろん、そこに三上や飴屋の名はなかった。

冷戦からグローバリズムへの移行によって、冷戦期の美学/反美学的イメージもまた全面的に意味を失う――こうした私の批判の結果であったのかどうか、それはわからない。が、1990年を挿み、前年の11月9日にベルリンの壁が意味を奪われ、1991年12月26日に世界最大の国家であったソ連が、まるで幻であったかのように消え去った頃から、三上の作品にも、大きな変化が生じ始める。やがて、彼女はそれまでの仕事をすべて封印し、メディア・アート(という言葉さえ定着していなかった)の黎明期を担う美術家として、いわば新たな再出発を機すことになる。しかし、はたして三上晴子は最終的には「メディア・アーティスト」だったのだろうか? 私にとっての三上への追悼とは、その再検証を意味する。(続く)


1. 「筑紫哲也の若者探検 新人類の旗手たち 18」、『朝日ジャーナル』1985年8月23日号、55~60頁
2. 同じく飴屋から、私は三上が「つくば科学万博」(1985年3月17日~9月16日)での、当時世界最大のテレビ・モニター「SONYジャンボトロン」(25×4m)を使った、雨中での最終日前夜の特別プログラム「TV WAR」(コンセプト=浅田彰、ビデオ=ラディカルTV<原田大三郎+庄野晴彦>、音楽=坂本龍一、9月15日開催)に映像を提供していたことを知った。しかし三上は、本プロジェクトの記録が後にDVD化(2005年)される際、みずから作成した映像パートを(おそらくは本人の意思で)削除している。

※2015年3月16日追記:美術ジャーナリストの鈴木芳雄氏よりご指摘を受け、以下の記述を訂正させて頂きました。
・無菌室→無塵室
・基盤→基板

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