30:再説・「爆心地」の芸術(10) 核と新潟(後編)

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アン・グラハム「Shinohara’s House」より(会場:五ケ浜・篠原幸三郎家住宅) 写真提供:水と土の芸術祭実行委員会

新潟(以下、ここでは新潟市の意)が、かつて小倉と並び、原子爆弾の投下目標の候補になっていたことは、今ではよく知られている。実際には8月6日=広島、9日=長崎へと落とされたわけだが、後者の投下は小倉上空の気象条件が悪く、迂回した帰路に長崎に落としたのだった。マンハッタン計画でつくられた原爆は合計4つとされている。最初のひとつは実験のためニューメキシコの砂漠で使われていたから、実戦に使える原爆はまだ3つあったことになる。終戦の直前、4つのうち2つはすでに広島・長崎に投下され、先に小倉は失敗していたわけだから、残りのひとつが新潟に落とされる可能性は十分にあった。実際には日本が二発の原爆投下から早々に降伏したことや、ほかにも諸説(出撃拠点からの距離、都市の規模など)があり、結果的に新潟に原爆が落とされることはなかった。けれども、前にふれた通り、同じ県内の長岡市には演習の一環としてすでに模擬原爆が落とされていた新潟への原爆投下は、水面下では着々と準備が進められていたと言っていい。

そもそも、この「模擬原爆」という言葉自体、近年になってやっと知られるようになった。同じように、当時のひとには「原爆」という言葉じたい知らされていなかった。広島ではその閃光と爆発からの連想で「ピカ−ドン」と呼ばれ、国はその実体をなかば知りながら、核兵器の威力を伏せて「新型爆弾」と呼んだ(僕らになにが知らされていないかなんて、今なおわかったものではない)。

知られていないといえば、僕自身が最近になって知った言葉に、「原爆疎開」というものがある。原爆疎開とは、あらかじめ原爆の投下を予想して、目標となる地域から脱出することを言う。これが実際に起きたのが、ほかでもない新潟市だったのである。

この原爆疎開について、現在、新潟市議を務める中山均氏のブログに、驚くべきことが書かれている。参考までにそのURLを記すが(http://green.ap.teacup.com/nakayama/121.html)、要約すれば次のようなことになる。

広島・長崎に投下されたのが新型爆弾であることが伝えられると、新潟県は職員を広島に派遣。現地には入れなかったものの、その足で内務省を訪ね、新潟市がこの新兵器の投下候補になっていることを知る。報告を受けた県は臨時に会議を招集。激論のうえ、国の方針に逆らうかたちで市民の「徹底的かつ緊急の疎開」を決定。原爆疎開が現実のものとなったのである。

結局、この疎開は不用であったわけだが、あの3・11以降、この疎開を愚策と笑うことはできまい。いまなお原発震災が収拾せず、法律上の放射線管理区域に等しい汚染がまだら状に散見されるなか、少なからずの自治体が国の方針に縛られ、公的に住民を避難させられずにいるのである。

核と新潟の由縁は、このように多様かつ根深いものがある。戦後となり、原爆という大量破壊兵器が、原発という原子力の平和利用へと変わってからも、県はいぜん、核との因縁をもち続けた。それは現在にも及んでいる。なかでも、2007年の中越沖地震で柏崎刈羽原発内の敷地が大きく歪み、施設の一部から黒煙が昇る様がテレビから中継された日のことを忘れることはできない。当時、僕は研究員として招聘されロンドンのアパートに住んでおり、その様子をネットで見て怖れおののいた。もし大量の放射性物質が漏れ出す過酷事故に至れば、東京だって危ない。僕は遠い地から家族のもとに安定ヨウ素剤と防護マスクを手配した。原子力の危険性について本気で調べ始めたのは、あの新潟での地震と事故がきっかけだった。

そのおかげで、と言うべきか、3月11日の地震のあと、原子炉がメルトダウンし(事故直後、すでにテレビはこの言葉をさかんに発していたが、すぐに燃料の破損という言い方に変わった)、漏洩した放射性プルームが都心に到達した3月15日、すんでのところで妻と子どもを連れ西へと飛ぶことができた。水や燃料の備蓄もあったので「買い占め」に走ることもなかった。「原子炉はメルトダウンしない」「東京に放射能はやってこない」といった「風評」に惑わされることもなかった。

このように、僕にとってこの地は、核をめぐる悪夢の記憶と結びついている。他方、新潟は原発建設の是非を決するため、日本で初の条例による住民投票が開かれ、結果的に反対派が圧勝。東北電力による原発建設計画が白紙撤回された旧・巻町(市町村合併により2005年に新潟市に編入された)を抱える場所でもある。1996年、この地で行われた投票は投票率が88.29%に及び、6割を超える住民が原発の建設にはっきり反対の意を示したのである。


関連資料に見る角海浜の風景:左は『角海浜物語 : 消えた村の記録』(和納の窓叢書)、右は『写真集 角海浜』(巻町双書)。いずれも著者は斎藤文夫。

当時、建設予定地となっていたのは、角海浜(かくみはま、現在は新潟市西蒲区に位置する)と呼ばれる三方を山に囲まれた海岸だった。いまでは人気もなく、建設予定だった頃の東北電力の看板が残る寂しい土地となっていると聞く。が、江戸時代には小さな漁村として集落を形成し、「越後の毒消し」の発祥地としても知られた。賑わいが失われたのには、実は理由があった。海底の地形からか、昔から頻繁に「マクリダシ」と呼ばれる浸食現象に晒され、海に面した土地を根こそぎ流出させてしまうのだ。度重なる被害の結果、村の海岸線は一時と比べ600メートルも後退してしまったという。村民は次第に出稼ぎに頼るようになり、近代製薬業に押されて「毒消し」も衰えると、一方的に進む過疎を押しとどめることもできなかった。1969年、この地に東北電力から原発誘致の話が持ち上がったのは、そんな時期にあたっていた。

いま思えば、これほど矛盾した話もない。マクリダシと呼ばれるほど苛烈な浸食作用があるからこそ衰退せざるをえなかった場所に、わざわざ地盤の安定と水害への対策が必須となる原発を持ってこようというのだから。けれども、そうした理不尽が国民にとって周知のこととなるには、あの東日本大震災を待つしかなかったのだ。

すでに会期は終わっているが、新潟を舞台とする「水と土の芸術祭2012」では、この旧・巻町の角海浜地区からほど近い五ケ浜にも、会場が設けられていた。残念ながら、僕はこの展示を見ることができなかったのだが、篠原幸三郎家住宅でのアン・グラハムと、阿部利吉家住宅でのイリーナ・ザトゥロフスカヤがこれにあたる。また後者では五ケ浜に直接、痕跡を刻む作品も見られたようだ。


左:アン・グラハム「Shinohara’s House」より(会場:五ケ浜・篠原幸三郎家住宅)
右:イリーナ・ザトゥロフスカヤ「Basyo.comーーバシコーム(裸足で)」より「100本の箸」(会場:五ケ浜、2012年5月30日) 写真提供:水と土の芸術祭実行委員会


イリーナ・ザトゥロフスカヤ「Basyo.comーーバシコーム(裸足で)」より「富士山は五つの鏡に自分の姿を映す」ほか(会場:五ケ浜・阿部利吉家住宅) 写真提供:水と土の芸術祭実行委員会

原発計画の跡地そのものに会場を据えたものではないものの、前者はもともと角海浜にあった典型的な民家を移築したものであり、その至近に複数の展示を設けたことに、僕はこの芸術祭からの強いメッセージを受け取る。遠からず、かつては「水と土の芸術」の名にふさわしい美しい「鳴き砂」でも知られ、反面、恐ろしいマクリダシで存亡を揺さぶられた角海浜という土地を、この眼でしっかりと確かめてみたい。

「開港都市にいがた 水と土の芸術祭2012」は2012年7月14日(土)から12月24日(月)まで、万代島旧水揚場ほか新潟市内各地を会場に開催された。

詳細:http://www.mizu-tsuchi.jp/

筆者近況:昨年末に第1回配本が始まった小学館の『日本美術全集』(全20巻)にて、椹木氏が19巻「拡張する戦後美術(戦後~1995) 」の編集監修を担当。発売は第16回配本=2015年6月25日。

詳細:http://www.shogakukan.co.jp/pr/nichibi/lineup.html

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