Curators on the Move 16

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト+侯瀚如(ホウ・ハンルウ) 往復書簡
私的、かつパブリック

 


Sun Xun (孫遜)- Stills from The New China (2008), animation video, 15 min 19 sec. Courtesy the artist and ShanghArt.

 

親愛なるHUOへ、

君からの手紙、興味深く読ませてもらったよ。アルファベット順のリストに書かれていた事は、今日のアートシーンにおける最も挑戦的で刺激的な問題のいくつかに触れていた。グローバリゼーションとテクノロジーの発達によって、急速に変化している社会とアートシーンとの関係性について特に言及していたね。「世界をキュレーションする」、21世紀のツールボックスとしてキュレーションを考えるという君の着想は、野心的で魅力的だ。また、われわれの生活や思考におけるインターネットのヘゲモニーへの対抗措置としての手書き(およびドローイング)という切り口は、今日の状況をとてもよく言い当てていると思う。君のテキストは、アーティストやキュレーターだけでなく、コレクターや美術館等の公共機関をも含めた、文化を生産する人々の役割に関して、作品や文化的生産物とその存在論的実体との本来的な関わり方への回帰を、非常にタイムリーに喚起している。われわれの本質と行動の密接な関係とその重要性について想起させてくれる。

活気あふれる中国アートシーンでの最近の発見は、手書きアニメを映像化した作品の新しいムーブメントだ。アーティストたちは作品を通じて、当局の見解である「真実」に抵抗したいという深遠でダイナミックなイマジネーションへの欲求を反映しつつ、パーソナルかつオルタナティブな「歴史」の物語を模索している。陳劭雄(チェン・シャオション)、邱黯雄(チウ アンション )、中でも活躍がめざましい孫遜(スンシュン)といった作家たちがこのムーブメントを牽引している。サンフランシスコ・アート・インスティテュートでは、僕が企画したダン・ペジョヴスキの展覧会がオープンした。ペジョヴスキは、マーカーによるドローイングとマスメディアのロジックにみる矛盾を風刺したテキスト(「グローバルなメディア言語」のだじゃれをユニークかつ挑発的に駆使)で展示空間を覆い尽くした。その隣には、それぞれに日にちの描かれた7つのペインティングが、世界各国にある19の幼稚園を旅し、各会場に最も私的な方法かつ子供たちの教育上押し付けにならない形で展示するという河原温の『Pure Consciousness』プロジェクトを展示した。

 


Chen Shaoxiong(陳劭雄) – Stills from Ink Diary (2006), animation video, 3 min 55 sec. Courtesy Boers-Li Gallery.

 

これらの私的なものへの回帰は、芸術の創作における究極的な原動力は何かという事をわれわれに思い出させてくれる。僕たちはグローバル・コミュニケーションの時代に生きている。文化所産は、社会的および経済的交換取引のメディアとしていや応なく商品化され手段化される。アートはますます「関係の美学」の具現として、またはステータスシンボルとして消費されている。この点に関しては、夢のため、さらには社会的ユートピアのために、今こそ私たちがアーティストと作品の間の私的で親密な関係、および、(アーティストの)思考や表現の自由に対する終わる事のない追求を具象化するという行為性を敢然と受け入れるときなのである。

キュレ—ターという仕事は、以前にも増して様々な役割を与えられつつある。僕たちは、展覧会を企画し実現するだけでなく、アート界の発展にまつわるすべての要素に直接関わり働きかける。そしてアートの境界はますます広がりを見せ、文化的、社会的、政治的プロジェクトから都市開発まで、ありとあらゆる分野を取り扱う様になりつつある。必然的に、拡大する市場のヘゲモニーと折り合いをつければならない。過去10年間で、現代美術イベントの関心はビエンナーレからアートフェアーへと移行してきた。世界主要都市のほとんどがアートフェアーを主催し、場合によっては2つ以上のフェアーを開催している。芸術的価値と経済的価値の狭間で混乱が広まっている。

この傾向は、好景気と都市化を背景に、グローバリゼーションが強烈に爪痕を残すアジアにおいてより顕著である。「老舗画廊」とオークション会社の合併に代表される同地域でのアート市場の発展は、グローバル化のプロセスを物語るおそらく最も鮮烈な例であり、前出の価値の混乱を示唆する最も明白は兆候ではないだろうか。僕たちは、職業上こうした状況に対処していかなければならない。去る5月に開催されたArt HK(今回で3回目になる香港のアートフェア)は、その集客力と取引成立率において大成功を収めたと言われている。ShContemporaryはその第4回目を9月に上海で開催するにあたり、より大きな成功を収めるべく、あらゆる方法で努力をしている。興味深い事に、君は前回のフェアーに、教育プログラムのスピーカとして参加しているね。僕は今、第4回目のフェアーの一環として、アジア現代美術の収集/所蔵をテーマにした公的機関向けのフォーラムを企画している。皮肉な事だが、僕たちはマーケットと「親密」な関係にあるみたいだね。

 


Installation view of “Dan Perjovschi: The Institute Drawing” at the Walter and McBean Galleries, San Francisco Art Institute, 2010. Courtesy SFAI.

 

金融投機と名声ゲームのショーの裏側で、この「市場の転換」は、作品と芸術の社会化という点において、経済的かつ政治的にも野心にあふれる発展につき動かされる、今日の社会的および文化的革新の最も刺激的で複雑な歴史の一面を表出させている。一方で、アジアの現代美術の国際的な成功が、そのローカルな歴史および文脈との親密な関係に起因しているという事を僕たちは忘れがちである。非常に複雑で多様な大陸であるアジアは、ここ数十年の間に最も驚異的な近代化のプロセスを経験し、この期間に作られた芸術作品は、一連の歴史的転換を強く反映している。このプロセスにおいて、何百人というアーティストが、極めて私的なアプローチから広範囲なアプローチを駆使し、知的かつ政治的な領域における同時代の仲間と共に、自由な想像と表現を求めてもがいてきた。彼らは、優れた(芸術的)才能を提示するだけでなく、ポストコロニアリズム、ポスト共産主義、新自由主義およびグローバル化といった条件に規定される、難儀なコンテクストと折り合いをつけるという類いまれな創造的能力を持つ事を証明してきた。物質的な制作物だけでなく、それらにまつわる理論的ディスコースも含め、彼らは自らの作品において、世紀の変わり目の未知で不確定な世界に生きる事に関する特異なビジョンを提示してみせた。そのエネルギーと作品のオリジナリティーが故に、それまで西欧アートが独占してきた国際的アートシーンも、ヨーロッパ中心主義の地平線を越え、異なる表現様式へと自らを開こうとしている。すなわち、「グローバル」になりつつある。

特に注目すべきなのは、この驚くべき奇跡の物語が、単なる美的な実験を超越した冒険と苦心に満ちた物語であるという事である。この地域の作品が概して政治的、社会的、文化的および経済的な自由と密接に関係している、またはその結果である事、近代化と伝統の間でのジレンマを孕み、全体主義と自由主義、集産主義と個人主義の間で揺らいできた事から、当然ながらその物語は最初からポリティカルなものだった。作品も批評もいろいろなトレンドが生まれる中で、極めてオリジナルな表現形式が作り上げられていったのは、まさにこの過程においてである。こうした驚く程に多様でクリエイティブな光景を伴って、知識人の間および21世紀のグローバルとローカルのダイナミクスの再概念化に関する社会的論争の場面において、新しい「アジア的」自意識が表面化してきている。

今日の市場システムにおける買収劇は、当然ながら、同地域における作品制作へのより良い資金源および流通の確立を意味している。しかし同時に、過度な芸術の一般化と価値の低下というリスクもはらんでいる。最大の課題は、金融投機の混乱の中にあって、批評的で文化的なものとしてのアートの知的かつ社会的価値をいかにして守りつつ促進していくかである。経済的な力のプレッシャーと「誘惑」によって、現代美術の売り物志向はますます強くなり、エンタテインメントおよびファッション業界との繋がりも強くなる一方だ。

 


Installation view of “On Kawara: Pure Consciousness at 19 Kindergartens” at the Walter and McBean Galleries, San Francisco Art Institute, 2010. Courtesy SFAI.

 

その反面、芸術と表現および分配(流通)の公共性の問題は、制度的に民営化と「市場経済」を歓迎するアジアの近代化の文脈において、差し迫った課題である。近代化の最も壮観かつ劇的なプロセスである都市化の先には、中産階級化、社会的葛藤、公共スペースの消失などのリスクをはらんだカオス的拡大が待ち受けているのが常である。アジア地域における公共スペースは、既に弱体化し脆弱なものになりつつある。現代美術の分野では、個人コレクションおよび民間の施設は急速に発達している。しかし、公共の施設はあいかわらず資金難を抱え、運営も保守的なままである。官と民の二分裂は、実は、多くのアジアの国においてさほど重要な問題ではなく、その住み分けはあいまいである。美術業界およびパブリックが、芸術作品の本当の価値を話合う事のできる堅実な公共領域をいかにして新しい市場のフレームの中に構築するか。この問いに対するエキスパートたちからの見識ある答えが今求められている。草の根の近代化に付随する生産力強化のための方法論を援用しつつ、いくつかの実験的試みは実行に移されている。しかし、やるべき事はまだまだある。アジアのアートシーンが金融投機のロジックを超えて発展するために必要かつ重要な事は、単なる消費財として作品を扱うのではなく、知識、概念、何より創造性と社会的意義における理想に端を発する作品をサポートする事のできる、今日的なパブリック・インフラストラクチャーを着想し構築する事である。

アジアの現代アートシーンは若くてフレッシュだ。皮肉にも、市場の存在がシーンの存続や繁栄の活力になり得ている一方で、関係者に共通の課題は、市場のトレンドに流される事でいつまでたっても成熟できない体質をいかにして回避するかである。経済の分野では、前例のない危機的状況を迎え、今までとは違う手法のモデルが求められている。マルチチュードな制作様式、表現および流通のあり方が必要とされている。

 


Qiu Anxiong – Stills from the animation videos (top two) New Classic of Mountains and Seas 1 (2006), 15 min; (middle two) New Classic of Mountains and Seas 2 (2007), 15 min; and (bottom two) Temptation of the Land (2009), 13 min 29 sec. Courtesy Boers-Li Gallery

 

最後に、始めの部分でも触れた、僕が現在企画しているフォーラム、アジアおよび他地域のプロフェッショナルと共にアジア美術の収集に関して考える “Collecting Asian Contemporary Art: What, When and How? (訳:アジア現代美術の収集:何を、いつ、どうやって?)を紹介して筆を置こうと思う。(www.shcontemporary.info/English/program/events/)

では、
HHR

(訳 板井由紀)

 


 

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