Curators on the Move 20

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト+侯瀚如(ホウ・ハンルウ) 往復書簡
距離を保つことの火急的必要性

 

この3ヶ月の間に起きた劇的な出来事への覚書

親愛なるHUOへ、
手紙ありがとう。すっかり返事が遅くなってしまって申し訳ない。

こんなに遅くなってしまった理由は、君からの手紙を受け取ってから今まで、興味深い出来事や考えるべき刺激的なテーマがたくさん表出していたにも関わらず、僕はその混沌とした様相が少し落ち着くまで待とうと思ったんだ。それは必ずしも賢明さの成す技ではなく、ひょっとしたら単に僕が年をとった証しなのかもしれない。少なくとも、物事の顛末がわかるように、ある程度の距離を置く必要があると思う。そして、距離をとるための必要条件は時間だと思うんだ。
この3ヶ月は、固唾を呑むような大規模かつ衝撃的な出来事が世界中を襲った、非常事態と動揺に満ちた月日だった。北アフリカや中東で蜂起した反乱による街中でのにらみ合いや武力衝突、それに伴い流された多くの涙や血に関する連日の報道と並んで、日本で起きた3月11日の地震とその後の原発被害はテレビで同時生中継された(ニュージーランド、中国、ビルマ地域での地震報道はどこかに追いやられてしまったようだ)。状況は依然として現在進行形で、どう終息するのかまったく読めない状況だ。そして、ドミニク・ストロス=カーンのニューヨークでのスキャンダルはフランス左翼の次の大統領選挙への希望を打ち砕き、僕たちの近い将来に決定的な打撃をもたらした(君や僕のようにパリに住んだことがある者にとって、フランスの政治は感情的にも、道徳的にさえも他人事ではない)。その間、アラバマにある街の大部分を竜巻が破壊し、中国では、検閲の圧力にもかかわらず、未曾有の干ばつと陽子江地域の洪水という現状の中での三峽ダム工事の危険性についての論争が巻き起こった。それらを映しだす映像は見る者を釘付けにし、メディアはこの上なくドラマティックに報道を繰り広げた。

僕たちのフィールドであるアート業界に目を向ければ、ここにもハリケーン(君の大好きな言葉だ!)は到来していた。シャルジャ・ビエンナーレのディレクターだったジャック・パーセキアンが、問題となった出展作を巡って突然解雇された3日前の4月3日、中国人アーティスト艾未未[アイ・ウェイウェイ」が北京で逮捕された。また、1月28日、エジプト人アーティストのアフマド・バジョニーが、ムバラク政権を転覆することとなったタリハール広場での抗議運動中に命を落としたのはさらなる悲劇だった。

一連のいたましい出来事に対して、何かアクションを取らなければならないという切迫感が横溢し、世界中の人々は動き始めている。しかし、もっと急を要するのは、これらの出来事のアクチュアリティーを理解することだ。それぞれの社会的、地政学的、歴史的な意味における複雑性や特異性を。テレビから流れてくるセンセーショナルな中継映像は、大きく歪められ誤解され伝播している。映像を消費する人々は、あたかもそれらが真の現実を映し出しているかのように鵜呑みにしている。幸運にも、YouTube やFacebook、Twitter といったインターネット上の媒体を通したボトムアップの報道が、明らかに検閲されるか、そうでなければ往々にしてイデオロジカルな主流メディアの報道に対して、より視野の広い、場合によっては反論ともなる情報を提供してくれる。

混乱を招きかねない報道と共に、一連の出来事のより複合的で多角的な解釈が世界に広がっている。最近の情報革命は、チュニジアの「ジャスミン革命」にみられる様に、草の根組織が社会的変化を押し進めるために結集する一助となったり、政治革命を立ちあげる際の追い風となり、中国をはじめとするいくつかの国では、既存の政治体制への圧力となりえている。一方で、これらの活動も最終的には主要メディアに取り込まれ「消費」されてしまうという事実がある。ボトムアップ映像の配信は、(当事者と見る者の)長期的でより深遠な関係を妨げる特定の政治的覗き趣味を存続させてしまうリスクもはらんでいる。

そこには根本的な矛盾がある。さらに言うと、ボトムアップ映像の配信は個人の現実感覚と道徳観に大きな影響を及ぼす。つまり、最もラジカルで最も身近にある権力闘争の戦場でもある。ポリティカルアートと政治術(ポリティクスのアート)をしばしば混同してしまうアート関係者を含めた多くの人々は、本来現実が持つ複雑性をかき消すような短絡的消費の傾向が強い中継映像のロジックを受容している。

人々は、知的な働きかけ、道徳的な関わり、物事を全体として理解するのに欠かせない知性や批判的な距離感を要する複雑な現実よりも、すぐに消費できる形式的、場合によっては反体制のイメージを信用する傾向がある。多くの場合、人は一定の興奮および悲惨な映像を見てしまったことへの罪悪感を緩和する感情を伴って、実際に起きた事(そして現場での悲惨な状況)のシンボリックな面を消費する。シンボリックな面だけを取り入れることはまた、現場の本当の姿を共有するという本質的な関わりを阻止してくれる。この消費行動は、消費者を本質的な関わりを持つことや他者の運命を真摯に共有することから解放し、彼らの道徳的危惧および苦しんでいる人たちへの同情の度合いを緩和させる。加担しない同情の念を示すことで消費者は、結果として道徳的優位性さえも感じることができる。

このことは、多様性が持つ複雑さの単純化および縮小へとつながる。多様性とは、地政学的にも歴史的にも状況の異なる、世界に不可欠な様々な現実のことである。アート、特に(政治術:ポリティクスのアートではない)ポリティルアートにおいては、マスメディアのロジックに彩られた消費者の想像力および他者のイメージを反映して単純化された「現実」の表現へと縮減している。つまり、非西洋圏のアーティストの作品を評価する際に用いられる価値観は、多くの場合、形だけの平等主義ということになる。それはさらに、「異質なもの」や「理解不可能な他者」を消費の対象へと転化する。他者を「支援」するかたわら、支配勢力(すなわち西洋)は、他者に対して自らの優位性を再確認する機会を獲得していることになる。まさにオクウィ・エンヴェゾーが言うところの 「リベラルリフレックス」である。(1) 僕たちは、イマニュエル ウォーラーステインが展開した、18–19世紀の普遍主義によって一般化した西洋の人権に対するオブセッションに対する批判をもっと踏み込んで検証する必要がある。それは、国境なき医師団やグリーンピースといった組織の背景にある意識または衝動で、非常にイデオロジカルな心理状態としての「人道的リフレックス」とも言えるだろう。西洋的概念におけるヒューマニティーの内的矛盾、価値観、按手の手段を、植民地主義および新植民地主義の歴史の中で一度だって疑問視することのなかった思考体系である。それは、結果として、グローバル化した植民地そして資本主義者たちの近代性がもたらした民主主義や人権のある種のシュミラクル性を暴いている。(2)

最近のアート界における「反体制派」を擁護する潮流は、このことを最も典型的な形で表している。僕自身も艾未未釈放のための嘆願書に署名した。正当な礼状もなしに、非暴力行為である表現の自由を制限するためだけにアーティストを逮捕することは、道徳的にも法律的にもあってはならないことだからだ。しかし僕たちは、同時に、起きていることの複雑性を検証し、より大きな視野をもって理解するべきだとも思う。そうすることによって、僕たちの人権侵害へのプロテストは真なる批判性を獲得する。その検証のプロセスにおいて問題の核心に触れるべきである。

現代のグローバリゼーションは、どんな状況においても最大限の利益を追求する新自由主義的資本主義の一種である。そのことが、他者の生命や資源の搾取、環境破壊、政治システムの腐敗、戦争という手段を伴ったとしてもである。新自由主義的資本主義は、究極的には、開放性、自由および民主主義を促進させるためという見せかけの社会的責任に逆らった形で機能する。実際、新自由主義的資本主義の拡大は、自由競争の名の下に、社会連帯や社会的平等の段階的な破滅をもたらしている。さらには、(多くの場合において)非道徳的な利益や自己利益の追求を奨励することで、汚職や政治腐敗への道を開いてしまっている。皮肉なことに、中国やアラブ地域のような今日の独裁体制も、一連のグローバル化の流れに身を置きつつ、その流れを自らの権力を維持し拡大するために大いに利用している。社会の安定や調和という大義名分であれ、原理主義やテロとの戦いという口実であれ、彼らは市民を支配し抑圧するために暴力や非合法的な手段に訴える。西側諸国は、人権と自由を擁護するというもっともらしい理屈の下、実際には経済的および地政学的利権を押し進めるための独裁政権との交渉の場において、その切り札として反体制分子をたびたび支援してきた。しかし、真の草の根運動が反乱を起こし、新たな経済的および政治的ヘゲモニーが出現することで、自らの独裁政権側との同盟関係がもはや安定したものではないと判断されるやいなや、本質的な支援をためらう。もしくは、おずおずと道義的支援などと言い出す。したがって、決起し立ちあがった人々は、結果的に国家的暴力との直接対立に曝されることとなる。リビアやシリアの状況がまさにそれだ。

興味深いことに「グローバルなアート界」は、その政治的イデオロギーにおいて、ポスト冷戦(ポストコロニアル的リベラリズム)の形をしたデュシャン以降のパラダイムに支配された、グローバル化する資本主義ネットワークの一端を担っている(マニュエル・カステルを参照)。アートマーケットが世界で最も統制されていない市場であるという事実が多くを物語っている。加えて、グローバルなアート界は、「リベラルリフレックス」または他者に対してその内在的な要素を問わずに、「自由市場+民主主義」に則った世界基準の善の方程式を押し付ける。その世界基準によって、「文明の衝突」という概念を直接的または間接的に受け入れた上での社会的公正、自由と平等、市民の福利といった思慮深い思想に取って代わって、直接選挙が構造的に台頭する。

これがグローバル化した現代を特徴づける政治的エキゾチシズムの本質であり、「グローバルなアート界」にみる唯美主義化なのである。政治的苦言を呈する反体制的作品への興味および消費(1990年代に「中国アバンギャルド」の落とし子として、アートディーラーたちによって名づけられた「シニカルリアリズム」がよい例だ)は、この唯美主義へのオブセッションから派生している。唯美主義はあきらかに一種の政治的エキゾチシズムであり、西洋中心のシステムの優位性を巧妙に強化するボイヤリズムである。皮肉なのは、マイナー文化の代表として少数派優遇されているアーティストたちが、社会主義的全体主義と新自由主義的資本主義の利害を統一する過程でうまれた腐敗した独裁権力に苦しめられていると考えられている一方で、その実、彼らの存在自体がそうした権力構造の産物であり、暴利を得ているということだ。昨今の中国経済の好景気において、反体制を訴えるアーティストたちが、新進エリートとして最も経済開放の恩恵を受けていることが何よりもの証拠である。

一連の外野からの期待やプレッシャーへの準受動的リアクションとして、グローバルなアート界、特に中国アート界の大部分は残念ながら、(主要メディア、制度、市場をはじめとする本質よりも形だけの平等主義を求める)アート機構の趣向にあった作品を制作することを選択している。そのほとんどは、「社会的・政治的状況とその苦悩」を表層的でセンセーショナル、かつ「実践的」に表現しているが、内容、深み、実体、そして言うまでもなく主体性、品位、真の批判性に欠けている。それらは見る者を知的、政治的、倫理的に魅了するというより、むしろフォトジェニックである。消費されやすい記号的象徴性および形式主義的イメージは、真に独自性を有する作品に取って代わって市場を独占している。これが、文化的な生活全般にあてはまるグローバル化の傾向なのである。英国人作家ティム・パークスは、グローバル化した文学界において批評家やメディアの注目を集めるためには、「市民の意に徹する」つまり自国の民の考えを代弁する存在になり、真に個人的またはその反対の国境を越え、文化をも越えた物語を書くのではなく、「国内で注目されるトピック」について書かなければならないと指摘している。結果として、「理解され」認められるためには、作家は知的自由と創造性の大部分をあきらめなければならない。そうなると、文化や個人の生い立ちに関する相応な知識を要する作品は放棄されていくことになる。(3)

今、僕たちは逆説的な場所にいる。「確立されたアートのシステム」の中で活動しているけれど、自らの倫理、主体性、品位を保持し続ける必要がある。こうした逆説的な状況において僕たちに求められているのは、センセーションとシミュラクルな感情をもたらすだけのありがちな行為や出来事に屈してはいけない、ということに気づくことである。真の解決策は、(複雑かつダイナミックで、永遠に変化し続ける)現実への批判的検証と今日のグローバリゼーションの力学の構造をもっと深遠に考えることだ。

もっとも急を要するのは、他者を搾取する政治的エキゾチシズムを切り捨てることであり、現実に対する批判的な見識、理解そして評価の新しい枠組みを見出すことである。様々な解釈を許容し、「事実」に対するいくつもの理解にオープンな新しい枠組みは、アートと政治の関係および政治術(ポリティクスのアート=権力闘争)ではないポリティカルアートのあり方を考える際の確固とした基盤となる。真のポリティカルアートとは、社会や人類の理想となる政治的プロジェクトの展望を提示するものである。ここで、ジャック・ランシエールをはじめとする研究者たちによって語られてきた政治的なもの(ポリティカルアート)と政治(政治術)の違いを再確認してみたい。「政治的なもの」とは、すべての人が公平に共有する人間社会の存在を保証できる真の概念や諸条件。一方、「政治」とは、実在する権力関係および権力行使において実現される社会を維持するための運用システムである。本来なら複雑に絡み合うふたつの定義を短絡化させつつ、僕たちは、政治に関与することの真の重要性を批判的に思索するどころか、あっけなく権力闘争と利益追求の網に陥ってしまいがちだ。このことを踏まえると、アート界における創作活動の最も重要となるべき新機軸が、消費主義と脈々と流れる政治的エキゾチシズム、または他者を搾取することによって抑制されてきたことが理解できるだろう。

今こそブレヒトが提唱した「異化効果」の重要性を再認識するべきときだと思う。「異化効果」は、アート作品が社会の問題と本質的に関わり、本当の意味で市民とインタラクティブに視点を共有する倫理的立場を与えてくれる。それは、多様性、複雑性、相互尊重、および連帯を維持し共有するマルチチュードのための真に民主的な場所である。

では、
ホウ・ハンルゥ
2011年6月10日 サンフランシスコにて

注1 . オクウィ・エンヴェゾー “Spring Rain”『Artforum』(2011年夏号 pp. 75–76)
注2 . アリフ・ダーリック『Global Modernity: Modernity in the age of global   capitalism』(ボルダー/ロンドン、Paradigm Publishers、2007年)
ウィリアム・イースタリー『The White Man’s Burden: Why the West’s Efforts to Aid the Rest Have Done So Much Ill and So Little Good』(ロンドン、The Penguin Press、2006年)
注3 . ティム・パークス “Les clichés de la lettérature mondiale” (NRC Handelsblad、ロッテルダム)*仏語訳記事:『Courrier International』No. 174: 2011年6月8日号pp. 47-49

(訳 板井由紀)

 


 

目次:https://www.art-it.asia/u/admin_columns/9zbau4wxiwpivny65vuf

Copyrighted Image