Curators on the Move 15

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト+侯瀚如(ホウ・ハンルウ) 往復書簡
ビギニング、ビギニング、ビギニング ーいくつものはじまりー

 

親愛なるハンルゥへ

手紙ありがとう。そして、リヨン・ビエンナーレの成功おめでとう。君からの手紙を受け取った後、アートイットが紙媒体での出版をやめ、ウェブマガジンになったね。このことは、インターネットについてと、ジョン・ブロックマンのEdgeにおける今年の問題提起「インターネットは私たちの考え方をどう変えたのか?」について考えるよい機会だと思う。そこで、君との往復書簡を再開するにあたって、個々のアイディアがより大きな思考のはじまりになればと、僕の考えを未完のアルファベット順に述べてみようと思う。

 

CはCurating the World(世界をキュレーションする)のC

インターネットは、キュレーションの概念をもっと広義に捉えるきっかけになった。ラテン語の「curare」から派生したキュレーションという言葉は、元来「美術館にあるモノ(作品等)をケアする」という意味だった。キュレーションの語義はその後変化し続け、アートが伝統的なジャンルに限定されなくなった今日、キュレーションも、もはや美術館やギャラリーに限られた行為ではなく、あらゆる境界を超えた行いと言える。このどちらかというと曖昧で、非常に限定的だったキュレーションという概念は、「ウェブサイトをキュレーションする」という表現が使われだした頃からより一般的になってきた。このことは、21世紀社会にまつわるひとつのツールボックス(道具箱)としてアートキュレーション史を再認識するよい契機だと思う。

 

DはDelinking(結合解除)のD

インターネットを使い出す前は、インターネットを使い出す前は、電話やファックスによって、昼夜を問わず作業の手を止めなければならないことが多かった。 四六時中ネットに接続しているいまの現実は、集中する時間――誰からの連絡も取らずに、一切の中断がない環境の重要性を気づかせてくれた。最近は、自宅で電話に出ることはないし、携帯電話も事前に約束していた場合にのみ出ることにしている。「つながることは美しい。つながりを断ち切ることは崇高である」(ポール・チャン引用)

 

DはDisrupted narrative continuity(分断された物語の整合性)のD

物語の途絶や空間的、時間的つながりの分断としての映画におけるモンタージュ技法は、キュビズムやエイゼンシュタインからブレヒトを経てクルーゲやゴダールに至るまで、前衛芸術の主要な方法論であった。前衛芸術が前衛的であるためには、こうした手法が断絶的行為として認識される必要があった。しかし、インターネットはこの不連続性やモンタージュをごく日常の経験にしてしまった。そんな今日だからこそ、分断するという行為を見立て、ポエティックに語ることができるのではないだろうか。分断することは、新しいつながり、新しい関係性、そして現実の新しい形を誘発する。モンタージュ的な生き方という現実、もしくは、分断する現実という生き方とでも言おうか。ひとつの物語ではなく、いくつもの物語…

 

DはDoubt(疑い)のD

インターネット上にある情報が孕む一定の信頼性の欠如によって、僕たちは(物事を)疑うということを覚えた。疑いの念は、前にも増して社会に蔓延していると思う。アーティストのカーステン・ヘラーは、『Laboratory of Doubt』という素直に表現することにあらがう作品シリーズを考え出した。アーティスト曰く「疑うことと困惑することは、精神状態としては見苦しい状態であり、できれば心の奥にしまっておきたい感情である。なぜなら、私たちはこれらの感情を不安や価値観の機能不全と結びつけて考えるからだ。」へラーの主義は関わらない、干渉しないことだ。生きることは関わること。従って、関わらないことはひとつの関わり方であるという考え方だ。「疑うことは、確実とされているものを麻痺させる積極的な行為である」 (カーステン・ヘラー引用)

 

EはEvolutive exhibitions(進化する展覧会)のE

インターネットによって、未完成の展覧会や完成途中の展覧会についてもっと考える様になった。展覧会の構想を練るとき、よく確率的なアルゴリズムやアクセス、送信、変異、浸潤、循環…(例を挙げればきりがない)について思いをめぐらせる。インターネットは、雄図的でトップダウン型の展覧会というより、『do it 』 や『Cities on the Move』がそうであった様に、自己組織的でプロセスもボトムアップ型の展覧会のあり方を示唆していると思う。

 

FはForgetting(忘却)のF

インターネットが送出する、増加、拡散し続けるデータの量を考えると、時には忘却(忘れること)の美徳について思いを馳せてしまう。取り扱う情報量に上限のある生活空間を確立する必要があるのではないだろうか、それも急務として。

 

HはHandwriting [and Drawing ever Drawing](手書き[と不朽のドローイング])のH

インターネットは、手書きとドローイングの重要性にも気づかせてくれた。私の若い頃のテキストはすべてタイプ打ちだが、あらゆる作業がインターネットを介する様になればなる程、何かが足りない様な気がしてならない。だから、あえて手書きを再認識してみようと思う。メールのメッセージも、直筆の手紙をスキャンしたものを送る様にしている。キュレーターという仕事の上では、最近のアート作品におけるドローイングの重要性に注目している。美術学校での時流を見ればわかる様に、近年、ドローイングの領域はとても充実している。

 

IはIdentity(アイデンティティー)のI

「アイデンティティーは得体の知れないものである。アイデンティティーとは選択するものである」(エテル・アドナン引用)

 

MはMaps(地図)のM

インターネットをきっかけに、地図について考えることが増えた。Google マップやGoogle Earthといった機能によって、地図を作ること、改編すること、そして一連の作業を共同しコレクティブに行うこと、さらには完成した地図を共有することが容易に行える様になった。ここ数年のソーシャルネットワークの躍進を見ていると、場所性についての意識や関心の高まりを感じる。

 

NはNew geographies(新しい地理学)のN

インターネットは、良きにつけ悪しきにつけ、容赦のない経済的かつ文化的グローバライゼーションによって支えられてきた。一方で、押し進む画一化の危険性はアートの世界にもおよんでいる。またその一方で、特異性が拡大し促進する様な、グローバルな交流への未曾有の可能性も秘めている。「ロングデュレーション」においては、16世紀に地中海交易が大西洋交易に取って代わった様な劇的なパラダイムシフトが起きている。いま僕たちは、重力の中心が別の新しい場所へと移行する時代の過渡期を生きている。21世紀初頭、東西および南北の世界各国でアートセンターがポリフォニックに増えてきている。

 

NはNon-mediated experiences(直接的な経験)のN。NはNew Live(新たな生の経験)のN

直接的な経験への欲求が増大してきていると感じる。バーチャルなものは、見方によっては、われわれを解放するもしくは脅かす新しい身体のプロテーゼなのではないだろうか。今日の多くのビジュアルアーティストたちは、直接的な間主観性との遭遇の場を創出しながら、バーチャルなものと身体性の間で試行と模索を繰り返している。音楽の分野で高まる生のコンサートの重要性とレコード業界の危機的状況は、切り離して考えることはできない。

 

PはParallel realities(パラレルリアリティー)のP

インターネットは、新しい顧客層――多くの小規模コミュニティーを生み出し成長させている。新しいリアリティーを無限に生み出し続けるシステムとしてのインターネットは、増殖する級数において、より機能性の高い分化したサブシステムを自ら再生産する性質をもっている。そのことは、物理学者のデイヴィッド・ドイッチュなら、多元的宇宙の存在を証明していると言い出すかもしれないパラレルなリアリティーの創出ということについて考えさせてくれる。好むと好まざるとにかかわらず、インターネットは既に現実の構造に潜在するものを解体し、あらゆる方向に拡張することを可能にする。

 

PはProtest against forgetting(忘却にあらがう抗議運動)のP

ここ数年、過去の知性の軌跡を残すための取り組みとしてのインタビューの必要性を強く感じている。なかでも急を要するのが、20世紀のパイオニアで既に80代、90代またはそれ以上の高齢に達している人たちの証言。また、僕が定期的にインタビューしている、インターネットを利用しないが故に世間から忘れ去られてしまっている人々の歴史的証言だ。この試みは、レム・コールハースが僕に語ってくれた「情報化時代の中核部に身を潜める組織的忘却に対する防護策そして機密の謀略」になり得るかもしれない。

 

SはSalon of the 21st century(21世紀のサロン)のS

インターネットを使いはじめてから、誰をどの人に紹介したら面白いだろうというサイバー仲人的なことや、直に会ってマッチングする21世紀のサロン的なことを日常的に考える様になった。(Brutally Early Club参照).

 

UはUntimely Meditations(反時代的考察)のU

未来は常に過去の断片からに成り立っていて、インターネットは、現在のあり方について考えさせてくれる。それは、コンテンポラリー(同時代的)であるとはどういうことかという問題だ。ジョルジョ・アガンベンは、ニーチェの「反時代的考察」を再考し、同時代に生きている者こそが、その時代と完全には一致しない人々であるとしている。このずれ、この時代に遅れる感覚が、人々をより自分の時代をキャッチし、ついて行こうとさせていると。この見解に基づいて、アガンベンは同時代性を次の様に定義する。現代人とは、世に知られていない物を見抜くことのできる人、所属する時代や世紀の見方に目をくらませることのない人である。この視点は興味深いことに、同時代における未知の物体の妥当性について語る天体物理学の重要性にも通じる。空にまたたく一見不明瞭なものは、全速力で地球に向かっている光だ。だが、光の出所である銀河が、光のスピードに勝る速度で絶えず地球から遠ざかっているので、その光は地球に到達することはない。インターネットとその現在性へのある種の抵抗は、同時代的であることへの渇望の現れだと思う。コンテンポラリー(同時代的)であるということは、まだ誰も行ったことがない「いま」という場所を絶えず訪れ続けることを意味している。コンテンポラリー(同時代的)であるということは、決裂と断絶を繰り返しながら、時代の均質化する方向性に抵抗するということだ。

最後に、Edge の今年の質問へのデイヴィッド・ヴァイスの回答が、「私たちの考え方はインターネットのあり様を変えることができるのか?」というさらなる問いかけであったことに言及しておきたい。

僕はいま、21世紀の地図に関するプロジェクトに取り掛かっている。このプロジェクトについては、次の手紙でもっと詳しく話しをしようと思う。

ぜひ、君の新しいプロジェクトの話も聞かせてくれ。

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト

 


 

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