特別寄稿 追悼 ルイーズ・ブルジョワ 文/天野太郎(横浜美術館主席学芸員)


Louise Bourgeois inside Articulated Lair (Collection Museum of Modern Art, New York) in 1986. Photo Peter Bellamy, courtesy Hauser & Wirth

ルイーズ・ブルジョワが、98歳の生涯を閉じた。
文字通り20世紀と21世紀を生き抜いた数少ない女性アーティストである。
1997年に勤務先の横浜美術館で、日本で、あるいはアジアで初のブルジョワの個展を企画したこともあり、その死の知らせは、走馬灯のように、とはいかないが様々なことを想起させた。展覧会準備のためにニューヨークの自宅に何度か通ったが、その最初の出会いはユニークと言えばユニークなものだった。当時すでに84歳のブルジョワは、しかしながら年齢を感じさせない精力的なアーティストだった。自宅のリビングに通され、開口一番、着ていたプリーツのブラウスを見せ、「ISSEY MIYAKE」と茶目っ気たっぷりに言い放ったのだ。日本からの客にちょっとしたサービス精神だったのかもしれない。自ら冷蔵庫を開けて冷たいビールを出してくれたまでは良かったが、そこでこちらが気を抜いたのも束の間、今収録中のBBCのドキュメンタリーのテープを見せられ、意見を述べよ、と命令口調で迫られた。それはコメントの内容によって展覧会を断るかもしれないという含みがあったので非常に緊張して答えことを覚えている。ついでながら、図録のエッセイもまた、彼女の「審査」があって、合格の知らせを聞いたときは、心底安堵したことも忘れられない。常に本質的な話しかしない、四六時中作品のことについて考え抜いている、それがこのアーティストの強烈な印象であった。
1982年に遅咲き(当時72歳)のニューヨーク近代美術館(MoMA)での個展デビューを果たしたが、それまで女性アーティストであるということで辛酸を舐めさせられたことへの怒り、またしばしば作品を評してシュルレアリスムとの関係を指摘されることについても、その男性原理に対して強烈なアンティパシーを遠慮なく吐き出す。無論、アンドレ・ブルトンは、最も嫌うべき存在であった。自身、妻でもあり、二人の息子の母親でもあり、だからというわけではないが、リアリティのない安易なフェミニズムの言説にもしばしば食って掛かっていたこともまた印象的だった。父権を絶対的な権力として行使する父親、家庭教師としてその愛人を家に招き入れてもただ沈黙を守る母親。感性豊かであったブルジョワにとって、精神の閉塞を打ち破るのは表現しかなかったのだ。とは言え、ソルボンヌ大学では最初数学を専攻したこともあり、理性と感性を絶妙なバランスで生涯コントロールし続けたことは、その作品がたんなる情動だけで成り立っていないことを示唆している。存在自体希有であることは言うまでもないが、モダニズム芸術の歩みとともにその作家活動を展開した彼女の足跡は、その終焉を迎えようとしているモダンを再考するための大きな足がかりを我々に遺してくれたことは間違いないだろう。

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