Videmus(われわれが見る)――小林耕平「タ・イ・ム・マ・シ・ン」 文/平倉圭

Videmus(われわれが見る)――小林耕平「タ・イ・ム・マ・シ・ン」
文/平倉圭


すべての画像:小林耕平「タ・イ・ム・マ・シ・ン」(『14の夕べ』、2012年9月5日、東京国立近代美術館)写真:前澤秀登

人は思考する。物 thing は思考するだろうか。――思考しない。もしくは、思考していたとしてもどうやってその思考にアクセスできるのかわからない。

〈人+物〉は思考するだろうか。――思考する。思考する「人」に「物」が付属しているというより、内的に結合した〈人+物〉システムの全体が思考していると考えるほうが自然だ。テトリスのブロックを回す。回しながら嵌まり方を考える。このとき、物理空間と脳内の情報処理空間は一体となって計算している。アンディ・クラークとデイヴィッド・チャーマーズが提案した「拡張された心 The Extended Mind」理論だ*1。 心は頭蓋と皮膚の外に飛び出し、物とカップリングしたひとつの認知システムを形作る。

実際には、テトリスのブロックはあまり「物」らしくない。回転の負荷がほとんどないから。リアル世界の物は簡単には操作できないし、私を傷つけることもある(ブロックを足に落とす)。つまり物と私は完全にはカップリングしない。私は、私の生物学的身体と不完全に結合した「心=物体 Mind-Body」を通して思考している。ヌンチャクみたいなものだ。

拡張された「心=物体」であるヌンチャクを振り回してみよう。このとき私は、ヌンチャクを手にしないときには思考しえない突破の可能性を見てとっている。〈私+ヌンチャク〉が思考するのだ。さて、いま試しに室内でヌンチャクを振り回すと、天井からぶら下がる照明灯にぶち当たって破壊し、ガラス片を部屋中に飛び散らせた。夕食に出すつもりだった刺身の上にもガラス片が散っている。しまった。こんなことするつもりじゃなかった。この破壊を引き起したのは「私」じゃない……。このような状況で、なおも強い拡張性の方向で考えることはできるだろうか。飛び散ったのはすべて「私」である。無数のガラス片は、ヌンチャクがそうであるように、私の拡張された心=物体である。ヌンチャクである私は、照明灯に接触することでその存在を破壊的に観察し、ガラス片である私は、魚肉の柔らかさを刺すことで観察する。

2012年夏、東京国立近代美術館で『14の夕べ』が開催された*2。そこで小林耕平が発表したヴィデオ・パフォーマンス「タ・イ・ム・マ・シ・ン」は、上記のような意味において、「強く拡張された」心=物体システムを構成している。システムは、

1)小林が「タイムマシン」と呼ぶ、ホームセンターで購入できそうな日用品を組み合わせた、概ねヒューマンスケールのオブジェクト群 (会場に設置)
2)「タイムマシン」の取り扱いを説明する解説ヴィデオ (壁面プロジェクション)
3)「タイムマシン」の基本アイディアを与える、伊藤亜紗によるテキスト*3 (紙で観客に配布)
4)伊藤のテキストに対する、小林の注釈テキスト (壁面プロジェクション)
5)小林が、生徒のようにふるまう山形育弘(core of bells)に対して、オブジェクト、解説ヴィデオ、注釈テキストを使っておこなう一種の「レクチャー」 (会場でのパフォーマンス)

の5つからなる。


「タイムマシン」オブジェクトについて話す小林耕平(右)と山形育弘

伊藤のテキストは、タイムマシンの基本アイディアを次のように語る。「ところで、わたしの属性は全部でいくつあるのだろうか。一〇〇だろうか。一〇〇〇だろうか。[……]その、わたしがいま持っている属性を、ひとつずつ、たとえばあの山に貸し与える。[……]山は、わたしの属性を獲得するたびに、少しずつわたしになっていく。[……]何千年後、何万年後の風景を、山であるわたしは見るのだ」(「タ・イ・ム・マ・シ・ン」)。つまり人は多数の属性の集合であり、その属性を物に貸し与えることができ、そうすることで物となり、時を超えた観察をするのだ。

このやや不明瞭な――どうすれば山に「貸し与え」たことになるのかが分からない――アイディアに対して、小林の「レクチャー」はかなり複雑な反省を展開する。まず、なぜこれが「タイムマシン」と言えるのかと尋ねる生徒(山形)を目の前に置くことで、問いを外在化する。外在化された問いに対して小林は、注釈テキストを読み、オブジェクトを観察し、解説ヴィデオを再生することで応答する*4。その応答はしかし、明瞭な解を迂回して、問いを分析的に増殖させていく。

解説ヴィデオの中の小林(以下、小林’)は、「タイムマシン」オブジェクトに囲まれた室内で何やら作業をしている。小林’の腰には、火バサミ、ガムテープ、霧吹き、ゴム手袋、ピーナツの詰まった工具袋、2本の木製ブラシ等がさがっている。映像に付された字幕とナレーションが、「属性の貸し与え」とは何かを巡って多数の問いを語る。その間、小林’は無言でオブジェクトの複雑な配置を組み上げていく。

字幕とナレーションによる問いは、小林’の作業に関連しているように見える。例えば「魂が貸し出される状態について考える」という言葉に続いて、自動車カバーのような銀色シートの複数箇所をテグス糸で吊ったものが操作される。糸はおそらく天井の滑車を通って床面に並ぶ複数のペットボトルに結ばれており、小林’がペットボトルの布置を変えるとシートの形も変わる。この操作の遠隔性によって、シートはいくらか「魂」をもつ生き物のように見える。画面内の物は増え続け、ゴム紐で吊られたスイカや、チェーンで吊られた帽子等が、空間のネットワークを複雑化していく。小林’が部屋を動き回るたびに、体や体に付着した物の一部が、そのネットワークの一部に引っかかる。すると画面の離れた場所で、少し遅れて何かが動く。つまり空間の全体が、非同期性を孕みつつ絡まりあうヌンチャク状構造になるのだ。

このとき部屋は、小林’自身の体をその内に含んで取り囲む、小林’の拡張された心=物体システムと化している。拡張された心=物体システムとしての部屋は、小林’の体とそれを取り囲むオブジェクト群との関係を、その関係の不確実な非同期性を通して反省的に意識させる。部屋中に張り巡らされた関係性は、多数の時間的・空間的なズレを孕み、そこに局所的かつ前‐主体的な多数の反省ループを発生させるのだ。例えば車の運転がうまくいかないとき、私の体と車の関係が非同期化して、〈私+車〉システムの内部に反省的意識が生ずる(「あれ? どうしたんだ?」)。そのような反省的意識の小さな種が、空間中にオールオーヴァーに散在しているという感じだ。散在するこのミクロな反省性は、より大きな反省のループ――字幕とナレーションによる問い、注釈テキスト、小林と山形の間の問答――に埋め込まれることで多重化し、かつ賦活される。さらに同一のオブジェクトが映像と会場の両方に現れること、映像の小林’と会場の小林が同じ服装であることによる鏡像効果で、映像と会場との間に視覚的ループが生み出され、展示空間全体を、小林の拡張された心=物体システムに変更する。観客はそこに巻き込まれている。

ロザリンド・クラウスは「ヴィデオ――ナルシシズムの美学」(1976)において、初期ヴィデオ・アートを特徴づける「私が私によって取り囲まれる」という状況を分析している*5。それは私(主体)と映像(客体)の区別が崩壊して融合する、ナルシシズムの空間である。だが、いくつかの重要な作品――例えばリチャード・セラ+ナンシー・ホルト「ブーメラン」(1974)や*6、ジョーン・ジョナス「ヴァーティカル・ロール」(1972)*7――においては、自己が自己自身に関係するその再帰的ループに非同期性が導入されており、それがナルシシズムの閉域に批判的「反省性(リフレクシヴネス)」を開くのだとクラウスは言う。

小林は、この「ヴィデオ」の美学を2つの仕方で拡張している。1)自己の拡張。小林において、再帰的に関係するのは、部屋全体に拡張された心=物体システムである。2)非同期性と反省性の遍在。小林において非同期性は、心=物体システムを構成する時空間構造のあらゆるレベルで起きている。非同期性の場をひとつに限定するセラやジョナスとは異なり、小林は、拡張された心=物体システムの随所にミクロ非同期性をもちこむことで、多数のミクロ反省性を発生させる。この拡張を、ラテン語一人称単数の「video(私が見る)」の美学に対して、一人称複数「videmus(われわれが見る)」の美学と呼ぶこともできるだろう。ここで「われわれ」とは人間ではなく、複数の人間と非人間的事物の集合からなる「コレクティヴ」を指す*8。コレクティヴの内部に、分散する非同期的反省性を生むこと。それが小林の、「拡張された」ヴィデオ・パフォーマンスがおこなうことである。

具体化しておこう。非同期性は、マクロなレベルでは小林、山形、伊藤という複数の人間的エージェント間、あるいはリモコンとヴィデオ再生装置という複数の非人間的エージェント間で生じている。山形に対して小林が執拗に「留保」と「不同意」によって応答し、伊藤のテキストに小林が多量の注釈を加えて「遅延」させ、ヴィデオ再生装置がリモコン操作を「拒絶」する(「この操作はできません」)、といったように。

ミクロレベルの非同期性は数え切れない。ひとつだけ例を挙げよう。解説ヴィデオの途中、「認識し理解するまでの時間と、目の前で起こっていることを留めておくことができないゆえに、ズレが引き起こされる」という字幕が読み上げられる。そのとき、小林’の体が画面手前の細い棒に触れると、棒が倒れ、床のペットボトルに当たり、ペットボトルが倒れる。しかしよく見るとペットボトルは、棒が当たる約0.5秒前には倒れている! 空間に張られたネットワークが複雑なため、直接的接触が起こる前に間接的接触が起きて倒れるのだ。結果として、時間が局所的に先取りされているように見える。『バンド・ワゴン』(監督/ヴィンセント・ミネリ, 1953)でフレッド・アステアが持つボールが、投げる「前」に缶を弾き飛ばしてしまうのと感覚的に少し似ている*9。違うのは、その非同期性はアステアの場合に比べてあまりに小さく、かつその関係性を正確に辿ることができないため、認識に「留めておくことができない」ということだ。この種の不明性が、多数の小さな違和の点となって部屋を覆い、ミクロ反省性を生起させている。

小林は、このような非同期性/反省性を多数布置していくことで、部屋の全体を、人間と非人間が結合したコレクティヴの魂に変える。ホームセンターにあるような日用品を集めて、拡張された心=物体のネットワークを組み立てること。夏休みの工作で人工知能を作ろうとする子供のように。工作されたのは人工知能でも「タイムマシン」でもなく、内部に多数の非同期を孕んだ「タ・イ・ム・マ・シ・ン」である。非同期性の隙間(・)が本体をなす。その多数の隙間に、人間と非人間からなるコレクティヴの、並列分散的な反省性が立ち上がるのだ。V, i, d, e, m, u, s.

*1 Andy Clark and David J. Chalmers, “The extended mind,” Analysis, 58, 1998, pp. 10-23. http://consc.net/papers/extended.html
*2 2012年8月26日-9月8日。小林のパフォーマンスは9月5日に行われた。http://www.momat.go.jp/Honkan/14_evenings/index.html
*3 以下で読むことができる。http://www.yamamotogendai.org/images/exhibition/kobayashi12_text.pdf
*4 この解説ヴィデオは、2012年11月17日-12月15日、山本現代で行われた小林の個展『あなたの口は掃除機であり、ノズルを手で持つことで並べ替え、電源に接続し、吸い込むことで語る。』において、映像作品「タ・イ・ム・マ・シ・ン」として展示された。本文の記述は部分的に、この映像作品の観察に依る。なお、解説ヴィデオという呼び方は便宜上のものである。http://www.yamamotogendai.org/japanese/exhibition/2012/kobayashi12.html
*5 Rosalind Krauss, “Video: The Aesthetics of Narcissism,” October, Vol. 1, Spring, 1976, pp. 50-64.(「ヴィデオ――ナルシシズムの美学」、石岡良治訳、『ヴィデオを待ちながら――映像、60年代から今日ヘ』、東京国立近代美術館、2009年、184-205頁)
*6 http://ubumexico.centro.org.mx/video/Serra-Richard_Boomerang_1974.mp4
*7 http://www.vdb.org/titles/vertical-roll
*8 「コレクティヴ」については以下を参照。ブルーノ・ラトゥール『虚構の「近代」――科学人類学は警告する』、川村久美子訳・解題、新評論、2008年。
*9 http://www.youtube.com/watch?v=J4UUkui545I#t=4m20s

14の夕べ
2012年8月26日(日)–9月8日(土)
東京国立近代美術館 企画展ギャラリー
http://www.momat.go.jp/

小林耕平『あなたの口は掃除機であり、ノズルを手で持つことで並べ替え、電源に接続し、吸い込むことで語る。』
2012年11月17日(土)–12月15日(土)
山本現代
http://yamamotogendai.org/

平倉圭|Kei Hirakura
1977年生まれ。ICU卒。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(学際情報学)。専門は芸術論、知覚論。現在、横浜国立大学教育人間科学部人間文化課程准教授。著書に『ゴダール的方法』(インスクリプト, 2010)、共著に『ディスポジション:配置としての世界』(柳澤田実編, 現代企画室, 2008)、『美術史の7つの顔』(小林康夫編, 未來社, 2005)がある。そのほか、雑誌等での執筆多数。

2012年 記憶に残るもの

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