特別寄稿 追悼 荒川修作  文/南條史生(森美術館館長)

荒川修作(1936-2010)が逝った。
彼とは数回会ったことがある。1980年代に、名古屋でICA名古屋を運営していたときに、ギャラリーたかぎでオーナーの高木啓太郎氏に紹介されたのが最初だった。そのときには、彼は話しかけるというより、少しくぐもった声で、つぶやくように、日本の事情を聞いていた。それから数年して、高木氏とともに、彼のニューヨークのスタジオを訪問した。
高木氏は荒川修作に心酔していた。荒川がパリにいた頃に出会ったらしい。そこで荒川から現代美術の手ほどきを受けて、それ以来、荒川の最大の支援者の一人となった。荒川は50年代から日本で活躍していたが、1961年にはニューヨークに移住した。そしてパートナーとなった詩人のマドリン・ギンズと出会い、終世一緒に暮らすことになった。60年代に発表したシリーズ「ダイアグラム絵画」は、世界中で発表されて、荒川のコンセプチュアルな絵画の代表的なスタイルとなった。60年代から70年代にかけて、彼は日本を代表するアーティストの一人として、国際的にもっとも著名な作家であった。
 彼がマドリン・ギンズと共著で発表した「意味のメカニズム」は、彼のアートのコンセプチュアルなアプローチを示す代表的な出版物である。
そうした仕事を通じて、彼の興味は、言葉、意味、視覚的な表現の関係から、人間の生の総合的な問題へとシフトした。彼は、死に抗うことを考えていたのだろう。それを彼はアーティストらしく造形的方法で成し遂げようとした。その結果、彼の表現は、建築とランドスケープデザインに接近した。
私がニューヨークのスタジオで高木氏と彼を訪問したときに、彼が話していたのは、この方向性だった。高木氏は、長い年月をかけて、これを実現の方向に推し進めた。岐阜にいた彼の友人を通じて岐阜県に場所と資金を得た。その結果、 1995年に、岐阜県養老町に「養老天命 反転地」が完成、公開された。これは公園のランドスケープのような閉じた空間で、この作品によって彼の世界観は造形的に表現の場を得たといえるだろう。このようなアプローチに入ってからは、彼らは自らをアーティストでなく「コーディノロジスト」と名乗り、また、しばしば哲学者や科学者と対話し、それを発表した。その結果、荒川に心酔する若者は、今日でも少なくない。
最後に彼にあったのは、二年ほど前、六本木ヒルズのレストランで、磯崎新氏と3人で食事した時である。荒川は磯崎氏が困惑するくらい、一人で自分の考えを語り続けていた。彼の話は論理的ではない。それはたぶんパートナーのマドリンの言語、つまり詩の領域にあるのだ。
現在、国立国際美術館では、 2007年まで行方不明だった大型作品3点と、1958年から渡米直前にかけて制作された20点の初期立体作品、および60年代から70年代にかけてニューヨークで制作された平面作品が、日本全国から集められ「死なないための葬送」というタイトルの下で展示(2010年4月17日-6月27日)されている。このタイトルを持つ展覧会の開催中に逝去したことは、偶然であろうか。ともあれ、戦後日本の現代美術界の巨星が墜ちた。戦後の現代美術の歴史を、正史として書き記すべき時ではないだろうか。
1996年に日本芸術大賞、2003年紫綬褒章。

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