この「都市」を見よ   文/日埜直彦


Allan deSouza, The Goncourt Brothers stand between Caesar and theThief of Bagdad (2003)
Courtesy : Allan deSouza and Talwar Gallery, New York / New Delhi

動画リンクDreamlands Centre Pompidou

この夏、パリで都市に関する展覧会が2つ開催されていた。建築と都市を扱う建築遺産博物館にて、『Archi & BD』。ポンピドゥーセンターのパリ国立近代美術館では『DREAMLANDS』。どちらも現代都市がどのようなものか再考することを促し、視線を多角的にすることを狙った充実した展覧会であった。
展覧会の背景はどちらも相当ハイコンテクストで、都市論の文脈を踏まえたクリティカルな問題意識が下敷きになっている。しかし当たり前のことだが、都市は専門家ならずともその生活において触れているものであり、都市に関するどのようなテーマも最終的にはあらゆる人間と関わる。日々の生活でほとんど意識していないことでも、それと指摘されれば誰でもそれなりに理解し、納得出来るものだ。そうした文脈を拾いあげながらこのふたつの展覧会を紹介してみよう。

Archi&BDのBDとはバンド・デシネ、フランス語で言う漫画のことだ。漫画に描かれた都市、都市を背景とした建築ドローイング、その歴史を総覧する展覧会である。漫画には夢、希望、未来が描かれることもあれば、禍々しくデフォルメされた幻視、妄想が描かれることもある。ごく平凡な日常の都市が背景に書き込まれてその世界観を伝えることもあるだろうし、漫画によってはじめて気づかされる都市の姿というのもあるかもしれない。漫画は大量に発行され広く購読される新聞や雑誌の出版という近代的条件とともにはじまるだけに、近代的な都市文化と相互に影響を及ぼしあい、都市を介して建築とつながっている。どちらの場合にも、こんな生活がありうるかもしれない、という想像力が二次元の紙の上に投影されているわけだが、一方のイメージが他方に転写され、他方がさらにそれを加速していくような一種の共犯関係が具体的に提示される。結局のところ同じ時代の空気を吸って漫画と建築は育ち、展開し、成熟したのだ。20世紀初頭の新聞漫画のレトロフーチャー的世界観と未来派、バットマンのゴッサムシティとマンハッタンの摩天楼、レイモンド・チャンドラー的なアメリカン・コミックヒーローとシカゴのインナーシティの陰り。フランスの展覧会にありがちなバイアスのかかった重点の置き方が気にならないでもないが、都市のイメージがフィードバックする両端としての、建築と漫画の対比には説得力があった。

さて本題となるのはポンピドゥセンターでの『DREAMLANDS』だが、先に述べたようにこの展覧会はさまざまな都市論を縦糸としてまとめられている。展示作品の大多数は様々なジャンルから集められたアーティストの作品ではあるのだが、どちらかというと都市論のパースペクティブをイラストレートする手段になっている。その点で妙にまとまりすぎのきらいはあるのだが、これまでバラバラに議論されてきた都市論のトピックを見通す全体的なパースペクティブを与え、とりわけおおむね60年代以降の現象ととらえられてきた現代都市の問題のスコープを19世紀末にまで伸ばす、この展覧会のビジョンは十分画期的と言っていいだろう。

エッフェル塔建設過程の記録写真とともに、まず万国博覧会というトピックが提示される。万博はなにもない敷地に自由に建築を配置し、一種の都市計画を行う類い稀な機会だった。ヨーロッパにおいてそのようなシチュエーションは通常あり得ない。街並みの古典的な調和を前提とする中心市街地から離れ、郊外やニュータウンで近代の都市計画は細々と試みられていたに過ぎない。しかし万国博覧会においてはこれが堂々と実現される。日本においても、1940年に予定されていた万国博覧会は事実上東京湾岸の都市計画だったし、1970年の大阪万博も未来都市の実験だった。
エッフェル塔が建設されたのは1889年のパリ万博においてだった。この展覧会はこの近代のモニュメントに注目し、建築家の気負いとは別次元の、ある重要な兆候だったと指摘する。つまりそれは大衆の目を驚かすアミューズメント的な要素が都市の中に出現する最初の例ではなかったかというわけだ。エッフェル塔建設に際して多くの知識人が反対運動をしたことはよく知られている。古典的な都市の観念に照らしてまったく暴力的な偉容を誇るこの建造物は、取り澄ました近代建築とは根本的に異なる大衆性を勝ち得てそのスペクタクル故に人気を博したのだ。撮影者不明の万博会場の写真は、世界各国のエキゾティックなパビリオンが建ち並ぶ中を古色蒼然とした紳士淑女が行き交う様を写し出している。そこにそそり立つエッフェル塔、確かにここにはモダニズムの合理などない。

そのころ大西洋の反対側、ニューヨークは摩天楼前夜だった。『錯乱のニューヨーク』(1971)は今や押しも押されぬ著名建築家レム・コールハースが若かりし頃まとめたマンハッタンのドキュメントである。マンハッタンのグリッド状の街路に閉じ込められ街区が急速に高密度化する中で、摩天楼がひしめき合う現在の姿のモデルとなったのがコニーアイランドの遊園地(その一つが展覧会タイトルの”Dreamland”である)だったとコールハースは指摘している。大衆の好むものをなんでも集めた遊園地。欲望と快楽をパッケージするこの手法がマンハッタンのロジックだというわけだ。20世紀初頭、デュシャンをはじめとして多くのヨーロッパのアーティストがニューヨークを訪れ、それぞれにインパクトを受けた。そうそうたる面々が居並ぶ遊園地での記念写真の微笑みはどことなくぎこちない。多くのアーティストにとってアメリカ体験は転機の引き金となるが、変容したアメリカの都市がその発端となったと言っても過言ではないのかもしれない。
戦争の時代を経てこの波は、1960年代のロンドンにセドリック・プライスのファン・パレスとアーキグラムの活動として現れた。ポップ・アートの嚆矢、インディペンデント・グループに共振しつつ、ポップカルチャーが建築・都市に定着される。ファン・パレスは様々なパフォーミングアーツのための施設であり、アーキグラムのインスタント・シティはサーカスのように巡回するレジャー都市、どちらも軽快な仮設的構造で現代的な建築のあり方を提案した。コンスタント・ニウエンハイスらのシチュアショニストもこの列に並ぶ。

そしてポストモダニズムのマニフェスト、ロバート・ヴェンチューリの『ラーニング・フロム・ラスヴェガス』(1972)がそのあとを継ぐ。ヴェンチューリはラスベガスという究極の大衆文化都市を直視せよと言った。近代建築の偏狭なストイックさとは別種の、本性から都市的な活発さがここにあるではないかと。ピカピカの電飾、車からの視線に対応した建築(近寄ってみればハリボテだが遠目でも視認できるわかりやすさ)、ピラミッドやピサの斜塔のようなキッチュなイメージ。ラスヴェガスは一つのモデルとして世界中に伝播した。世界中の空港付近にこうした建物があるだろうし、中東や中国には都市丸ごとのコピーが出来ているだろう。
ディズニーの創始者ウォルト・ディズニーの都市計画への関心がさらにここに合流する。ディズニーランダイゼイションとも呼ばれるテーマパークの技法と都市計画を結び合わせエプコット・センターと呼ばれるプロジェクトを構想していた。結局これは実現しなかったが、後にディズニーは住宅地開発プロジェクト、「セレブレーション」を建設している。レジャー、住宅地開発、ショッピングモールを織り交ぜ、出来合いのパッケージとしてコミュニティを売るこのモデルは、ラスヴェガス・モデルと同様に世界中に広まった。

ヴェンチューリがラスヴェガスに注目した頃、そのキッチュさに眉をひそめた建築家も、こうした現代の都市プロジェクトに無関係というわけではない。華々しい成功を収めたビルバオ・グッゲンハイム美術館以降、ド派手な彫刻的形態に躊躇なく挑戦するようになった建築家たちは、期せずしてスフィンクスの隣にあっても不自然ではないスタイルを確立した。耳目を集める建築で投機的開発の成功が約束されるとすれば、デベロッパーの金勘定とそうした建築家の野心はしばらくは良いカップルでいられるだろう。だがパリ市民をあっと驚かせたエッフェル塔の21世紀版としての”wow-chitecture”は、もはやおもちゃ箱のような都市開発に飾られたキッチュなブローチにすぎない。

こうして現代都市の現実にようやくたどりつく。全体としてこの展覧会は、過去50年のさまざまな都市論上のトピックから一本の縦糸を紡ぎだし、なにが都市という事象をドライブしてきたか、そして現代都市とはどういったものであるか、再検討することを強く促している。
都市の求める多様性に冷淡なモダニズムに対し、都市の本性を直視する視線の中からいわゆるポストモダニズムは生まれたわけだが、その本性自体はそもそもモダニズムと同時期に育まれたものである。消費資本主義社会はさらにその本性を肥大させ、ついに都市の表面は大衆向けの記号で覆われていく。こうした見方を裏付けている個々のトピックはほとんどが既によく知られた事柄ではあるし、エッフェル塔が喚起したアミューズメント的魅力などローマの昔からあったもので目新しいものではないと言うこともできるのだが、しかしやはりそこに構造的な差異を認めざるを得ないだろう。古典的な秩序は棄却され、イミテーションのコミュニティや都市が流通する。現代都市は人々を幻惑し、成熟を阻み、さらなる欲望を喚起する。あこがれの対象でありつづけた都市はもはやナイーブな場所ではない。込み入った抽象化とむきだしの即物性がさまざまな結びつき方で構造化された場であり、その固有性が屈折し複雑化しつつ、グローバルな動向へと引き裂かれる。チキンレースのようにアクセルを吹かしつづけるアニマルスピリットの都市において、さてどこに文化的抵抗の足がかりを見いだし、どこに批判的介入の糸口を得ることが出来るだろうか。結託を拒みつつクリティカルな介入を試みることは可能だろうが、20世紀の100年を通じ都市はそうした意図などおかまいなしになんでも飲み込み消化してきた、この展覧会が示しているのはそういうことだ。この荒涼とした現実、それをまず見よ、とこの展覧会は突きつけている。

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