連載 田中功起 質問する 8-1:西川美穂子さんへ1

国内外で活躍する気鋭のアーティストが、アートをめぐる諸問題について友人知己と交わす往復書簡。ものづくりの現場で生まれる疑問を言葉にして他者へ投げ、投げ返される別の言葉を待つ……。
第8回のお相手は、東京都現代美術館キュレーターの西川美穂子さん。最新の企画展『MOTアニュアル2012』には田中さんも参加予定です。そこで今回は展覧会/企画者/参加作家の関係をテーマに意見交換。実はこのやりとり自体が上述展の「出品作」のようです。

往復書簡 田中功起 目次

件名:なぜ「making situations, editing landscapes」は「風が吹けば桶屋が儲かる」のか

西川美穂子さま

今回はとてもお忙しいなかこの企画に参加していただきありがとうございます。
ぼくは少し前から日本に戻り、長めの一時帰国をしています。9月になっても残暑が厳しくまるで台北にいるような気分です。外を歩いただけで汗をたくさんかき、最初はしんどいなあと思っていましたが、いまはその身体的な感覚が気持ちよくもあります。


今回の西川さんとの往復書簡は、これ自体が『MOTアニュアル2012』展の出品作です。

状況説明

普段はローカルな問題や時事的なものからはある程度距離を置きながらこの企画を進めていました。それは展覧会や制作にまつわる普遍的な問題を考えていきたいという意図があったからですが、その点からすると、今回はかなり特別な回になりそうです。

西川さんは10月27日からはじまる東京都現代美術館での『MOTアニュアル2012 風が吹けば桶屋が儲かる』(以下『桶』展と略す)の展覧会キュレイターであり、ぼくは参加作家のひとりです。その展覧会の会期に合わせて、これから約三ヶ月(最近は期間が多少のびていますが)、この往復書簡は続けられます。展覧会の始まる前、そして会期前半から中盤にかけて、展覧会の参加者であるこのぼくが、その企画者である西川さんに、この展覧会を含む「展覧会」をめぐる問題についてかなり直截的に質問を投げかけてみようと思っています。

またこのやりとりは『桶』展の出品作のひとつとしても捉えています。このページに添付されているキャプションが東京都現代美術館のフォーマットに則ったものになっているのはそのためです。

内と外を行き来し、等しく捉えてみる

この企画展に対して、ぼくは相対的な立場、メタ的な視点から関わろうとしています。例えばカタログにテキストを書き、ミニシアターで映像を上映し、公開/非公開のトークを企画する。そうした美術館の外での活動を強調することで、展覧会とアーティストの関係や作品経験のあり方に、別の視点を持ち込みたいと思っています。『桶』展参加者の中にもそのような、対制度的な視点を持つアーティストが参加していますが、他の参加者の作品の中身については展覧会がオープンしてから触れることにしましょう。

なぜぼくが相対的な立場をとろうとしたのかといえば、それは西川さんからの最初の依頼にきっかけがあります。当初、ぼくはアーティストとしての参加ではなく、カタログへの執筆者として依頼を受けました(*1)。しかし西川さんとの打ち合わせをするなかで、執筆者としての参加がアーティストとしての参加へと変化したのですが、執筆者としての参加を依頼されたときに感じたこの展覧会への距離感、一歩身を引いた場所から展覧会に関わる感覚をそのまま残して参加してみようと思ったわけです。おそらくそこで西川さんがぼくに求めていた役割も、ぼく自身の作品制作に関わる活動よりも、このメール往復書簡「質問する」やトークなどの対外的な活動をメインにしたいと考えていたように思います。そこでぼくはいくつかの仕掛けを考え、基本的にはオフ・ミュージアムの活動を行うことになりました。

展覧会は通常、「展覧会を企画する」(この場合は西川さん)-「参加する」(この場合は田中)という「依頼する者 – される者」という非対称の関係を形づくります。依頼がなければ展覧会に参加することができません。この展覧会に参加するアーティストの(作品の)多くは展覧会という場を持つことが重要です。このぼくの場合もそうでしょう。そこでは「依頼する者」が「される者」よりも否応なく優位にあります。その関係性に乗らないためには、アーティスト自身が展覧会を企画するということ、あるいは場を持たない、インディペンデントな人びとによる自主的な企画などがありえるでしょう。

そしてこの手紙のように、その非対称に対処することもできるかもしれません。この手紙は『桶』展出品作という展覧会の内側にありながら、ART iTという展覧会の外側から、企画者である西川さんに参加を依頼しています。展覧会のインサイダーとしての立場にありながら、「往復メール書簡を企画する」(田中)ー「参加する」(西川)という、もうひとつの非対称性が持ち込まれています。つまり相互に「依頼する者」と「される者」の関係性を持つことで、関係が対等になる。その対等さの中で、ぼくは初めてアーティストとキュレイターの協働も可能になるのではないかと思っています。

複数の中のひとつ

例えばアーティストの営みは多様です。作品を作ることにはじまり、それについて語ること、あるいはテキストを書き、レクチャーをし、シンポジウムを企画し、展覧会を企画し、飲み会で話し、家をリノベーションし、教育の現場に携わり、人びとの出会いをコーディネイトし、時には山にも登る。これは感覚の機微を一つ一つ記述することが困難なことに似ています。

展覧会に参加しようがしまいが、つまり依頼があってもなくても、アーティストは作品を作りつづける、でしょう。「展覧会」という場はそれら多数の活動の中のひとつでしかありません。あるいは「展覧会」とはそのひとの人生の中ではほんの一瞬の出来事です。例えばアスリートにとって試合は確かに大切かもしれませんが、アスリートの人生の大半は「試合ではない」時間の連続です。長さでいえばこちらの方がより長く、そのひと個人にとってはより重要なはずでしょう。

さて、上記のようにアーティストの活動が「展覧会」という枠組み、時間/会期や空間/美術館やギャラリーなどの物理的、技術的、実際的な場を越え出ていってしまうとすれば、果たしてぼくたちにとって「展覧会」とはどんな意味を持つのでしょうか。一回目の手紙では、まずはこの根本的な問いから始めたいと思います。

あるいはもう少し的をしぼって、いわゆる現代美術におけるグループ展/テーマ展というものの有効性を考えてもいいかもしれません。テーマが切り取るのは、アーティストの多様な活動の一断面です。ときにその作品は、テーマによって文脈を固定されてしまいます。もちろんある種のグループ展がひとつの世代の動向を紹介するという役割もあるでしょう。ある程度の規模でもっていまの世代のドメスティックな動向を国内外に紹介する展覧会としては、日本国内では森美術館の『六本木クロッシング』があります。同様のものはアメリカ言えば『ホイットニー・バイアニュアル』があり、より国際的なものとしてはニューミュージアムによる若い世代を取り上げるトリエンナーレがあります。対して、より絞られたテーマでもって国内の動向を紹介しようというのが東京都現代美術館で毎年行われるアニュアル展でしょう(*2)

個別の内容へと踏み込む前に少し大きなところから西川さんのご意見が聞けるといいなと思っています。なかなか答えにくい問いだとは思いますが、お返事お待ちしております。

田中功起 2012年9月 川崎にて

  1. この依頼は、ぼくがアーティストして参加することになったあとにも生きていて、「もう一度その感覚を取り戻すためのノート」というテキストとして展覧会カタログに掲載される予定です。そこではパヴェウ・アルトハメルの企画したワークショップ『Au Centre Pompidou』(ポンピドーセンター、2006年)に参加したときの経験をもとに書いています。

  2. 既存の枠組み(この場合は東京都現代美術館のアニュアル展)を利用した上で意欲的な展覧会を行う、ということもあるでしょう。おそらく今回のアニュアル展はその意味でとても意欲的だと思います。しかしその枠組みそのものを疑い、その問題点を考えることもときには必要だと思います。

近況:
9/22に笹本晃さんとのトーク『パフォーマンス:一期一会の普遍性』を行いました。9/29にはblanClassでイベントがあります。その他、日本滞在中のイベントについてはツイッターで随時告知します(@kktnk)。

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