Curators on the Move 2

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト+侯瀚如(ホウ・ハンルウ) 往復書簡
『不確かな未来のための実験場』

 

親愛なるHUOへ
2006年5月31日 パリにて

ポール・チャンに関する君の文章にとても感銘を受けた。現代アートの政治参加という問題がかつてないほど喫緊になっていることは確かだ。ことに米国では、新帝国主義とグローバル資本主義パワーが結託して、世界の支配に向けて進んでいる。現代アートもまた、他のほとんどの社会的活動と同じく、このスパイラルの中に急速に引きずり込まれている。現代アートの作品に投じられるカネやスペースは空前の規模に達しているが、多くの場合に市場の総意という形をとって、ものすごい検閲が加えられているのは何とも皮肉だ。ポール・チャンのように政治参加するアーティストはますます少なくなっている。アートのきらびやかな殿堂の陰で、独立不羈と抵抗の声が世界中で押し殺されている。

 

帝国を脱構築するために

数日前に、カリフォルニア大学バークリー美術館/パシフィック映画アーカイブ「マトリックス」プログラムのキュレーター職にあった、クリス・ギルバートからEメールをもらった。ダリオ・アッツェリーニとオリファー・レスラーのビデオインスタレーションを展示する企画展『いまやそのとき、ベネズエラ、パート1』の検閲に抗議して辞職したと言う。メールは、批判性をもった文化やアートが、今日では米国政府と「アメリカンブルジョワジー」から組織的に検閲されていると明言し、こう結ばれている(ポール・チャンも僕らも同意見だろう)。

「僕らはファシスト帝国主義のまっただ中に生きている。——米国が作り出し、テロルを通じて国内外の人々にすさまじい支配を及ぼしているシステムは、こう呼ぶよりほかない。ファシズムとの『取引』や『妥協』が無意味であることは歴史からも明らかだ。徹底的に日々新たに、不屈を貫かなければならない。ファシズムは生を破壊しにかかる。文化も含めたあらゆるレベルで、収容所の論理が打ち立てられ、作動する。生を歯牙にもかけない論理を前に妥協や取引を試みたところで、侵略者に時間を、そして象徴資本をくれてやるのが関の山だ。幻想を抱くべきではない。資本主義と帝国主義が打倒されない限り、文化的機関は第一の役割として、世界各地の人々に悲惨と死を撒き散らすシステムの愛玩犬の位置にとどまるしかない。僕たちはあくまでも、このシステムを完全に廃絶し、社会主義に基づいたシステムを建設することを目指さなければならない」(http://www.ressler.at/content/view/97/lang,en_GB, http://www.bampfa.berkeley.edu/exhibits/nowtime/index.htmlを参照)

過去10年にわたり、僕らが「現代アート」と呼ぶものは、ビエンナーレやトリエンナーレ、美術館やギャラリー、アートの専門メディアや一般メディア、アートフェアのにぎわいなどに見られるように、拡大の波に乗って喜び勇んでいた。そしていま、現代アート界は社会の危機に目覚めたような気配を見せている。イラクからパレスチナ、スーダンからチェチェンに至るまでの地政学的な闘争の広がりに関心をもち、反応を示しているばかりではない(ちなみに、エヴリーヌ・ジュアンノがキュレーションした『チェチェンのための緊急ビエンナーレ』は必見)。

さらに深刻なのは、生=政治の環境を形づくる諸々の政治的、経済的、思想的、社会的なパワーによって、僕ら自身と表現の自由がじわじわと脅かされていることだ。「テロルに対する戦争」を口実として、まさに社会的、政治的なテロルと呼ぶべきものが至るところに確立されつつある。なだれを打って押し寄せる圧制に抵抗し、批判を加えることが、いまや火急の課題である。

「独立色」の強い「高踏的」なアーティストとて例外ではない。先日も、ベルリン・ビエンナーレとホイットニー・バイエニアルを訪れて深く感動した。そこには社会・政治的な意識の復活が明らかに認められる。両展ともアートの制度の中に確固たる地位を占めているのだから、交渉と妥協は避けられない。だが市場と制度的な公式イデオロギーの統制を超えて、ある種のユートピアの再構築に向かおうとする意識が感じられた。トニ・ネグリとマイケル・ハートが指摘したように、もはや外部は存在しない。帝国を脱構築するためには、内部からマルチチュードを動かさなければならない(ネグリとハートの著作『帝国』および『マルチチュード』を参照)。

 

政治・社会参加の場を切り開く

僕がキュレーターを務めた『不確かな未来のための実験場』のために書いた文章を君に送るのは、こうした背景からだ。この展示は、パリのグラン・パレのリニューアル開館記念に、フランス文化省が企画した『アートの力』展の一環をなす。体裁は「公的」な展示でも(発案者はフランスの首相ドミニク・ド・ヴィルパン)、こうした機会を捉えて官僚主義を脱構築し、政治・社会参加の場を切り開くことは、なおも可能であり、必要であり、いまのフランスと世界のアート界に求められていることだ。君が観に来てくれたかどうかはわからないけれど、批判的な意見を聞かせてくれればうれしい。とりあえず、企画書の抜粋を読んでみてほしい。

『不確かな未来のための実験場』

我々は不確かな時代に生きている。今日のフランスはことにそうだ。我々の社会は、様々な分野で実現された進歩にもかかわらず、いまなお漠然とした悲観ムードに包まれている。最近の出来事にもそれが現れている。社会情勢は一触即発だ。フランス人による欧州憲法の否決、植民地の歴史をめぐる論争、郊外の騒乱、それに経済構造のグローバル化と変貌への懸念。失業や日々の暴力の問題は言うまでもない。哲学者マルセル・ゴーシェが述べたように「いわば集団的な絶望感がフランスに広がっていると言える」のであり(リベラシオン紙2006年2月25日付)、未来はかつてなく不確かであるように思われる。

こうした不確かな現実に直面して、社会の様々な主体がメディアなどを通じて動き出し、いわば奇跡を実現するための処方箋を求めて論争を始めている。ぶつかり合いつつも、熱がこもり、時には火花を散らすような論争だ。その一方で、第一に治安だというイデオロギーが世論を覆い尽くし、社会の行動を律するようになりつつある。のっぴきならない状況だ。社会統制の強化と市場の自由化は完璧な協働を示している。

それとともに、社会・文化闘争が激化し、社会の中に垣根が築かれることによって、我々はアントニオ・ネグリとマイケル・ハートが『帝国』や『マルチチュード』に記したような絶えざる闘争の場、グローバルな恒久戦に突入しようとしている。

既存の権力はこうした状況に脅威を感じ、あらゆる手段を用いて未来を確かなものにしようとする。「文化」や「アート」の活動も、そのための手段にされている。

不確かな時代はかつてもいまも、革新的で有効な実験や解決策を排除することなく、批判の声を上げる場を新たに作り出す機会でもある。この機会を捉えることが万人に突き付けられた課題であり、紛れもなくアートと知性、社会に関わるものであることは疑問の余地がない。

そもそもアートとは、総じて現代アートとは、独創的な言語とイメージを通じて、内部で現実と関わっていく行為である。それは我々を想像上の、ユートピアの世界、言い換えれば未知の不確かな世界へと連れてゆく。

そこから必然的に言えるのは、真に創造的な動態(ルビ:ダイナミクス)は可能であり、これまでになく重要な意義を帯びているということだ。アートと現実、創造と社会変化の新たな同盟を守り進める闘いへの関与こそが、アートの第一の使命である。現代アートはその役割と自由を取り戻すために自己刷新を図らなければならない。そこに至る道は、社会批判を行い、歴史の記憶を掘り下げ、新たな生産様式に再検討を加えることだ。また、多文化主義、女性や「マイノリティ」たち、支配的な権力に抵抗する諸勢力のマルチチュードを引き立てるよう、社会を再構築することだ。そして目線は常に、グローバル化された世界に置かれなければならない。とはいえ、この作業は確かに不確かなものである……。

無論、アートの活動は何よりもまず実験的な活動であり、戦術であり、無限の変移と変化につながっている。アートの舞台は文学や音楽、建築や演劇から、社会・経済活動に至るまでの他の様々な分野・領域との協力や合体を通じて、思想と批判、提案と考案、絶えざる再定義の作業の巨大な実験場となっている。この実験場は、理想郷(ルビ:ユートピア)と悪夢郷(ルビ:ディストピア)、異郷(ルビ:ヘテロトピア)のせめぎ合いの場である……。そこでは新世界が次々と想像され、構想され、創出され、テストされ、問い詰められる。アートにおいて未来を夢見て作り出すことは、可能であるだけでなく使命でもある。そこから生み出されるものが不確かな未来でしかないとしても!

親愛なるHUO、最後にこの文章を梁矩輝(リャン・ジューフイ)に捧げたいと思う。僕らの大事な友人であり、すばらしく独創的なアーティストであり、広州で温かく迎えてくれた仲間、あの大尾象工作組(ダーウェイシャン・ゴンズオズー)(林一林(リン・イーリン)、陳劭雄(チェン・シャオション)、徐坦(シュ・タン)ら)の一員たる梁矩輝に。彼は2006年5月22日に逝ってしまったけれど、僕らの心の中で永遠に生き続けるだろう。彼の仕事、中でも1996年に広州の建設工事現場で実演したパフォーマンス『遊戯一小時』(ヨウシーイーシャオシー)(ゲーム1時間)のような作品は、中国と世界の現代アートにおける社会参加の力強い一例だ。この記憶を君と、またアートや文化の活動を通じて自由のための闘争に身を投じる人々と、共有したいと思う。

敬具 ハンルゥ

(初出:『ART iT』No.12(Summer/Fall 2006)

 


 

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