Curators on the Move 12

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト+侯瀚如(ホウ・ハンルウ) 往復書簡
オバマ、経済危機、ふたつの現実、そして変化

 

史的システムの危機という用語にたいして、わたしは一つのシステム内の変動局面的な諸困難という意味ではなくて、(予期せぬ方向へ向かう)漸次的解体の過程か、あるいは(予期された方向へ向かいつつ、それゆえに一つあるいはその他のシステムに代替される)相対的に統御された変化の過程かによって、構造的な緊張があまりに大きくなったために、結局システムそれ自体が消滅せざるをえなくなるような状態、という意味を与えることにしたい。この意味で、危機とは、定義上は「移行」ということになるが、大規模なシステムにおける「移行」は、(おそらく必然的に)中程度の長期的な期間のものになりがちで、しばしば100年から150年の期間を要する。われわれは現在、そうした移行期に、つまり資本主義世界経済から何か別のものへの移行期に生きているのである。この何か別のものは、おそらく社会主義的な世界秩序であろうが、危機の性質から言って、ありうべき方向以上のことを示すのは、無理である。
イマニュエル・ウォーラーステイン
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親愛なるHUO

バラク・オバマが次期合衆国大統領に決まり、久しぶりに胸が高鳴った。高揚感に包まれたのはアメリカに暮らす人たちだけじゃない。世界の何百万もの人たちが彼に希望を見出したわけで、へたをするとアメリカ国民以上の熱狂ぶりだった。そう、オバマは希望を、変化という希望を提示してくれた。自由資本主義のグローバル化は世界のほぼ全域の社会・経済・文化構造を著しく変えた。株の投機や無節操なベンチャー投資にしても、社会に「進歩」をもたらすどころか、かえって深刻な対立、分裂、闘争を引き起こしている。そうした矛盾だらけの不確かな時代を生きる僕らにとって、現状の打開こそが希求してやまぬものだろう。

皮肉にも、変化を求める声が上がったのは、1929年(世界大恐慌)以来の最悪の事態となった、今回の経済危機勃発の時期と重なる。オバマ選出は、単なる経済問題以上に深刻な状況にあるアメリカ国民の、救いを求める叫びの反映でもある。今回の経済危機は、既存の枠内での経済改革で解決されうる、資本主義体制がはらむ慢性的兆候というだけでなく、過去数十年にわたり世界経済と社会システムを牛耳ってきた資本主義体制の、構造的行き詰まりと見るべきだろう。直接、間接を問わず、これが他の社会や環境の危機を加速する要因となっているわけで、むしろ引き金になっていることのほうが多い。

いまこそ根本からの変化が必要な時期なのだ。それには実現可能なプロジェクトをどう構想し、どう実行するか、これこそがオバマ新政権下で具体化するだろう新しい政治環境づくりの、重要課題となるはずだ。高揚のあとには希望や夢だけでなく、新たな不確実性や不安が行く手に立ちふさがっている。

 

同じ運命に直面するアート界

グローバル化が進むアート市場や美術館システムの能天気なブームが去ってみれば、デミアン・ハースト作品の記録破りの落札価格も「末期の徒花(スワンソング)」といった感がある(それはジェフ・クーンズのヴェルサイユ宮殿での個展、シャネルの「モバイルアート・ミュージアム」、北京オリンピックの開会式を華々しく飾った世界的アーティストによる打ち上げ花火にも当てはまりそうだ)。アート界は、ここ数年で獲得した価値の大半が急落するさまを目のあたりにしている。

この10年間、グローバルに展開した現代アートシーンは、世界経済と同様、未曾有の速度と規模で拡大・発展を遂げ、世界のほぼ全域に浸透し、経済・社会の「進歩」に貢献する花形エージェントになった。資本主義が掲げるゴール、すなわち創造性と資本、想像力と生産、文化と消費の完全融合という目標を達成したわけだ。しかし、この成功は見せかけにすぎず、金融界と同様、交換価値が最終的に文化価値(使用価値)に取って代わり、「伝統的な」価値システム全体を逆転させるという、ハイリスクで投機的な前提に基づくものだった。たしかに非西洋地域には、西洋中心型システムを引きつけるだけの魅力がある。中国、インド、中東はいまや世界中の関心が集まる投機・投資の過熱地帯だ。とはいえ、これが真の意味での文化交流だろうか。異文化理解と価値交換の両面で、真の平等に基づくシステムの再構築になっているとは必ずしも言えない。単に焦点をずらしただけで、既存の生産・消費システムに「それ以外のシステム」を取り込み、同化させようとする企みにすぎないのだ。非西洋世界で高まる創造と生産への気運が内包する真の意義を、すなわち近代性(モダニティ)が多元的世界で問い直され、再定義されようとしている、そのこと自体がはらむ影響力を、理解している人はほとんどいないし、理解しようともしない。「いま芽生えつつある」様々な状況を、現行システムに組みこむための新たな部品としてでなく、創造・生産・評価・流通を担う「代替」システムを編み出せるような、新たな展望や文化の多様性をめぐる戦略を地球規模で生み出す原動力として捉えたい――そんな希望も存在するのだ。

世界はオバマ勝利に沸き立つその一方で、アメリカに端を発する経済危機に不安を募らせてもいる。ここから見えてくるのは、アメリカがいまなお世界政治の中枢で、経済面でも超大国だと世界の大半が見なしているという、矛盾と皮肉に満ちた事実だ。アメリカが良くも悪くも変わる可能性があるということは、他の地域はその影響をもろに受けるわけで、ドミノ倒しのように、すべての人の日常がアメリカの動向に左右されるということだ。いやはや、いまだに世界の重心がひとつきりとはね!

 

ふたつの現実

「グローバルな」アートシーンの現実も似たようなものだ。アメリカの主要美術館の企画やニューヨークのオークション市場での落札価格(時にはロンドンやパリがここに加わる)が、多くの人にとってグローバルアートの「進歩」を測る尺度になっている。こうした物差しは概して保守的で近視眼的だ。その他の地域、とりわけ西洋の外側にある国の芸術文化の考え方や行動、価値観が実際にどう進化しているかなんて意にも介さない。こっち側の市場システムにしても、既存のものとはますます違ってきているというのにね。また主流メディアは既存のシステムの拡大発展をもてはやし、その喧伝に努めているわけだが、その一方で、様々な情報やコミュニケーションや議論の場を提供するチャンネルが、低コストの出版物や、特にインターネットを通じて、「従来とは違う」アートシーンに重点を置いた独自の情報やアイディアを発信する新たなシステムを作りつつある。

かくのごとく、社会というマクロな世界にも、アートというミクロな領域にも、ふたつの現実、ふたつの世界観が存在する。ひとつは、主流派として世間に公認され、過去の世界観(ヴェルタンシャウング)に拘泥し、僕らの認識活動をいまだに牛耳っている現実。そしてもうひとつは、超国家的民衆(グローバルマルチチュード)(差異や多様性に対して真摯で進歩的でオープンな集合体)が、異なる立場からの批評や実験や刷新といった行動を通じて、保守的な認識を乗り越え、グローバルなものとローカルなものとの関係を探っている現実。変化が求められている現実と、すでに変化が進行中の現実が併存しているのだ。一方の現実が危機に瀕しているなら、もうひとつの現実に目を向けるしかない。危機にも新たな可能性は潜んでいる。つまりそれは、古い現実のパラダイムを脱し、もうひとつの現実で進行中の変化から生まれる新システムを、拍手で迎えることにほかならない。

親愛なるHUO、これまで僕らは対話を通じて、真にグローバルとなりうるような現代アートシーンのシステムを(効果的な手法という面だけでなく、そこに根ざす文化やイデオロギー、そして価値にも目を配りつつ)再構築するための様々なキュレーション戦略を模索するのと同時に、変化とか、従来とは異なる視点、あるいは行動についても語りあってきた。実際この数十年間、キュレーション活動を通して実験的かつ斬新な手法を探求し、戦略を練り、最終的には芸術活動への理解を深めたいとの思いで、多くのアーティストやキュレーターや関係スタッフと手を携えてやってきた。それでもときには、政治・経済面でも文化面でもグローバルを標榜する現行システムでは、「外部」が出る幕などないことを思い知らされたりもした。しかし「内部」自体が危機的状況にあるいま、「外部」に潜む可能性に思いをめぐらし、ユートピアという旧弊なパラダイムに頼るのでなく、実効性のある「これまでとは違う」世界に新たな理想を求めてもいいのではないだろうか。そこからやがて、想像力や刷新力、正義、そして最終的には民主主義を育むのにふさわしい環境が整い、地球に暮らす「全員」に様々な機会が与えられる、そんな新世界が実現するはずだ。

 

「イエス、ウイ・キャン!」

変化をもたらす道はいくらでもある。だが、古い現実、覇権国主導型システムと訣別するには、イデオロギー・文化・政治面でのコペルニクス的転回がまず必要だ。そこで冒頭に掲げたイマニュエル・ウォーラーステインの、普遍主義の名のもとにヨーロッパ資本主義の史的形成とその拡大から生まれた「近代世界システム」と、それに付随する社会・文化システムへの批判的まなざしが、示唆を与えてくれることになる。オリエンタリズム、人権、自由資本主義など、これらは「世界中どこでも」当然のものと見なされている規範であり、西洋中心の覇権主義勢力の拠りどころであり、僕らの愛すべき「アート」の概念もそこに取り込まれている。そうした「19世紀的パラダイムの限界」を乗り越えるためには、「社会科学を脱思考せよ」との彼の危険分子的呼びかけに応えるべきなのだ。ウォーラーステインの主張は、イリヤ・プリゴジンの「散逸構造」に関する著作がヒントになっている。プリゴジンは、過去300年以上にわたって世界システム全体を支配してきた合理主義、すなわち「普遍主義」を目指すニュートン信奉者の思考様式に異を唱え、宇宙を自己組織化、変動、無限カオスで構成された、絶えず変化する時空の複合システムとして捉え直そうとする、まったく新しい考え方を提唱した物理学者だ。これを社会科学に持ち込んだウォーラーステインは、昨今のグローバリゼーションに反対する、あるいは路線変更を求める運動の先駆的存在と言える。思想的にも文化的にも政治的にも、そこに根ざしているのは、超国家的民衆、異文化混成、社会システムの変革といった概念だ。

アートの概念も、再び見直すべきときなんだ。これまで様々な仕事を通じて、僕らも世の中のグローバルな流れに身を置いてきた。作品制作やキュレーションの分野で新たな形態を発展させ、専門分野の混成や越境、共同作業、自己発生的な想像力と行動様式などに基づく斬新かつダイナミックな複合システムを生み出そうとしてきたし、そうすることで最終的には生とアートを融合させる可能性を切り開き、創作活動の新カテゴリーを生み出したいと願ってきた。実際に僕らは、『Cities On The Move』展(1997-2000)以来、様々なプロジェクトで協働し、こうして対話を続け、それぞれ別個にプロジェクトを手がけてもいる。経済危機とオバマ勝利という、歴史的とはいえ相反するふたつの現実を同時に目の当たりにし、またアート界にあっては、制作・表現・消費における主流システムが失速する一方で、非西洋のアートシーンでその代替勢力の急成長と台頭が進む状況を見れば、量子飛躍的な変革も夢じゃないし、むしろ不可避的だと思わずにいられない。

希望を抱くだけでなく行動しよう、ともに手を携えて!
ただいまハリケーン通過中。いまこそ旧世界を倒すだけでなく、新たな現実を目指すときだ。

これからもよろしく。
HHR

【*1】イマニュエル・ウォーラーステイン著『脱=社会科学――19世紀パラダイムの限界』(本田健吉・高橋章監訳、藤原書店、1993年)38ページ。

(初出:『ART iT』No.22(Winter/Spring 2009)

 


 

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