連載 田中功起 質問する 3-6:保坂健二朗さんから 3

件名:ノーテーション的につくること

田中さんの第3信はこちら往復書簡 田中功起 目次

ようやくスパークリング・ワインがおいしい季節になりましたね。もう2年くらい前のことでしょうか、田中さんのポッドキャスト「言葉にする」の録音を僕の家でしたときに、赤ワインを2本飲んだこと、覚えていますか? 1本目でなにも反応がなかったので試しに2本目をもっと良いものにしたら、「あ、これおいしい」って田中さんは言ったんです。しかも続けて、「僕、パリでレジデンスをしていたから、銘柄はわからなくても味はわかるんです」とも。くやしかったなあ。1本目をけちけちした自分が恥ずかしくもあった。そんなこんなで、今度はカリフォルニアで生活している田中さんが、どんな「鼻」と「舌」を育てつつあるのか、興味津々、戦々恐々です。


左手に東京国立近代美術館(設計:谷口吉郎)。奥にパレスサイドビル(設計:林昌二・日建設計)。その間に、アトリエ・ワンの「まちあわせ」。『建築はどこにあるの? 7つのインスタレーション』展の光景ですが、こうして比べてみると、おおらかさが際立ちます。

さてさて、これがもう最後の書簡になるわけですね。筆不精の僕ですが、楽しませていただきました。しかも田中さんのほうでいろいろまとめてくださったので、僕の方では気楽に、ちょっとした思い出話から始めさせてください。

2年ほど前のことです。小雨がぱらつくある平日の朝、僕は横浜でバスに乗っていました。通路を挟んで隣に、互いに寄り添って眠る男女がいることに気づいたのは、目的地の三渓園まであと少しとなった頃でしょうか。ブロンドの男に黒髪の女。徹底的に眠り、見事なまでの静けさをまとうふたりに、木漏れ日が車窓を通して落ちてきて、それはもう写真に撮りたくなるくらい美しかった。

そんな彼らに、バスを降りた後でまた出会うことになります。ある古い屋敷の座敷で、ふたりが抱き合いながら、時折「キス」と囁きあっていたのです(そう囁いていた気がしますが、その科白を完全には覚えていません)。ここでも彼らは、まわりをまったく気にせずに、ひとつの行為を続けていた。実に清々しく、それゆえ僕はしばし、彼らの時間に自分の時間を重ね合わせたいと思いました。

そこで僕は、彼らが抱きあっている場所からは少し離れたところで、柱にもたれ、脚を伸ばし、目を閉じたのでした。時折聞こえる囁き、軒先から落ちる雨垂れの音、木々と香水の匂い、冷たい空気に触れて変わってゆく肌の温もり。そうした諸々の感覚に浸ろうとしたのです。言い換えれば、見ることから「遠く」離れたところで、この状況を感じとろうとした。

田中さんはきっともうおわかりでしょうね。これは、前回の手紙で触れられていたティノ・セーガルが、2008年の横浜トリエンナーレに出品した作品「キス」をめぐる思い出話です。
セーガルは、田中さんも言うように、アーカイヴ化を拒んでいます(と、ひとまずはそう言えるわけですよね)。彼の作品を「購入」したとしても、指示書も、契約書も、証明書も、領収書もないらしい。となると、「オリジナル」のステートを保証できなくなるということだから、彼の作品で著作権はどのように主張できるのだろうか? なんて考えるのはあまりにも無粋ですよね。

とまれ僕は、「パフォーマンス」以前のふたりの姿を見ていたために、いろいろ考えることになりました。そして、次のような結論に至ったのです。指示の内容を、セーガルと演じ手(と主催者)以外は基本的に知りえない以上、作品を規定する境界線がどこにあるのかはわからないと。「家を出てから帰るまで、すべてがパフォーマンスだ。気をつけるように」なんて指示が、ひょっとしたらあるのかもしれない。なかったとしても、そうした指示をパフォーマーたちが自然と、演繹的に、身体化していった可能性は否定できない。そう考えたくなるくらい、ふたりは朝のバスの中で美しかった。

ここから、次のように仮定を立てることが可能だと思います。そもそも「作品」という区画(囲い込み)をしたがる気持ち自体を疑うべきではないのか。到着点(作品)ではなくて、出発点(物理的には存在しない指示書)に思いを至らすべきではないか。

前回の手紙で自分から提案しておきながらこう言うのもなんですが、「ライヴ+フロー/アーカイヴ+ストック」というモデルは、作品を基準にしてしまっている点で限界を持ちます。田中さんも指摘するように、ライヴ性を強調することで、最終的にはアーカイヴ化にも回路を開いていったセーガルはやはり素晴らしい作家ですが、ここで見逃してならないのは、その構図を可能にしたのは、物理的には存在しない指示書だということです。記録の拒否もその指示の中に含まれている以上、注目すべきは結果としての作品ではなく、やはり、出発点としての(見えない)指示書ではないかと。

ところでセーガルによる記録やオーソライズの拒否は確かに徹底しているけれど、そればかりを殊更強調するのは現代美術界の悪い癖です。
たとえば音楽の世界に目を向ければ、カルロス・クライバーやセルジュ・チェリビダッケのように、記録(録音)を嫌った指揮者がいました。もちろん僕らは、クライバー指揮によるベートーヴェン交響曲第4番(バイエルン国立管弦楽団、1982年、ライヴ録音)という歴史的名演を知っているし、チェリビダッケがチャイコフスキーをどういう風にゆっくり振ったかを聴くことができる。つまり録音はなされた。けれど、彼らが音楽の1回性を尊重していたのは事実でしょう。
当時の録音技術に対して彼らが信頼をおいていなかったための拒否に過ぎないという考え方もあるようですが、しかしムラヴィンスキーの録音のように、たとえ音質が悪いと感じられたとしても聴けば感動してしまうわけですから、そんな簡単な話ではないと思います。大体演奏を嫌って録音に信頼をおいていたグレン・グールドのような人もいるわけです。

ここで思い起こされるのは、「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」という、ウォルター・ペイターのよく知られた言葉です。形式と内容の一致をめぐる、古典的かつ本質的な芸術観を示すこの言葉に、ペイターの生きた19世紀後半と異なり、録音されたものを無尽蔵に持つ「アーカイヴ+ストック」時代の僕らは(しかも『レコード芸術』なるちょっと奇妙な雑誌が存在するこの国の僕らは)、もうちょっと違った解釈を加えてみたくなるのではないでしょうか。

つまり、ひとつのテキスト(楽譜)に対して様々な解釈(演奏)が許されている状態に対して、音楽以外の芸術は憧れを抱いているのではないか、そう考えてみたくなるのです。あるいは、ベーレンライター版(の演奏)が話題になったベートーヴェンのように、ひとつの作品(楽曲)に対して、複数のテキスト(楽譜)が存在する状態に対して、憧れているのではないかと。

この「状態」には、実際のところ、「ノーテーション(記譜法)」を必要とする芸術であれば、必然的にたどり着いてしまいます。
また思い出話になりますが(この書簡では昔の話ばっかりしていますね)、文科省の在外研修プログラムでフィンランドに4ヶ月ほど滞在していたとき、イヴォンヌ・ライナーのダンスを見る機会がありました。ダンスパフォーマンスで注目を集めた後、映像制作に移り、2000年以降はまたダンスの世界に戻ってきたライナーは、まさに「ライヴ+フロー」と「アーカイヴ+ストック」の間を往還している人だと言えますよね。

時空間芸術であるダンスを紙の上にノーテートする=記録する=記号化することは、当然ながら極めて困難です。それゆえいくつものノーテーションが生まれては廃れていきましたが、その中で、ルドルフ・フォン・ラバンが創案した「ラバノーテーション(ラバン式記譜法)」は、記すのにも読み解くのにもスキルが必要であるにしても、今なお重視されているもののひとつです。
僕が見た演目は、ライナーの60年代の作品「Trio A」を、ライナーと他のダンサーが踊った後、フィンランド人によって構成された別のトリオが、同じ「Trio A」をラバノーテーションに基づいて踊るというものでした(その後のディスカッションのときには、さらに、ラバノーテーションのトリオにあわせる形で、ライナー自身が踊ってみせたのですが)。

そこでは、「オリジナル→ノーテーション→パフォーマンス」と移り行く過程の中で、オリジナルからどんどんずれていくことがよくわかりました。と同時に、完璧なノーテーションなどありえないこと、そもそもそうした意味での完璧さを求めることは不可能だということ、むしろ「ずれ」を許容する拡散性のうちに、作品は成立しているのだということにも気づきました。音楽にしてもダンスにしても、唯一の解釈などないと否定し、解釈に拡散性を与えるノーテーションによって、むしろ作品は成立しているわけです。そしてそうした場所では、「オリジナル」の意味がどんどん薄れていきます。

このようなノーテーションの理念が、絵画や映像作品にもっと根付けばよいのに、と思うのは私だけでしょうか。田中さんが挙げていた、レクチャーが作品になる、ということは、決して突拍子もないことではなくって、ありえる、いやむしろ、そうした状況が訪れるような作品をこそつくらなければならないのではないかと思います(そのとき、「作品をつくる」という言葉は、もうちょっと違った言い方でなされるべきなのですが)。

僕らがカンディンスキーやクレーの絵画を前にして、今なお新鮮な気持ちになれるのは、まさに彼らの絵画が音楽的な側面を持っているからでしょう。つまり彼らの絵は、観者による(多様な)解釈=演奏を前提につくられたものであり、「ノーテーション」という理念を踏まえながら、構成(compose)されたものです。作曲(compose)した後に、あるいは作曲しながら記譜(notate)したものが、あれらの作品なのだと言えるのかもしれない。

もし作品というものが、(ノーテーションではなくて)表現のための場だとするならば、なにが表現されているかを考えることになるわけですから、どうしても解釈の幅は狭まり、一義性に近づきます。とりわけ絵画の場合には、挿絵に近くなってしまうでしょう(フランシス・ベーコンが他人の絵画を批判する時に使っていたのが、まさにこの「挿絵的」という言葉です)。そして広告に勝てなくなってしまう。だから、スティルなイメージであっても、つくる際には、多義性を獲得するべくノーテーションの概念をとりあげてみたらどうでしょうか。おそらく今、絵画のジャンルでノーテーションの問題に真摯に取り組んでいるひとりが、ベルナール・フリーズでしょう。あるいは、一義性から脱却するということだけを考えれば、「記憶(術)」や「想起」のシステムを分析しようとしているリュック・タイマンスやピーター・ドイグや杉戸洋の名前を、ここで挙げておくべきかもしれませんね……

と、自分でも面白くなってきたのですが、もうそろそろ終わらせなければなりません。無理やりまとめてしまえば、とにかく僕らはもっと唄わなきゃならないということでしょうか。カラオケにいったらついつい熱唱してしまうように、作品を、自分の声で語ってみるのが大事なわけです。ということで、今度田中さんが帰国したら、みんなでカラオケ大会しましょう! では!

ほさか・けんじろう(東京国立近代美術館研究員)
1976年生まれ。専門は近現代芸術およびフランシス・ベーコン。主な共著に『戦争と美術 1937-1945』『キュレーターになる アートを世に出す表現者』など。担当した企画展に『建築がうまれるとき ペーター・メルクリと青木淳』(東京国立近代美術館、2008年)、現在開催中の『建築はどこにあるの? 7つのインスタレーション』(東京国立近代美術館、2010年4月29日〜8月8日)がある。

近況
この往復書簡で書ききれなかったことを、『視覚の現場 四季の綻び』(第5号、醍醐書房)という小さな批評誌に書きました。タイトルは「『お笑い』を見て『アート』を考える」。2100字。あと、はじめて『装苑』(8月号、文化出版局)からお声がかかりました。特集名はなんと「東京ガーリー」。なぜ僕に、と思いもしましたが、かつて買ったこともある雑誌だったので書くのはやはり嬉しかったです。60年代以降のガーリーなアートのセレクトと、1100字ほどの小文です。

連載 往復書簡 田中功起 目次

質問する 3-1:保坂健二朗さんへ 1
質問する 3-2:保坂健二朗さんから 1
質問する 3-3:保坂健二朗さんへ 2
質問する 3-4:保坂健二朗さんから 2
質問する 3-5:保坂健二朗さんへ 3

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