連載 田中功起 質問する 6-6:林卓行さんから 3

「制作の予定調和を回避するために」と題した往復書簡の最後の返信では、自身の作品を例として作品の終わりとメディアの関係について論じた田中さんの返信に対し、林さんはカントを援用しながら、「作品としてのできごと」とメディアの関係性について論じます。

田中功起さんの第3信はこちら往復書簡 田中功起 目次

件名:「終わり」にかえて:「できごと」と「メディウム」

田中さま

拝復

気がつくとすでに新年。まえの返信の最後に「秋のおとずれ」と書いたことを思うと、またずいぶん返信が遅くなってしまいました。とはいえ、澄んだ寒空がむしろ気持ちよく感じられもするこの季節に、年をまたいでこうして一定の緊張感とともに対話できる相手がいるというのは、幸福なことですね。


元日、実家でのんびりしながら撮った一枚を。

さて、唐突ともいえる、そして手品師に種明かしを強いるような林の質問におつきあいいただき、ありがとうございます。率直に自作について明らかにしてもらったことについてもお礼をいいます。

「メディウム」についてはおおよそ田中さんのいうとおりかな、と思います。またしてもいいたかったこと、あるいはいおうかな、と思っていたことをだいたいいわれてしまったような感じです。「メディウム」はどのように作品に「終わり」をもたらすか、最後にひっそりと(しかし確信犯的に)つけ加えられた註の一節、「メディアの特性から考え得るアイデアにはある程度限界がある」というその一節も含めて、田中さんの書いてくれたことは示唆に富んでいます。

といっても、だからといってたやすく「メディウム・スピーシフィック(medium specific )」から「ディスコース・スピーシフィック(discourse specific) 」へ、というわけにもいかない、というのが林の考えです。なぜなら、たとえメディウムの特性から発想するということに限界があるとしても、作品とそこに表現されているなにかはけっして同一にはなりえない以上、媒介としての「メディウム」をどうするか、という問題は依然として残り続けるでしょうから。以下、その問題のありかをスケッチすることで、わたしたちの往復書簡にいちおうの「けり」をつけてみようと思います。


『判断力批判』でみる「できごと=作品」

まず、さきの田中さんからの往信のなかにあった、「美的なもの」の話からはじめましょう。田中さんはおそらくそれを、仕上がりがきれいとか色彩が豊かとかいう、つまりわたしたちがここまで「予定調和」と読んできたような事態の結果として、ごく意味を限定して、またいくぶん否定的なニュアンスを込めて、使っていました。

しかし「美的なもの」について、わたしたちはもうすこしその意味を拡張して考えることもできるでしょう。つまりある作品の「質の高さ」につながるような、「可能性」あるいは「創造性」としてです。じつは林は最近、ある学生の気まぐれから、イマヌエル・カントの『判断力批判』を授業で読むことになりました(*1)。そこにはよく知られているように、「美」の契機のひとつとして、「目的なき合目的性」が挙げられています。これは簡単にいえば、おおよそつぎのようなことです。

たとえば自然のできごとはどんなものでも、それぞれにあれだけ多様でありながら、それでもすこしもむだがなく、なんらかの必然的な法則にしたがって起こっているように見える(そこからわたしたちは逆に、ある必然的な法則に沿っているように見える事態を、「自然な」と形容するほどです)。しかしその法則がどんなものか、というのはわたしたちにはわからないし、それをわたしたちが限定できるものかどうかもわからない。すべてがどこにゆきつくか=目的はわからないけれど、すべてがそこにむかっているように感じられるとき、わたしたちはそこに「快」を感じ、さらにそこに「美」が生じる、という(もちろんここではカントの緻密な議論の一部を省略してあります)。

あるいは、これも『判断力批判』のべつの箇所からですけれど、わたしたちが個別的に出会う、個々の特殊なことがらを、「これはこういうカテゴリーのできごとです」と判断する能力のことを、カントは「判断力」といいます。そしてかれはさらに、そこには規定的な判断力と、反省的な判断力の二種がある、という。前者はカテゴリーが先に与えられていて、個々の事例がそれにあてはまるかどうか、あとから考えるときの「判断力」です。いっぽう後者はその逆、つまり個別的な、個々の事例が体験としていきなりあたえられたときに、最初はそれがなんだかわからないわけですが、ひとはそれを包摂してくれるカテゴリーを、あとからつくりだそうとする。こうした判断力をかれは「反省的」と形容し、そしてもちろん、人間の能力としてこの「反省的判断力」のほうを圧倒的に高度で、それゆえに重要なものと考えるわけです。

まさに体系的というにふさわしいカントの議論のうち、この二箇所だけを抜き出してわたしたちの議論に援用することはいかにも乱暴であるとしても(こう書いているいまでさえ林は大向こうの専門家からの声に怯えています)、田中さんのいう、「イベント」と「メディウム」との関係は、カントによるこのふたつの概念を借りてくることで、かなりはっきりとした輪郭をおびるようになると思います。

まず混乱を避けるために、なまの「できごと」と、そうした「作品としてのできごと」のことをわけることにしましょう。そしてここでは後者を「できごと=作品」と呼ぶことにします。

「目的なき合目的性」

ところがそうした「できごと=作品」のなかには、どうにも退屈な、見るにあたいしない「できごと=作品」があります。そしてこうした退屈な「できごと=作品」は、まず「目的なき合目的性」と逆の性質を持っていると考えることができるように思うのです。つまり、退屈な作品では「目的」がはっきり見えてしまっている。そしてこの目的は、なるべく無益なものであることがのぞましいようです。さらに、そうして無益な目的をあらかじめ明確に示した上で、その目的をなるべく大がかりに達成しようとする。それをもっと簡単にやる方法があるのに、大人数でやるとか、大きい素材でやるとか、とにかく数をそろえるとか、要するにあえて遠回しに、数多くの手間や契機を介しておこなうのですね。「目的なき合目的性」とは正反対の、「目的ある非合目的性」がそこにある。そしてそのときたいてい、無益な「目的」と、その達成についやされる手間やエネルギーの膨大さの「落差」こそが、「アート」であるといわれます。

効率至上主義の世界で、無益である、あるいはくだらないものでありつづけることが、「もうひとつの選択肢=オルタナティヴ」としての「アート」の役割である、という考えかたがあります。林はそれにある程度までは賛成です。けれど、上に記したように「落差」をかせいで「アート」にしようというのは、それこそ非常に効率重視な考えです。カントにならって考えるなら、そこには「美」はおとずれえない。あるいはすぐれた「できごと=作品」が与えてくれるような、世界の見かたが変わるとか、深まるとかいうこともそうした作品にはない。なぜなら、そこでは「落差」は最初から見込まれているものだから。それを「アート」というのは、最初から深めに守っていればよかっただけの前進守備をひいていた内野手が、思いがけずのびた打球に飛びついてようやく捕えたさまを見て、「ファイン・プレー」といってしまうようなものです。ここにも予定調和とその退屈がある。

これとは逆に、昨今のそうした「できごと=作品」としてすぐれているものは、まさにカントがいうように、目的が見えないにもかかわらず、明確になにかの目的に沿って動いているように見えるものを、かならずといっていいほどにはらんでいると思うのです。田中さんの作品でいえば、古くは血まみれのトランクや爆発に至らない導火線が、そして新しくは、足場を組む劇場の技術者たちやひとりの頭を刈る9人の美容師がそれです。

田中さんは「美的なもの」をあらかじめ考慮していない、なぜなら「できごと」でなにがおこるか自分でもわからないから、という。けれど、そこは林としてはぜんぜん額面どおりには受け取れません(笑)。彼ら「職人」—-そう、田中さんは好んで「職人」を作品に使うように思います—-たちの、日々の仕事のなかで洗練された動きが「美しく」見える、田中さんはそのことをまえもって想定していはしないでしょうか。おなじことは、アローラ&カルサディージャの作品についてもいえるかな。作品を実見するまえの最初の返信では、今回の文脈でいえば「非戦」をうったえる「目的」が勝ちすぎる、というようなことを林も書きましたけれど、あのあと実際にヴェネツィアで見てみると、きわめて「合目的的」に自らをつくりあげたアスリートたちの「目的の見えない」、そしてそれでいてその場の秩序に忠実に沿っている動きは、それは「美しく」見えたものでした。

そういう意味では、やはり林は、「〈メディウム〉による限定を避けられない作品は、〈できごと〉の豊饒さをつねにとらえそこねる」、という考えには同意しかねる部分があるのです。というのも、これらのすぐれた「できごと=作品」が、つぎのことを教えてくれるように思うからです。つまり、どのようなものにせよ、あるかぎられた「メディウム」をそこにもってくることで、「できごと」は「作品」として限定される。でもそのとき「できごと」はその初発の目的を見失いながらも、その目的にかなっているという状態だけを維持することが可能なのです。この点で「できごと=作品」が広義にいう美的な=質の高いものであるためには、「メディウム」による限定が決定的に重要だとは考えられないでしょうか(*2)

「メディウム」を「反省的に」求めること

このことを、上に林がカントからかりてきたふたつの概念のうちのもうひとつ、すなわち「反省的な判断力」によって補強してみましょう。

まず「できごと」の豊饒さなんて、いってみればそこにあって、実際にそのできごとにたずさわっているひとにさえ、完全には体験しきれないものではないでしょうか。よく知られたカントの「物自体」にちなんでいうなら、「できごと自体」をわたしたちはどうやってもそのままに体験することはできない。

だからわたしたちは、その「できごと」の経験をあるア・プリオリな「形式」にそってとらえ、さらには「判断力」によってその経験をなんらかのカテゴリーにおさめようとする。けれど先述のように、そうしたカテゴリーというのは「できごと」のまえにあたえられているとはかぎらない。そしてそうしたときでさえわたしたちは「できごと」の体験のあと、反省的に=さかのぼるようにして、その体験を包摂する「カテゴリー」を構築しようとする。

もちろん「メディウム」と「カテゴリー」をいっしょくたにはできません。けれどこうしてある「できごと」に対して、その圧倒的な豊饒さをまえにしてなお、その「できごと」をおさめるにふさわしいなにかを「反省的に」求める性向というのは、わたしたちが「できごと=作品」と呼んでいるものに向かう根本的な理由のひとつであり、またその「できごと=作品」の創造性と、深く関わっているように思います。そしてこの意味で、田中さんが「できごと(のアイデア)がまずあって、それにふさわしいメディウムがあとから選択される」という考えは、カントのこの「反省的」判断力の議論に接近している。

だから、個々の「できごと」の豊かさはつまるところそれを体験したひとにしかわからない、というのはちょっとちがうのでは、と思いますし、さらにいえば、そう考えてしまったらどんどんつまらないことになると思います。「できごと」が「メディウム」を反省的に得て、「できごと=作品」となることではじまる豊かさというのが、「できごと」それ自体の豊かさとはまたべつにあるのではないか(*3)。「できごと」そのものに比した「できごと=作品」の、「限界」ではなく「可能性」、あるいは「創造性」は、その「豊かさ」にかかっているのです。

「明晰な」作品

ところで、チナティでジャッドを見てきたのですね。林がこの道に進む決定打のひとつになったのは、そのドナルド・ジャッドについての修士論文を書いたことでした。もう20年ちかくも前のことになります。それを書き上げてまもなくジャッドの訃報が届き、奇妙な偶然を感じたものですが、当時すでにチナティの展示は文献などでもずいぶんレポートされていました。

写真で見る、荒涼たる風景のなかに置かれたその作品は、それがすでに主を失ったと思うといっそうロマンティックなものに見えてしまうようになって、論文執筆中から自分がうすうす感じていた、この芸術家のロマンティシズムに対する反発を、いっそう強固にしたものでした(そこだけがどうにもひっかかっていたのです)。もっともその後ほどなくして、チナティを実際に訪れたある学芸員のかたから、現地の動画を見せていただく機会があり、あまりの強風で手持ちのヴィデオ・カメラではぶれてしまってまともに撮影できなくなっている映像を見て、そんな過酷な環境に作品を置こうというのはロマンティックというよりは無謀、あるいは愚直なのではと感じ、ジャッドのそういうところにもう一度共感しなおしたのですけれど。

ところでそのジャッドははじめ芸術家というよりは批評家として活躍していたこともあり、多くの文章を残しました。そのなかでかれが一貫して主張していたことがあります。それが「作品は明晰でなければならない」ということです。林はいま、かつてそれを読んだときよりいっそう、この主張は大切だと思います。

迷走のはての、整理できていない自作で世界を複雑に表象しておいて、「世界は豊かで複雑だ」なんていっているアーティストも多いですからね。もちろん、世界は複雑です。でも/だからこそ「作品」は、世界が複雑であるということを、明晰に示さなくてはならない。すぐれた「できごと=作品」が実現するのは、まさにこの明晰さです。ただしこのとき、この作品から世界の複雑さが感じとれる、なんて誰かがいわなければならないような作品は、もう明晰な作品ではありません。ジャッドの言葉(と作品)にしたがって、こういうのはすっかりスルーしてしまうことにしましょう。

さて、三往復にわたって交わしてきた書簡もこれで最後の一通ということになります。この間、めずらしくひんぱんに顔をあわせる時期があったり、さらにはSNSなどを介しても行き来があり、考えてみれば、わたしたちのあいだでこれまでこんなに多層的に言葉をかわした時期というのはなかったかもしれません。

そしてそのなかで、この「書簡」がもっとも遠慮のないものいいになってしまったかも。おもしろいもので、私的なやりとりよりも公開が最初から目的であるようなこうした「書簡」のほうが、自分にはむしろ率直にいろいろいったり書いたりすることができる(その意味で、林は豊饒な言説というのはやはり「公共のメディア」のなかにしかないように思います)。ともあれ、得がたい機会を与えてくれたことに、あらためて感謝します。またどこかでこの続きができるといいですね。

来年もひき続き重要な展覧会が予定されている様子、数多くの新作にして「質の高い」作品が見られることを期待しています。

2011年と2012年をまたぎながら
東京の自宅にて

林 卓行

  1. カント、『判断力批判:訳註(上・下)』、宇都宮芳明訳、以文社、1994年

  2. もっとも、「メディウム」の限界を自覚しながらも、もともとあった「できごと」の豊饒さをそのままに写し取ろうとしたり、あるいはその豊饒さが見るものに伝わりやすいよう、強調しようとしたりする、芸術についての思潮もあります。「写実主義=リアリズム」と呼ばれるものがそれです。

  3. この意味では、「できごと=作品」における「メディウム」にあたるのは、じつは「映像」や「オブジェ」、あるいは「パフォーマンス=行為」なのではなく、「指示=インストラクション」、あるいは「初期条件の設定」なのではないかと思います。たとえばすぐれた「できごと=作品」であるほど、ある単純な、わずかな文によって記述できるような指示や初期条件によって、わたしたちが知らなかった世界をかいま見せるとともに、その部分的に開示された新しい世界のすがたによって、世界の豊かさをわたしたちに感じさせる。「映像」とか「パフォーマンス」といういうものは、そのときの驚きをそこなわないような、伝統的な芸術観にいう「透明な媒体」でありさえすればいいのではないでしょうか。

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