連載 田中功起 質問する 10-3:小林晴夫さんへ2

第10回(ゲスト:小林晴夫)——ぼくたちはいったい何に参加しているのだろうか

横浜で「芸術を発信する場」blanClassのディレクターにして、アーティストの小林晴夫さんとの往復書簡。田中さんの第2ターンは、小林さんの前便に応答しながら、引き続き「参加」のかたちと意味にこだわり、考えます。

往復書簡 田中功起 目次

件名:それでもやはり「参加」について

小林晴夫さま

お返事ありがとうございます。
小林さんが書かれている従来の「作品」という考え方への抵抗、ぼくにもよくわかります。そのひとつは「商品化」ということですね。ぼくは、でも商品化される作品よりも、市場との関係において考えられる作品のあり方に興味があります。なぜなら市場においては非物質的なものでさえ取引可能なわけで、市場化は「作品」という概念を再考するきっかけにもなると思います。でも、ここでは市場の話をするよりも、むしろ「商品化」への抵抗は抵抗のままで残し、もう少し別の話をしましょう。


なんだか意味深。「ひとつの扉がしまるとき、もうひとつの扉が開く」

再び「参加」を考える

ぼくは作品というものをもう少し拡張して考えたいと思っています。従来の「作品」という言葉が持っているイメージを、ぼくはこの往復書簡を通してかなり拡張してきたと思っていたけど、いちどその言葉を使わずに考えてみるのもいいかもしれません。「作品」と書くことでアーティストの活動が狭量に見えてしまうのならば、ここからは「作品」とは呼ばないことにしましょう。むしろぼくは、小林さんが書こうとしている「つくること」の別の側面に興味があります。

小林さんは、blanClassを「ありとあらゆることを問題にしてもよい『場』をつくろう」としたと書いています。そうした自在に使われうるツールとしての場をつくること、そのフレームをデザインすること、それについてここでは考えてみたいのです。場をつくるということも「かたち」に関係します。どのようなテーブルを会場に置くのか、誰をその場に招くのか、どのくらいの時間がそれに必要であるのか。そうしたさまざまなパラメーターを考え構成することは、状況や関係を彫刻しているとも言えます。現在、多くのアーティストが、あるいは一見、アーティストとは認識されない人びとも行っていることです。そこかしこでぼくらは何かしらのかたちを日々つくっている。ぼくもそもそもアーティストであるかどうかをここでは問題にしていません。あらゆる意味で状況を組織する人びとに興味があるのです。そしてそれは参加に関係します。なぜなら状況が生み出されたとき、その場にはだれかが参加しているからです(それがたったひとりであったとしても)。

小林さんは「四六時中、なにかに『参加』している」と書きました。その意味では、ぼくらはそもそも何かに常に参加しているのでしょう。そうだとして、ではこのとき「参加」はなにを意味しているのでしょうか。ぼくたちはそのように日々、何に「参加」しているのでしょうか。あるいは本当にぼくらは何かに四六時中、居合わせ、立ち会い、参加しているのでしょうか。

限られた時間

blanClassでは時間が重要です。限られた時間、アーティストや運営側の小林さんも含めた参加者はその場を共有します。ぼくがblanClassで行った「不安定なタスク」のように屋外で時間と場を共有することもあるでしょう。先回りして言っておけば、ここでは運営者も、その企画を考えたアーティストも、参加者も、ほとんど同じように場に参加し、しかしblanClassという場の成り行き上、すべての参加者は不安定な状態に置かれます。なぜならぼくらはそのとき何をしているのかを本当に分かっていないからです。そこには誰が参加者で誰が企画者であるのかの区別がはっきりとは見えません。だからその場に居合わせた人びとは、それを企画したものも含めて、ふり返るわけです、いったいそれはなんであったのかと。このとき「限られた時間」というものがとても重要になります。そこには区切りがあり、区切られることで、その場での出来事が少しだけ把握可能になるからです。すくなくともぼくはその限られたものを通して、それを見直し、考えることができました。

ぼくはここで必ずしもいわゆる「参加型アート」についてだけ書いているわけではありません。その形式を前提として、小林さんに書いてほしいわけでもありません。ぼくは「参加」そのものの意味を知りたいと思っています。どうして既存の制度に収まらない「考え」や「問題」をもったアーティストたちの多くが「参加」という方法論を「必然的に」選び始めたのでしょうか。

さらに「参加」について

ぼくはこのように考えています。それはぼくたち、アーティストが何かに参加させられてしまっていると考えていたからではないでしょうか。小林さんのいう「作品化という縛り」はおそらくそのようにとらえられるはずです。アーティストは、どこかで自分のいままで続けてきた「作品」の特徴を繰り返そうとしたり、展覧会の依頼があればその期待に応えようとします。制約があれば、できるだけその制約に合わせてつくろうとします。ぼくらははじめ、おそらくそうした縛りの数々を気にせずに制作をしていた。形式やメディアを気にせずに手当たり次第に何かをつくっていたかもしれません。ぼくらは状況の要請(日本ではそれを空気というかもしれないけど)にいつしか巻き込まれてしまう。ぼくもおそらくそうでした。いつしか自分の方法論や外からの要請が足かせになってしまう。小林さんが参加しているアーティストたちに開いた場は、その縛りや足かせを一時的にせよ、解除する時空間です。そこで解除された縛りや足かせは「作品」をめぐる問題だけでなく、「アーティスト」という役割の解放でもあります。必然的に「参加」という方法論が選ばれたのには、ここに理由があります。なぜならそこではアーティストとその観客という関係性もが無効になる場が必要になるからです。

「参加」がもっているアクチュアリティをぼくはここに見ています。ぼくらが何に参加しているのかと言えば、それは不分明な、未分化な場に参加していると思うのです。ここから話は少しおかしな装いになるんですが、そうした未分化な場をつくり出すために、実はアーティストとその観客の関係性が固定化されている必要があります。blanClassのおもしろさがここにあります。そこでは不分明で、未分化な、いわば未開の地が状況化するんですが、それが旧来のフレームのもとに行われています。つまり観客は、従来の演劇を見る観客のようにその場で入場料を払い、会場に入っていきます。会場は必ず、アーティストによって演出されています。そこでは徹底的な非対称性がまず前提とされている。しかし、会場にいざ入ってみると、観客は自分がその場で受動的な観客としているよりも、むしろ積極的な参加者であることに気づきます。運営をしている小林さんでさえも同様の参加者です。そしてさらにその企画者のアーティストも、その場の参加者のひとりとして存在します。なぜならそこでくり広げられる状況は、いくら緻密に構成されていようが、厳密に考えられていようが、未決の仮説的な場だからです。その場にいる人びとは、限られた時間の中での、仮説の実証実験に参加することになるわけです。

参加はこのとき、固定化された関係を出発点にしているにも関わらず、その関係の解放を内包しています。未分化な状況への参加が開くことは、「参加する」のでも「参加させられる」のでもなく、「参加してしまっている」という状態です。参加型アートのように参加者を必要とするのではなく、ここではいつの間にか参加者になってしまっている。ぼくはそうしたあり方をもつ「参加」に可能性を感じます。

田中功起
2014年6月 晴れのロンドンにて

近況:「Journal」(ICA)と、「Positions」(Van Abbemuseum)がオープンしています。

【今回の往復書簡ゲスト】
こばやし・はるお(blanClassディレクター・アーティスト)
1968年神奈川県生まれ。1992年、現代美術の学習システム「Bゼミ」運営に参加。2001年~2004年の休業まで、所長として運営に携わる。2009年にblanClassを創立、芸術を発信する場として活動を始める。毎土曜のワンナイトイベント+公開インタビュー(Live Art)や、トークイベントなどを展開中。SNSなども活用しながら、その場で起こる「作品未満」の行為、発言、発信をオルタナティブに摸索する。作家として個展「Planning of Dance」(2000年、ギャラリー手、東京)、「雪 – snow」(2001年、ガレリエsol、東京)や、グループ展「SAPアートイング東京2001」(2001年、セゾンアートプログラム、東京)、パフォーマンス「小林 晴夫 & blanClass performers [Traffic on the table]」(2011年、新・港村blanClassブース、神奈川)などでの活動も行う。編著書に『Bゼミ〈新しい表現の学習〉の歴史』(2005年、BankART1929刊)がある。
http://blanclass.com/

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