連載 田中功起 質問する 5-6:沢山遼さんから3

作品と批評との関係を考える往復書簡第5回。書簡の最後となる、沢山さんの返信では、震災が様々な領域にどのような影響をもたらしたか、そしてその中でなお批評の根拠となるものとはなにかについて、論及しています。

田中功起さんの第3信はこちら往復書簡 田中功起 目次

件名:経験的レベルの差は解消しうるか?

田中功起さま

最後の返信になりました。あの日、LAにいた田中さんはどのように過ごされていましたか? もしかしたら、3月11日ほど、田中さんが日本との空間的・時間的時差や偏差を強く経験されたことはないのではないでしょうか。


いつ、誰が(僕が?)、どこで、なにを撮影したものなのかわからない抽象的な写真が、携帯のフォルダに残されていた。

震災を経験した時刻、私はちょうど自宅の引越し作業中でした。ほとんどの荷物を段ボールに詰め終わったところでしたが、空になった部屋が静かに振動し始め、次第に揺れが大きくなっていったため、危険を察知して部屋を出ました。予想していたよりもずっと長い間地面が一定のリズムで波打ち、周囲の建物が音を立てて軋む光景を初めて目撃しました。それからは、なにもかもが遅れてやってくるようでした。夜になって津波の惨事を知り、その翌日には、福島第一原発1号機が爆発を起こしました。またその後一カ月経ち、もはや名前を挙げることはしませんが、美術の世界でも何人もの批評家が亡くなり、私の身辺でも大きな出来事が立て続けに起こっています。不可逆的な出来事が波を打つように断続的に押し寄せ、そのたびに、私にとっては、個人的なものや自然史的なもの、文化的なもののすべてが連動しているようにみえました。こんなことを自分が思ってしまうのは、もしかしたらいまは少し、オカルティックになっているのかもしれません。震災から何週間か経った後でしょうか、田中さんが「日本ではなにが起きているんだろう」とTwitterで呟かれていたことをよく思いだします。私も同じ思いを、日本にいながら感じ続けているからです。

震災がもたらすもの

地震はなにかを変えるでしょうか。しかし、地震は変革を促すものというよりは、むしろ政治、科学、文化などの領域の限界を静かに指し示すようなものとして感じられます。そして、その限界とともに、個々の領域の根拠の不在が露呈してくるような感覚を覚えるのです。私は最近少しオカルティックな考えに憑かれていると言いましたが、それはいま現在、個人的なトピック、自然史的レベルでの現象、政治的、経済的レベルでの事柄などのすべてが文字通り地滑りを起こし、それぞれの領域に亀裂を走らせながら短絡的に接続されてしまうということに由来しているのだと思います。

そこまで思いつめる必要もないでしょうが、今回の震災においては天災と人災がひと連なりになり、私たちが文化活動などを行ううえで密かに依存してきた電気などのインフラの構造や諸矛盾が明らかになりました。もはや、個人的なもの、自然史的なもの、政治・経済的・司法的なものの自律的な圏域は、なかば解体されつつあるのかもしれない。そしてこのことは私たちの生活に大きな変動(あるいは障害)をもたらすことになるかもしれません。とくに近代以降の社会は、社会の各々の領域に自律的な区分をもうけ、それらを分離独立的に組織することで社会生活を維持してきました。よく知られたところでは、下部構造と上部構造という言葉があります。芸術の世界を例にとれば、芸術作品を消費されうる商品として扱うことは大きな抵抗感をもたらします。商品は下部構造、すなわち経済活動に属するものであり、芸術活動は上部構造に属するものとして見なされるからです。したがってそれらを無媒介的に結び付けるような活動はいつでも非難の対象となってきました。

しかし、いま現在起きていることはそれよりもずっと深刻なものです。いわば、下部構造よりもさらに下部に存在する、本来経済活動から除外されてきた水、空気、土が放射能で汚染されていることが明らかになってきました。その汚染による人体への被害の程度は未知数ですが、そのことによって水や空気、土などの本来は交換―再分配が不可能な自然のインフラが突如として可視化されてきたのです。地震は、個々人の立場によってまったく異なる経験を強いるものでありながら、私たちの生が自然の条件に依存していることを改めて突きつけるようです。

ゆえに、私たちは地震によって、同じ出来事に端を発した経験の通約不可能性、あるいは散漫な経験的差異と、自然という共有財に依存した私たちの生存の条件への意識とを同時に抱え込んでしまったように思います。田中さんは今回の件を受けて、そもそもバラバラに経験された作品が、なおかつ作品としての輪郭を留めるとすればそれはどのような条件によるのか、と問われていました。作品とはそのような二律背反を強いるものであると。田中さんが指摘されたように、ティノ・セーガルという作家は、二次的な作品経験を徹底的に排除することで、作品が一次的な(個人の)経験の複数性によって解体され、一元化された視点による作品の統御から努めて逃れようとした人物として知られています。そこでは作品の二次的な受容が完全に一次的な作品経験に依存している以上、伝聞によるほかにそのパフォーマンスの内実を知るすべはありません。もっとも、ティノ・セーガルがそのような情報操作によって、かえって作者のプライオリティを高めてしまったことは否めません。そもそも作品経験から二次的なソースが失われ、伝聞によるほかない作品など、かつてのジョージ・ブレクト((*1)のイヴェントや、イヴォンヌ・レイナーのダンスなど、珍しいものではありません。彼らの作品は、日常的な行為の遂行によって、作者の機能を解体しようとしました。皮肉にもティノ・セーガルが行っていることは、それと逆のことです。ティノ・セーガルは、そのような事態をあえて制度化することで、逆に作者の機能を神秘化し、その場限りの一回的な場面に付加価値を与え、作品―作者の癒着のもとに自身の知名度を高めました。私はそこに市場的な嗅覚を感じてしまうのですが、一方で、そこにあるのは、作品が他者の経験によって所有されることへの恐れにも似たなにかではなかったでしょうか。

作品経験の複数性と再結合可能性

そこで私たちは再び問うべきなのかもしれません。そもそも作品が認識されることは作品の所有を意味しうるのでしょうか。田中さんが言われるように、「出来事」とは端的に言って、レストランでお皿が割れた瞬間のように、同じ事象に対するそれぞれに異なる認識(リアクション)を与えるもののことです。田中さんはその出来事の条件をティノ・セーガルに応用されていましたが、ティノ・セーガルが焦がれてやまないであろうブレクトのパフォーマンスは、そもそも「イヴェント(出来事)」と命名されていました。もちろん、イヴェントという言葉によって思い出されるのはジョン・ケージのことです。ケージはブレクトの先生でした。1952年にブラック・マウンテン・カレッジで行われた《シアター・ピース#1》は最初の「ハプニング」ないし「イヴェント」と呼ばれることがあります。その公演は、多中心的な舞台空間のなかで、画家、音楽家、詩人、ダンサーらがそれぞれ異なる作業に従事し、観客も、舞台にあがった演者たち自身も、結果として要約不可能な個々に異なる印象をもったことが記録されています。ゆえにイヴェント概念は、無関係なものの同時多発性併存(出来事の統治不可能性=アナーキズム)によって定義されることが多いのですが、さしあたって私の関心は、出来事によって形成される個々の認識の再結合の可能性にあります。というのは、ケージはイヴェントのほかにも「形成(configuration)」「集合(reunion)」などという言葉を用いていました。イヴェントとは、その意味で単に「バラバラ」であることを強いるものなのではなく、形成や集合、すなわち再結合をもたらすものなのです。

作品は、しばしば出来事の「結果」として見なされてしまいます。たとえば、ケージとラウシェンバーグのコラボレーションである《オートモービル・タイヤ・プリント》を取り上げてみましょう。1953年のその日、ラウシェンバーグがタイヤに黒いペンキをかけ、地面に敷かれた貼り合せたタイプライター用の長い紙の上をケージが運転するモデルAフォードがゆっくりと動き、その軌跡が紙に転写されました。それはパフォーマンスないしコラボレーションの「結果=痕跡(index)」であり、「タイヤ拓」は出来事の「記録=作品」として提示されたことになります。しかし、本当にそれだけでしょうか? タイヤの拓は行為=出来事の結果ですが、同時にそれぞれが従事した別の運動や空間・時間の系列が再結合される見通しを与えるものです。この場合、通常の「作品=結果」という図式は、目論まれた「結果」から別々の運動原理、行為の系列が引き出されるという意味で、認識の上では、別々の運動の生成の根拠すなわち原因にもなりうるものでした。ケージやラウシェンバーグの作品は、認識をバラバラに分解する一個の出来事であり、かつ、それぞれの事象が接着される結果であると同時に、別々の行為や運動が生成される作用因でもあるという方法によって貫かれています。たとえばケージの一連のシアター・ピースや《4分33秒》、ラウシェンバーグの《ホワイト・ペインティング》は複数の経験が共動化する作用因となる、閉じた枠あるいは平面として機能したのです。

作品が結果ではなく原因でもあるのだとすれば、少なくともタイヤのプリントにおけるケージとラウシェンバーグは、作品のために両者の経験を分割し、作品によって両者の経験を結合・接着していたことになります。私たちの作品経験のレベルの差も、あるいはそのようなものではなかったでしょうか。作品とは無数の運動や、時間や空間の法則を経験的事象に与えるものでありながら、再び複数の経験を結合し、そこにひとつの平面をもたらします。言い換えれば他者とは共有不可能な感覚的反応さえ批評的に吟味し、同意に至ることが可能である。ですから、私たちが作品を見ること、認識することはそれを所有することを意味しません。むしろ作品によって私たちは断片となり、散り散りの群衆となり、再び集合していく。ケージの言う「出来事」がもつ潜在的な可能性とは、そのようなものであったと思います。たとえば私が思い出すのはケージが述べていた次のようなエピソードです。

「デンマークでは戦争中、ナチスがユダヤ人に黄色い星印をつけるよう命令しました[……]するとまず国王が、続いてあらゆるデンマーク人が黄色い星をつけ始めたのです。怒ったナチスは国王を王宮に監禁し、病気だと言いふらしました。そこでデンマーク人は国王に花を送り始め、そうすることのできる人達はみな花を携えて王宮を訪れました。ナチスは譲歩して国王を釈放せざるをえませんでした。」
(ジョン・ケージ、ダニエル・シャルル『ジョン・ケージ/小鳥たちのために』青山マミ訳、青土社、1982年、98頁)

文脈的には唐突な引用かもしれませんね。ですが、先ほどから述べてきたこととこの説話とは相同的です。ここで言われている抵抗のありようは、もちろん暴力行使を意味しません。あるひとつの経験や事象が共有されていることを市民が顕示することだけが、非服従的な抵抗になりえたということです。たぶん、それは私たちの現在にも通底していると言えるでしょう。放射能汚染やその法的処置、情報の隠蔽などをめぐる一連の出来事は、あたかも戦時下のように、場当たり的で無差別的な政治的・国家的暴力を私たちに強いています。しかし、これが私たちの「戦争」であるとすれば、それぞれの経験の差異を分有し、結合させることは、それ自体が抵抗の原理・方法なのかもしれないということです。そこで批評の根拠になるのはやはり、「出来事=作品の総体」を一望的に可視化させることにはなく、切れ切れの断片から、あらたな結合の可能性を模索することにあるでしょう。経験の通約不可能性を恐れないこと、経験の貧困のなかから、出来事の総体へと近づくこと。私がいま考えるのはそんなことです。

回りくどく書き連ねてしまいましたが、これが私からのご返信になります。ともかく、夏に帰国されること、お待ちしています。会って、いろいろとお話しましょう。楽しみです。

沢山遼 2011年6月 東京より

  1. George Brecht(1926?〜2008)。ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで作曲家ジョン・ケージのクラスを1958年から翌59年まで受講し、同時期に初期フルクサスのメンバーでもある作曲家・詩人ディック・ヒギンズや「ハプニング」の創始者アラン・カプローとも知り合う。59年から、特定の意味や内容をもたない、ごく簡単な手続きや日常的所作に基づく行為を実演する「イヴェント・スコア」と呼ばれる芸術的実践を開始した。ブレクトの活動はジョージ・マチューナスのフルクサスとも合流したため、フルクサスの代表的アーティストの一人とも見なされている。

近況:あるウェブサイトに掲載するための美術や芸術関連の用語集を、若手批評家・研究者を中心としたチームで準備しており、現在はその執筆に追われています。秋口から順次公開されると思います。

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