Curators on the Move 14

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト+侯瀚如(ホウ・ハンルウ) 往復書簡
日常のスペクタクル

 

親愛なるHUO

僕らがこの対話を始めてからもう3年以上になる。振り返ってみると、この間に唖然とするような大量かつ広範囲の変化があった。まさに変革の時代だ。僕らはますます、緊迫する事態に対応する必要に迫られている。

知っての通り、僕は第10回リヨン・ビエンナーレのキュレーターに指名され、あと7ヶ月弱で、かくも大規模なプロジェクトを完遂させなくてはならない! 君は前回のリヨンでキュレーターを務めたわけだから、僕にとって喫緊の課題といえば、このビエンナーレについて君と語り合うことだろう。そこで今回は、先日イェンス・エミール・ゼンネヴァルト*1 がインタビューしてくれた一部を抜粋したい。今日におけるキュレーターの役割と、今回のビエンナーレのテーマ「日常のスペクタクル」を着想するに至った経緯についてのものだ。

 

展覧会はゴールではない

JES キュレーターは視覚的DJとでも呼べそうな職業ですね。「時代精神(ツァイトガイスト)」を芸術的イメージに変換する力のある作品群を選び出す術を心得ている人と言ってもいい。キュレーターは人々をどのように惹き付けるべきだとお考えですか。

HHR (笑)。キュレーターをそんなふうにイメージしたことはありませんね。DJという発想は僕の好みじゃない。今日のキュレーターの役割は何かという問いは、今日のアーティストとは何かと問うことに近い。理論家か、研究者か、知識人か、それともどこにでもいるただの労働者か? 簡単には答えられません。キュレーターによって、ビジョンも違えば方法も違う。僕の場合は展覧会を言説として、文化や芸術や社会、そしてもちろん政治がはらむ諸問題についてのある種の声明として概念化する試みです。様々な文脈に合わせ、手法を絶えず変えながら、社会が提起する問題に対し、最大限に関与する作品で応えられるアーティストを探す作業が含まれます。展覧会それ自体がゴールではない。僕らがやっているのは、アーティストの作品と社会的文脈との関係を構築、あるいは再構築する社会的基盤づくりなのです。アートは社会の中で知的な力として機能する、とあえて言いたいですね。展覧会が単なる展示で終わらないところが面白いんです。

JES あなたはアート雑誌や図録に文章を書いてもいらっしゃる。批評の執筆とキュレーションに違いはありますか。

HHR 書くことは、自分の仕事や現代アートが何であるかを理解するための基本的な行為です。この手助けを欠いたら展覧会づくりはさほど面白くない。執筆とキュレーションは不可分なんです。どちらも、ある社会的文脈の中でアートがいかに有意義であるか、どのように意味を求め、意味を産出するかを提示するためのものです。展覧会はこの過程とこの試みの産物を、ある種表示あるいは提示するもので、一方、批評は、これらすべての意義をいわば解説するものですね。

JES イスタンブール・バイエニアルは都市が舞台でした。にぎやかで活気があり、今世紀始めのパンクの肖像といった趣を呈していた。リヨン・ビエンナーレは、さらに鮮明な方向性を示すのですか。

HHR 実際には文脈はかなり違いますね。ビエンナーレは開催地がどこかによって、そのつど異なります。開催地の環境や文脈に即して、整合性や適合性を模索するわけです。アートの定義にしても、いつも同じとは限らない。リヨン・ビエンナーレはリヨン現代美術館の歴史から誕生したものです。したがってこの制度の枠組内で、イベントのパワーアップと集中が図れるようなプロジェクトをどう立ち上げるかというのが大きな課題です。他の国、とりわけアジアやアフリカやラテンアメリカの国々では、ビエンナーレはアートシーンを創造するメカニズムとして機能すると僕は常々思っています。構造がなかったために影が薄かった、現代アートの力を結集するためのインフラ整備なんだと。けれども、リヨンの場合はそうしたインフラはすでに整っている。問題はむしろ、制度と現実世界をどう結びつけるかなんです。その鍵となるのは、我々の日常を構成する文化の多様性の提示でしょう。この切り口は、我々が文化的・芸術的生活を営むための建設的な力としては、まだ充分な認知を得られていない。リヨン・ビエンナーレはすでに定着し、知名度もある。ビエンナーレ自体の地位を問い直す絶好の機会だと思います。

 

システムの中のバグ

JES あなたは1993年に、ある図録に「文明の本質に潜む異国趣味(エキゾチシズム)」と題する論文を発表しています。グローバリゼーションの時代にあって、「他者」はなぜこれほど魅力的なのでしょうか。

HHR ここ数年で状況は大きく変わりました。西洋型の「グローバリゼーション」は、あらゆる場所に普及する唯一のモデルではなくなった。活動のありようも、認識や創作の方法も、世界に通用するものは多種多様で、それでも異国趣味の問題はいまだに重要です。異国趣味とは、実際の交流を伴わぬ他者の消費です。とりわけ、我々が他者によって絶えず変化しているという事実が無視されており、己の手を汚すことなく行われる消費と言ってもいい。「純粋」な西洋世界を語ることはもはや不可能であるにもかかわらず、スペクタクルによって他者を支配しようとする意図、リアリティの進化を止めようとする意図を、我々はいまだに目にします。絶えず抵抗しているにもかかわらず、この誘惑はいまだに根強いのです。僕の役割は、半ば死んだも同然とはいえ、スペクタクルの形でいまだ優位にある世界が宙吊りにされ、日常生活の世界、鮮明な形にはなっていない生の多様性や現実性が目に見えるようになる、そんな空間を作ることです。展覧会とは、「スペクタクルの中の生」と「日常の生」というふたつの勢力の間に生じるダイナミズムを提示し、立ち上げる場なのだと思います。抵抗の空間と言ってもいい。現実世界の生の声が聞こえてくる機会を提供する空間です。実際、僕が常に心がけているのは、展覧会という空間を通して、スペクタクルとリアルの間の矛盾をダイナミックなプロセスに変換することなのです。

JES ギー・ドゥボールが唱えた「スペクタクル」という用語をいま改めて持ち出すのは、それが今日のリアリティにとっていまだに有効だからですか。

HHR もちろん! 消費社会、グローバリゼーションの時代にあって、この類の思索を継続することは重要です。現状の危機は、社会の進化にバグが存在していたことの露呈にほかならない。いまは真の問題をじっくり考えるべき時でしょう。ビエンナーレという催しは確かに派手な見世物(スペクタクル)です。ならば、見世物には属さない要素をそこに盛り込んで、問題提起ができないか? 僕にとっては、それがビエンナーレの目的です。スペクタクルと現実生活の間に生まれるダイナミズムの創出、ミシェル・ド・セルトーが著書『日常的実践のポイエティーク』で述べているような日常の実践を形にしたいのです。ド・セルトーにとっては、日常生活はスペクタクル支配に代わる選択肢だった。社会に身を置く我々の生活に必要な破壊的な力を、そこから得るのです。そこはある種「形のない(アンフォルム)」、制御不能な世界です。アルジュン・アパデュライの言葉を借りるなら、支配システム機構の脊柱に挑む細胞組織といったところでしょうか(アパデュライの著書『Fear of Small Numbers』参照)。重要なのは、こうした相異なる形式のシステムが共存できる空間の構築です。大規模な展覧会のいいところは、重要な書物についても言えることですが、こうしたダイナミズムを提示する形式や戦略を模索し、人々がそこに参加し、これを共有できるようになるという点だと思います。そこは、いわゆる「正当な」作品と「周縁の」作品が集合する場です。我々が思考様式を変え、スペクタクルのシステムを絶えず再生産することを強いるイデオロギーから抜け出すこと。それこそがきわめて重要であり、キュレーターに課せられた真の役割だと思います。

さて、親愛なるHUO、君の考えをぜひ聞かせてくれ!

ハンルゥ拝
2009年5月、サンフランシスコにて

【*1】イェンス・エミール・ゼンネヴァルト 
パリを拠点に活躍する美術評論家、ジャーナリスト。『Kunst-Bulletin』(チューリッヒ)、『Springerin』(ウィーン)、『Kunstzeitung』(レーゲンスブルク)、『Weltkunst』(ミュンヘン)、『lacritique.org』(パリ)など、様々な新聞や雑誌に寄稿する。多数の論文の共同編集を手がけるほか、プロジェクトルーム「café au lit」(cafeaulit.de)を主宰。最新作は『texte-tendenzen.de』に掲載中。

(初出:『ART iT』No.24(Summer 2009)

 


 

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