連載 田中功起 質問する 2-3:成相肇さんへ 2

件名:別にありえたかもしれない関係、強い鑑賞、見届けについて
成相さんの第1信はこちら往復書簡 田中功起 目次

成相肇さま

お返事ありがとうございます。
 ぼくはいまLAにいて少し落ち着いているところです。少し前には1週間ほど雨、それも豪雨が続いて街中で水があふれていたりして、LAとは思えない感じでした。それがいまは一転、晴天続きの日々です。最近は友人の犬を半年ぐらい預かることになって、毎日裏山の公園を散歩してます。


裏庭の水漏れの様子。焦ったけどボルトがゆるんでいるだけだった。

お返事を読んで、なるほどなあと納得しました。そうですね、たしかに「作るー見せる」という関係でぼくは考えていましたが、「作るー見る」こそが展覧会の場、いやそもそも制作と鑑賞/批評という場で起こる関係ですね。ぼく自身、じぶんの立場を強く意識するあまり、すこし硬直的な見方になっていたのかもしれません。

作る過程においては、おそらくほとんどすべての作り手は「作り」ながら「見て」います。手を動かしながらその都度、自らの作業、制作を分析している。過程が短いものについてはできあがった後に分析・取捨選択をする。そこでは見て判断することと手を動かして作り出すことが腑分けできないくらい密接です。でも展覧会のとき、過程のなかで密接だった「作るー見る」関係は作品のなかに閉じこめられ、観客には不透明で見えません。

「公開制作」というのはたしかに「制作」途中の作者のなかにある「作るー見る」関係を「公開」する場かもしれない、当初の目的としては。とはいえ、ここでも「作者(作る)ー鑑賞者(見る)」関係はじつは揺らいでいない。作り手も観客も、1枚のガラス(比喩ではなく)を隔てて安定した距離を保っている。ここが成相さんが言うように府中市美術館「公開制作室」の難しさでもあり、逆に言えば問題が明確であるがゆえにアプローチがしやすいのかもしれない。

「ワークショップ」もたぶん、関係の固定化を揺るがすひとつの方法でした。つまり「作り手」ではなく受け手であった観客がなにかを「作る」。「作るー見る」関係はここでは曖昧で流動的です。しかしあくまでも「企画者」「発案者」「アーティスト」「作家」、なんでもいいですけど、その上位のものを前提とした内側で流動的であるだけで、「企画者—参加者」関係はそのままです。不特定多数を対象とする展覧会と違って、観客は自ら率先して企画に参加している。このある種のお膳立てのなかでは、むしろ関係がより固定化しているとも言えます。ぼくが参加型の作品に拒否反応があるのは、一見開かれているように見えて、アーティストと参加者の関係が、「与えるものー与えられるもの」を前提に成り立っているからかもしれません。例えば枠組みが壊れたり、関係が別のようにもありえたりするかもしれない、偶有的な関係でしかないんだとはなかなか思えません。ここでもしかし問題は明確なので、良質なワークショップがありえるとすれば、アーティストと参加者の関係そのものが曖昧で、立場の揺らぎがその場の雰囲気を支配しているものだといえるでしょう。

道筋をもう一度最初に戻します。「作られたもの(作品)」を「見る(鑑賞)」という本来の関係において、見ることが作ることに繋がる例があるとすればどうか。

成相さんは「誰も見ていない段階で作品が成立するとはぼくには思えない」と書いてました。たしかに作品は見られることによって「成立」する。誰にも見られていない作品・活動はそもそも存在しているのかどうかを確かめようがない。もちろん作り手のなかで「作るー見る」が往復しているとしたら、スタジオのなかで完成し同時に成立するとも言える。だから先の書簡でぼくは絵画を例にそう書いたわけだけど、スタジオで完成し作者が作品として成立したと思ったものも、仮にそこで作者が失踪してしまったとしたら、それは「作品」以前である、と言わざるをえない。当然ながら作品の存在が確認されていないわけだから。スタジオに残された絵画は第三者によって発見されるまで、いわば存在しないわけです。「作品」とはどこまで言っても、関係によって見出される、だれかによって見届けられることで成り立つもの、なんでしょう。

この点において、見る側は積極的に「作る」ことに関わっている。これが強く表れる例があります。見る側が積極的に意味を与えることによって「作品」がべつの見え方をする、あるいはそれまで見えなかったものが「見える」ようになる。いずれも見る者を通して「作品」が新たに「成立した」と言えます。この強い鑑賞の態度は批評ですよね。最近のものでは、沢山遼さんのテキスト(*1)が好例です。カール・アンドレといういわば手垢のついたアーティストの作品を「行為/態度」という一点において読み替える。それによってリテラルに固着していた作品がアーティストの身体、その「労働」に着目することでまさに動き出す。このとき強い鑑賞者は作り手とほぼ同じ位置に立っています。もちろんテキストのなかでは意味を付与する態度と分析する態度を沢山さんは行ったり来たりしている。アンドレの「作るー見る」に沢山さんの「見るー意味づける/読み直す(=作る)」が対峙され、それぞれが交流している。これはまさに「交感的」なテキストだと思います(それに加えて、アンドレ以後のいまのアーティストの活動にも適応できる可能性に満ちている)。

しかし強い鑑賞を導かなくとも(批評やテキストによらずとも)、ただだれかによって作品が見届けられるだけでも、成立の条件は十分かもしれない。第三者によって「作品」の存在が確認される。例えばあるひとが畳の上に夕食の残りを並べる。その行為がなんであるのかは本人さえもわかっていないのかもしれない。しかしそれが母親によって写真に記録される。そうして「見届けられること」によってそれは「作品」として存在し始め、だれかの元へと開かれていく(*2)。このとき「見る=見届ける」ことは「作る」行為と対等にある。おそらく成相さんの考えはこれに近いんじゃないでしょうか。

ぼくが『作ること』というテキスト(*3)のなかで考えていたことは、たぶんここに繋がるのかもしれません。例えば電話しながら書く落書きとか、古タイヤで作った植木鉢とか、空き缶でできた提灯とか、なにかを作る喜びってありますよね。それとぼくが作品を作っているってことには差があるんでしょうか。アーティストの作ったものとうちのオヤジが作ったものはまあ、確かに違うでしょう。技術面でも強度においても。でも、行為の次元では優劣ってないんじゃないかって、同じなんじゃないかって思うのです。うちのオヤジが作った古タイヤの植木鉢も、だれでもいいですけど、たとえば緻密に作られた小谷元彦さんのミイラ(?)の騎馬像も、作っているときの衝動や喜びを含むその行為っていう次元では基本的に同じなんじゃないかと。

ぼくらは日々なにかしら作っているとも言える。料理にしても、裁縫にしても。その「作る行為」のなかにはさまざま体験が豊かにあるはずです。それぞれのひとにとっての、それぞれの実体験はお互いに比べられるものではない。なのでそれらはそれぞれに同等である。ぼくは、この作る行為のなかに含まれる契機を指して「創造性」と書いたけど、これはちょっと大げさで、なおかつ間違いです。なにかが生み出されるのではない。ぼくらはそもそも物質を無から生み出すことはできないし。すべての「作る行為」はあくまで、すでに存在するものを多かれ少なかれ組み合わせることです。コラージュや編集ということが最近の作品のキーワードなのはこのことと無縁ではありません。絵を描くことと写真のコラージュでは自由度の差はあるにせよ。

先に書いたように作り手はいつも特権的です。作ったひととそれを見るひとのヒエラルキーはそう簡単には揺らがない。だけど、アマチュアとプロの差が見えにくいのが現代美術の特徴です。技術やフェティッシュに頼ることで作品の価値を高めることはその必然ですが、むしろ問題を覆い隠しているのかもしれない。作品を見たときに「俺にもできる」と言うひとがいますが、これは「作るー見る」関係がそのひとのなかで対等であると感じられたときに発される言葉です。タイヤの植木鉢みたいなものほど「作者—鑑賞者」関係は入れ替え可能に思える。自分もその作者の位置でありえるかもしれない。これはむしろ積極的に「作る」ことに関与している。

たぶん、これが「鑑賞者がいない世界」ですよね? いや、それでさえもまだ「強い鑑賞」なのかもしれません。少なくとも見ることによって「作品」の存在を認めてくれているわけですから。めんどくさがりで、素通りしてしまうような、鑑賞にさえ興味のないひとたちもいるでしょう。

ちょっとまとまりに欠きますが、この辺りで成相さんにバトンを渡したいと思います。
次回の返信楽しみにしています。

2010年2月2日 晴天のLAより
田中功起

*1 沢山遼「レイバー・ワーク:カール・アンドレにおける制作の概念」(『美術手帖』2009年10月号、pp.160~171))
http://www.bijutsu.co.jp/bt/hyouron_effect.html

*2 「見届ける」ことについて、以下のポッドキャストより示唆を受けました。
かえるさんのラジオ沼「396: ピカッについて/見とどける人とアート」(2008.10.28)
http://12kai.com/numa/

*3 田中功起「作ること」(『REAR』No.22所収、2009年10月)
http://kktnk.com/podcast/related_to_shitsumon.html

近況:約1年ぶりに2週間ほど一時帰国中です。
2つのトークのお知らせ。2/11(木)祝日にトーキョーワンダーサイト渋谷で16時からレクチャー、後半は藤幡正樹さんと話します。再渡米直前の2/17(水)にはArt Center Ongoingでオープニング・トークにゲスト出演します。お時間ありましたらぜひ!

・『ダブルビジョン』展、関連レクチャー
田中功起「30分に縮めたここ一年の話とより広がりのある会話」
日程:2/11木曜日・祝日
時間:16:00-17:00
場所:トーキョーワンダーサイト渋谷
http://www.tokyo-ws.org/archive/2010/01/double-vision.shtml
内容:前半は一時帰国中の田中功起によるここ一年間の活動について話。日本でまだ見せていない新作を中心に本人の解説をまじえて紹介します。後半は、今回の「DOUBLE VISION」展の 作品について、また最近の映像表現をめぐって藤幡正樹と対話します。

・グループ展『新潟への旅』
日程:2/13~3/22
場所:新潟市美術館
http://www.ncam.jp/html/modules/news/article.php?=&storyid=360
内容:HOSE(バンド)がトンカツ屋でトンカツのためにライブをする、というショート・フィルム/ドキュメンタリーを制作する予定です。

・原田賢幸、永畑智大『陸上バタフライ』展 スペシャルゲストトーク
『田中功起への3つの質問と、田中功起からの3つの質問』
ゲスト:田中功起、鈴木光、早川祐太、芳賀龍一
日程:2/17(水)
時間:19:00~
場所:Art Center Ongoing(吉祥寺)
http://ongoing.jp

往復書簡 田中功起 目次

・質問する 2-1:成相肇さんへ
・質問する 2-2:成相肇さんから

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