6_ドナ オン 「ホームアゲイン」展作家解説[原美術館]

「ホームアゲイン―Japanを体験した10人のアーティスト」展出品作家メールインタビュー。2008年にこのプログラムで滞在制作をしたドナ オンは、日本の人形が持つ歴史的背景に着目し、それらが織りなす独特の世界観を映像作品にしました。その後、2009年には黄金町バザールでも滞在制作を行なっています。聞き手: NPO法人アーツイニシアティヴ東京[AIT/エイト] *この文章は展示室にも掲示されております。


本展記者会見にて 撮影:木奥惠三

ドナ オン Donna Ong シンガポール 1978年生
シンガポール在住。ロンドンのゴールドスミス カレッジで学ぶ。シンガポールビエンナーレ(2006)、モスクワビエンナーレ(2007)などに出品。神話や宗教・美術史にモチーフを見出し、インスタレーションや映像作品を制作する。東京滞在中(2008)、オンは、ドールハウス用の小さな食器や家具を集め、それらを黒やグレー、銀色に着色して組み合わせた人形の家のようなインスタレーション「秘めたる、静かなる場所で」を制作した。新作は、同じく滞在中に興味を引かれた日本とアメリカの友好のシンボルであった「フレンドシップ・ドール」(1927年に日米間で贈答された)をモチーフに、西洋と日本の人形が2体登場する映像作品「出会い」を展示予定。静粛な映像のなかの人形は、おもちゃとしての無邪気さも残しつつも、過去が宿るものとしての不気味さを醸し出す。

問1:あなたの作品では、出発点として親密で小さな設定やシナリオを選ぶことが多いですね。東京で制作した作品は素敵な家具のミニチュアでしたが、これらの作品はどのように思いついたのでしょうか。

問2:また、作品を作り始める際、物語や小説が念頭にあって制作するのですか。作品の様々な要素は、頭の中でフィクションと結びついているのでしょうか。

東京で作った作品は、日本でお店を見て回っているうちに、何軒かで売っていた人形の家具や小物の種類の豊富さに魅了されてできたものです。また、小さなアパートで暮らしていたことが、スケールについて考えるきっかけとなりました。過去のインスタレーションは大型のことも多かったのですが、東京の部屋のサイズ、そして限りある居住・仕事スペースに、皆が物を上手く変形したりして収めていたことは、私に疑問を投げかけました。私の作品はいつもそんなに大きくなければならないのかどうか、小さなスケールでも同じ効果を得られるのかどうかと。それで、人々の夢と現実の間の溝と、その溝を埋めるために人々はどう選択してきたかというテーマで、それまでの作品に続くものを作ることにしたのです。この場合、人形やおもちゃで遊ぶこと、特に大人が遊ぶことは、ある種の満足感を得るためや現実からの逃避なのではないかと感じました。この遊びは、現実には叶っていない人生のある部分を叶えましたし、彼らが起こってほしいと願うシナリオや夢を演じることができました。おもちゃの家具を使った私の作品は、普通におもちゃ遊びよりちょっと度の過ぎたものです ― 子供のゲームで遊ぶ大人は真剣過ぎ、それゆえ、ほとんど異様で、少し不穏な雰囲気が漂います。


ドナ オン
「秘めたる、静かなる場所で (iv)」
エナメル絵具、ミニチュアプラスチック玩具、プラスチック製品
2008年 20 x 13 x 27 cm
個人蔵

「秘めたる、静かなる場所で (viii)」
エナメル絵具、ミニチュアプラスチック玩具、プラスチック製品
2008年 20 x 20 x 18 cm
個人蔵

撮影:木奥惠三

問3:最新のビデオ作品は1920年代に日米による人形の交換の話から発想していると思いますが、どのようにこの話と出会ったのでしょうか。また何に惹かれたのでしょうか。

問4:また、ビデオは光と影を用いていて、また、ほとんど静止画像の連続のようで、ヤン シュヴァンクマイエル監督の不思議の国のアリスの映画を彷彿させます。

新作は、日本の伝統的な人形、特に市松人形を調査したことが基となっています。市松人形をある店で見て、それについてもっと知りたくなりました。それらは「フレンドシップ ドール プロジェクト」*のために作られた人形に影響を受けているものだということがわかりました。そして「フレンドシップ ドール プロジェクト」が何であったのか調査したくなったのです。そうやって学んだことで、私は触発され、昔の子供たちによるこの感動的なプロジェクトに光を当てた作品を作りたいという衝動に駆られました。二つの国を結びつけ平和をもたらそうという努力に心を打たれましたし、彼らの努力で戦争を回避することができると信じていたその想いに惹かれました。私は彼らの努力を称えたかったし、彼らの行動に続くために人々を触発したかった。また、彼らの努力は望んだようには成就しなかったけれども、彼らの成しえなかったこと、すなわち両国の国民の間に平和をもたらすことに後の人々が成功することを願ったのです。

私はAITでの滞在期間、日本と西洋の人形を集め始めましたが、その時は作品を発展させて仕上げる時間はありませんでした。骨董市に行って第二次世界大戦中の小さな人形を買いました。また日本のおもちゃの家もいくつか購入しました。その後1年間、ヨーロッパのアンティークマーケットに行き、日本と西洋の人形のコレクションを築きました。私の作品は二つ人形を組み合わせ、日本人形が西洋人形に日本のおもちゃの家の中か、西洋のドールハウスの中で出会っています。人形は動かず、光だけが変化します。左から右へと時間の経過を象徴するものとして、また動いているような錯覚を与えるものとして。しかしながら、とてもゆっくりとした動きで、ほとんど目の錯覚のようですし、何か奇妙なことが起こっているように思う動きです。

*フレンドシップ ドール プロジェクト
このプロジェクトは、20世紀の日本とアメリカ間の外交史上あまり知られていない出来事を熟考するものです。話は、1924年、オリエンタル エクスクルージョン アクト ― 東アジアからの移民をアメリカから排斥する法律(日本での呼称は「排日移民法」)― が議会を通過したという緊迫した状況に抵抗して始まります。日本で布教活動に従事していたことのあるシドニー ギューリック牧師が、両国国民の相互理解の発展を願い、友好の印として日本の子供たちに人形を送るフレンドシップ ドール プロジェクトを始めました。1927年1月には、アメリカ中の子供たちから12,739体の「青い目の人形」が寄贈され、ちょうど雛祭りの時期 ― 日本の年に一度の人形祭り時期に日本に送られました。日本はお返しに、58体の特注のフレンドシップドールをアメリカへ送りました。それらはすべて着物を着ていて精巧な飾りが付いていました。人形は47都道府県と6市町村、当時の外地(樺太、台湾、朝鮮、関東州)、そして皇室を象徴していました。
しかし歴史は、結局、これら友好の表現を台無しにしてしまいました。真珠湾攻撃の後、アメリカが第二次世界大戦に参戦してからは、フレンドシップドールの多くは倉庫にしまい込まれたり、収蔵していた博物館やギャラリーから放出されたりしました。日本にある「青い目の人形」も同じような運命を辿りました。多くは、日本政府の命令で焼かれたり汚されたりしました。

Tumbler本展特設サイト http://homeagain2012.tumblr.com/
*BLOGにて作家や展覧会の動向を随時更新します。

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「ホームアゲイン―Japanを体験した10人のアーティスト」
8月28日[火]-11月18日[日]

「MU[無]―ペドロ コスタ&ルイ シャフェス」
12月7日[金]-2013年3月10日[日]

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