小規模プロダクションと文化の中心勢力

消滅しつつあるアートセンターの事例 
ワシフ・コルトゥン

イスタンブールやマドリッドを始めとする多くの町において、中規模施設が閉鎖されるケースが近年ますます増えてきている。「アートセンター」や「現代アートセンター(ICA / kunstverein)」と呼ばれる施設である。これらのセンターは多くの場合、所在する都市の規模や機能性を反映している。1947年に設立されたロンドンのインスティチュート・オブ・コンテンポラリーアート(ICA)の閉鎖にまつわる議論は、単にマネージメントの失敗という点に集約される訳ではなさそうだ。2006年にそのコレクションの大部分がオークションに出品され、土地はスウェーデンの近代美術館に払い下げられたマルメのRooseumや、最近韓国文化芸術委員会(ARKO)に吸収合併されたINSAアート・スペースがそうであった様に、ICAの置かれている状況は、時代の流れなのである。それは、私達も知っている、美術館やより大規模なアート施設への市場の需要によって、「中間的なもの」が消えていく様なのである。

アートセンターは活動の幅にも限界があり、大手スポンサーのついた展覧会や複雑な運営形態の大規模企画展を開催する事はない。そもそもそうした方向性は、アートセンターの運営モデルではない。アートセンターは、館長の手腕が運営を左右する(館長主導の)傾向があり、その展望にかげりが見え出すと姿を消す事が少なくない。 Rooseumのチャールズ・エッシュ、Kunstverein Munich のマリア・リンド、そしてFrankfurter Kunstvereinの チャス・マルティネスといったやり手の館長達は、2000年から2005年の間に優れた業績を残したが、彼らが館を去った後、これらのセンターは同じ質の展覧会を継続していく事ができなかった。一方で、実験的かつ革新的に限界に挑戦できる領域は、アートセンターという場所の持つ可能性をなくしては語れないだろう。今日のアートシーンがあるのは、 Platform(イスタンブール)、Townhouse(カイロ)、Ashkal Alwan(ベイルート)、Unitednationsplaza(ベルリン)やBAK(ユトレヒト)といった、小さすぎるでもなく大きすぎるでもない、多くのアートセンター達の試みの軌跡があったからこそである。

ただし、歴史はアートセンターに残酷だ。休みなく印刷物を発行し続けるか、別の形での活動記録(アーカイブ)を発信し続けない限り、ほとんどのセンターは人々の関心の依る所とならない。そして、オンとオフを使い分ける柔軟性、アーティスト・ランやコレクティブな運営体制、短期的なコラボレーション企画といった一過性のスタイルを楽しむには規模が大きすぎ、コンスタントに観客に何かを提供していなければならないという需要に縛られている。

こうした中規模施設が、ヘゲモニー的ではない道義にかなった機関として存続する為には、どの様な戦略が必要だろうか? 分子的な小規模団体とスケールの大きな組織の中間(第三の立場)として機能する構造とは? どうしたら双方の可能性を橋渡しする存在になり得るのだろうか? メジャーな美術館がプログラムの改編や拡張を検討する際、やにわに小規模な組織の活動を称賛し歩み寄り、必要がなくなるまで(自分たちの準備が整うまで)その汁を貪り吸うというのはよく聞く話である。慈善行為となんら変わらない食糧供給か、共同企画という言う名のたまさかのジョイントプロジェクトは日常茶飯事である。美術館の様なメジャーな機関にとって小規模センターは、苛立の対象にもならない、それ以前の存在なのである。民営化が推し薦められた激しい競争社会の文化圏においては、現にイスタンブールがそうである様に、中間層が消散するか規模を拡大せざるを得ない状況が続いている。助成や資金援助といったスポンサーシップが、知名度のある大きな美術館に流れている事も、一連の中間層の減少に拍車をかけている。

こうした状況に対して、大きな美術館が担うべき義務がある事は明らかである。その汎用性、ホスピタリティー、設備を中/小規模センターに提供する事、公的な支援を利用できる立場を中/小規模センターの声に耳を傾けながら発揮していく事、そして利害の一致のもと、中/小規模センターの活動アーカイブおよび記録の保管・保存システムを確立していく事である。その点において、バルセロナ現代美術館の元館長であったマニュエル・ボルハ・ビレールが在職中、活動家グループや研究機関との公式および非公式の取り組みを通じて「公的な」館運営を実現させたやり方には学ぶべき事が多い。

(翻訳 板井由紀)

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