再演するべきか せざるべきか

再演するべきか せざるべきか
ドリョン・チョン

 

2010年3月14日から5月30日まで、マリーナ・アブラモヴィッチはニューヨーク近代美術館(MoMA)内の大吹抜けに座り続けていた。休館日の火曜日を除いて、美術館が開館している毎日午前10時30分から午後5時30分まで。金曜日は夜8時まで。彼女の回顧展『Marina Abramović: The Artist Is Present』は総日数67日間、時間数にして496.5時間である。(注:著者は同館のスタッフであるが、本展の運営には関わっておらず、以下の記述は著者の個人的見解である。)

1946年べオグラード生まれのアブラモヴィッチは、美術好きなら誰もが知っている作家であり、パフォーマンスアートやボディアートの草分け的存在だ。美術の教科書のパフォーマンスアートの項には、必ずと言ってよい程彼女の作品が紹介されている。中でも1974年にナポリで発表された「Rhythm 0』は、彼女の悪名高き代表作である。同作品では、はさみ、カミソリの刃、銃に銃弾といった72の道具が机の上に並べられ、観客はそれらを好きな様に使い、6時間に渡って、アブラモヴィッチの体に何らかの行為を施す様に指示された。参加者が大胆になるにつれ、状況は徐々にエスカレートしていき、3時間を過ぎた所でアブラモヴィッチの命に危険を感じた観客のひとりが介入して終了した。この様な代表作を生み出し、美術史にその名前が刻まれる 存在となり、1997年のヴェネツィア・ビエンナーレにおける金獅子賞を含む多くの賞や栄誉を手に入れた今となっては、もはやその実力をあえて証明する必要はないと思う人もいるだろう。

 

しかし、限界に挑戦し続けるからこそ、アブラモヴィッチは「あのアブラモヴィッチ」なのである。だから彼女はMoMAでの展覧会会期中、毎日毎秒同じ場所に座り続ける。胴回りはすっきりと、腰から下はゆったりと垂れ下がる、飾り気こそないがあでやかな立襟の衣装(最初は紺色で、ここ数週間は目の覚める様な赤)を身にまとい、いたってシンプルな机の前に置かれたこれまたシンプルな木製の椅子に腰かけている。椅子は四角い会場の真ん中に置かれ、四方から大きな照明があてられている。照明は、アブラモヴィッチと彼女の居る場所を照らし出すだけでなく、神がかり的なオーラを漂わせるアブラモヴィッチの存在感を増幅し、人々の視線を釘付けにしている。彼女の椅子と同じ木製の椅子が机を挟んで向かい合わせに置かれていて、誰でもが好きなだけアブラモヴィッチの前に座る事が出来る。にらめっこでもよし、テレパシーで交信するもよし、観る者が思い思いの形で対面する事が出来る。ニューヨークの様な街では、これをチャンスとばかりにアーティストを出し抜いてやろうという輩が必ずいるもので、私が知る限りでも2回、若手のパフォーマンスアーティストがアブラモヴィッチと全く同じ格好をして現れている。うち1回は女性でもう1回は男性だった。

アブラモヴィッチが日々何を考えながら椅子に座っているかは想像する事しか出来ないが、制作の意図を知りたいなら、タイトルを考えてみるといい。『The Artist Is Present』(訳:「アーティストがいる」とも「アーティストは今である」とも解釈できる)。アブラモヴィッチは見る者の目の前にいる。そして自らの身体(=存在)を観客に提示する。彼女は確かに存在している。つまり、彼女の存在が今という時間の化身となる。もしあなたが日本かどこか別の場所にいて、実際の彼女を見る事が出来ないとしても、インターネット上で会場の生中継(リアルタイムのアブラモヴィッチ)を見る事が出来る。[http://moma.org/interactives/exhibitions/2010/marinaabramovic/].

同時に、この作品が我々に提示しているのは、パフォーマンスアートとは、その名の通り、生きたメディア(素材)の芸術であるという事だ。この事を表象する為のアブラモヴィッチの荒っぽい方法論は、ニューヨークのアート関係者の間で大きな物議をかもしている。優れた作家として高い評価を受け、リビング・ヒストリー(生きた歴史)とさえ言われるが、アブラモヴィッチは作品に対する批評が常に二極化する作家である。今回の展覧会に関しても、私の同僚や一般の人達の反応は大きく二分している。美術館を劇場化し、自分自身の表現の為の手段として利用していると怒りをあらわにする人もいれば、過去の作品を「再演」する事について苦言を呈する人も少なくない。そんな作品の一つが「Imponderabilia」である。「Imponderabilia」(1977年)は、美術館の入口に特設された狭い通路に共同制作者であったウーライとアブラモヴィッチが全裸で向い合って立ち、観客は建物に入ろうとする時も出ようとする時も、自分の体を横にしながらやっとの思いでふたりの間を通らなければならないという作品である。

 

本展では、若いパフォーマー達(その多くはアーティストまたはダンサーとの事)がシフトを組んで、過去の作品を再展示、再現、再演している。「Imponderabilia」はMoMAの入口でも出口でもなく、展示室の真ん中で再演され、観客は通路の中に入らずして外からも鑑賞する事が出来てしまう。私が見た時は、男女の組み合わせでオリジナルの設定と同じであったが、日によっては女性ふたりが再演する事もあるというのを後日知った(男性ふたりというケースはまだ耳に入ってきていない)。オリジナルの作品がそうであった様に、観客が男性の方に自分の顔を近づけるか女性の方にするのかを選ばなければならないという演出であれば、観る者のセクシャリティーや社会的行動をあばくという意図が読み取れる。一方で、この二元的なジェンダーの問題が取り払われた作品の意味する所は何なのか?こうした変更が、作品の元来の含意をゆがめて伝えてしまうと思う人がいても無理はない。

再演という形態を好しとしない人達は、アブラモヴィッチが2005年にグッゲンハイム美術館で1960,70年代の代表的なパフォーマンス作品を再上演した『Seven Easy Pieces」を引き合いに出す。彼女が再演する事を選んだのは、自身の作品「Rhythm 0」や「Imponderabilia」と並んで美術史の教科書に登場するヴィト・アコンチの「Seedbed」(1971年)や ヨーゼフ・ボイスの「How to Explain Pictures to a Dead Hare」(1965年)等である。批判的な意見の中には、例えオリジナル作品を制作したアーティスト本人(但し、現存する場合のみ)に承諾を得ていたとしても、アブラモヴィッチがした事は彼らへの称賛どころか略奪の様なもので、それは共食いに近い残虐な行為だと言う声もある。アブラモヴィッチが他のアーティストの作品を再演した事と、他のアーティストが彼女の作品を再演する事は似て非なるものであるという私の反論に対して、若いアーティストを「雇う」というやり方が吸血的(他の人のエネルギーで生き延びる行為)であると言う人もいた。「では、時間的にも限定されたサイトスペシフィックな作品を忠実に展示するにはどうしたらよいのか?」という私の問いには、「記録資料を見せればいい!」という答えが返ってきた。

 

しかしである。多くの歴史的パフォーマンスの記録は、もっぱら白黒のスチール写真なのだ。静止画像を展示した場合、見る人がその「記録」をやみくもに崇拝する傾向があるのではないか?という疑問が残る。写真は常に全てを語らず、出来事の断片のみを語るので、私達もアーティストや当時を知る人達に話を聞く事でその時の様子を知ろうとする。しかし、彼らの記憶や言葉を信じて鵜呑みにしても良いのだろうか?私達は、なぜこうも記録というものに対して執着し信頼を寄せるのだろう。この数十年の間に学んだ最も文明的なレッスンは、言葉やイメージの真実性を疑えという事ではなかったか?もし本展が記録写真と記録映像のみで構成されていたならば、それこそ(アブラモヴィッチの)作品を体制化しているという事になるのではないだろうか。

美術館とは、モノを所有し管理する所と定義されている。キュレーターは、これらのモノを良い状態のまま保存し、引いては化石化する人達の事である。その場所で生身の体―特に現存するアーティストで新作を発表し続け、自らの過去を再考しようとする作家の身体―を展示する事は、生きた作品とアーティストそして「歴史」との関係性という点で、(美術館という)制度における反体制の思想と言えるのではないだろうか。このことは、少なくとも私にとって、非常に興味深い問題である。この問いに対してのアブラモヴィッチの見解を是非聞いてみたい。しかし、仮に答えてくれたとしても、あまり多くを語らないのではないかとも思う。

(翻訳 板井由紀)

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