艾未未のことば21:楊佳が上海の警察官を殺傷した事件をめぐる作品「ある孤独な者」に関する対話

楊佳が上海の警察官を殺傷した事件をめぐる作品「ある孤独な者」に関する対話[1]
責任編集・翻訳 / 牧陽一
香港陽光華語衛視china SUN TVのインタヴュー(2010年12月18日)より

 


『ある孤独な者』DVDカバー、幼い日の楊佳

 

China Sun TV(以下、Q) この映像作品はいつどこで撮ったのですか?どうしてこの作品を撮るに至ったのですか?

艾未未(以下、AWW) 楊佳事件についての最も早い報道は2008年7月3日付の『新京報』だった。[2] 7月1日に楊佳が上海の警察を襲った記事が3日の新聞に載った。報道記事はかなり簡略なもので、ある母子家庭で無職の北京の青年が、上海の警察を襲った。男の近所に住む人が言うには彼は随分孤独な人物だった、というものだ。1980年生まれのある北京の青年が上海に自転車で旅行して、なぜその後半年以上経ってから警察を襲ったのか? 通常の中国司法もメディアも、どれもはっきりとは言っていない。誰もがひとつの情報しか得られず、本当の悲劇は何なのかには触れることができない。

私たちが撮影を始めることは非常に困難だった。なぜなら、生の資料に触れることが極めて難しいからだ。上海では全体の報道をしっかりと覆い隠しており、この事件については最初から人々に懸念を抱かせた。事実の証明というのは確かに人が想像するより複雑なものだ。楊佳事件は最終的に私個人に大きな影響を与え、結果、夢中になって一緒くたに巻き込まれる事件となった。この案件は実際に形勢が逆転する可能性などないことは最初から分かっていた。なぜなら中国人にとって、殺人は命で贖われるものであるということが日ごろからの常識であって、彼が死罪に値するのは疑いのないことだった。私のすべての努力も私個人のあがきに過ぎないだろう。問題全体に大きな作用を与えるものでもない。だが、私は同時にこの事件の動機、原因、なぜ人々を殺したのか、何が彼を死に追いやったのかを広げて明らかにさせることを望んだ。事件全体は多くの可能性を秘めている。最後の結果についても様々な可能性を持っていた。だが、司法系統がでたらめだというだけではない。司法における多くの作為が人を脅迫し服従させるばかりか、事件の首謀者そのものになっていったのだ。司法は中国で日々起きる事件を解消し、社会の合意を映すものではない。逆にもっと多くの不正義で不公平な事故や事件を製造していたのだ。楊佳事件はひとつの明確な事例であり、いったい何が起こったのか、この判例は永遠に人々に記憶されるだろう。

 

Q この作品を見ると多くの困難が見て取れます。真っ向からの衝突も多い。あなたの撮影クルーはこんなにも嫌がられている。それでも強引に撮影する。何が理由ですか?

AWW 私たちによる多くの行為が、自分のためにものを言う可能性のある人、またはない人々のためにも、別の新たな可能性を生み、それを見せることができることを望んでいる。私たちは実際に楊佳のためだけにものを言っているのではない。同時にあの亡くなった公安の人間や、その家族をも含む人々のためにものを言いたいと切に願っている。だが、これも不可能なことだ。私たちが多くの努力を払っても、如何なる人もなんの言葉も発したいとは思っていない。ひとりの犠牲者が、あんなにも大きな苦痛を受けたのに、まさか亡くなった者の肉親にさえなんの一言もないのか? 誰も何も言わないのか? それは実に恐ろしい社会だ。個人が何かの理由で本当の感情を出すことを、そして真相が明らかになることを放棄している。私はただ、こんな恐ろしい社会現象の一部分になってはいけないと必死にあがき望むのだ。私たちは特別なことをやっているわけではない。私たちはただ「このことを私はその様には認識しない」と言っているのだ。

 

Q ある普通の人間が公安局で9人の人を続けて殺傷したことを、あなたは正常なことだと思うのですか?

AWW この国家には事件を根本から分析する能力がない。それぞれの事件で、具体的に何が起こったかが明確にはならず、事件の主体がいつでも遮られ除かれる。例えば5・12四川汶川大地震、いったいどれだけの生徒が、どのように亡くなったのか、建築物の状況はそもそもどうだったのか、誰もはっきりとは分からない。私たちが公民調査を実施して5千以上の名前を探し当ててやっと分かったのだ。もし私たちがやらなかったら、この事は中国で起きたほかの事件と同様に、ゴミ箱のごみのように放り捨てられ、二度と人々の目に触れることはなかっただろう。だがこのゴミは腐ってきて、一人ひとりの霊魂を毒するのだ。真実の追求と識別能力の問題において障害が現れる。それはこの民族の一人ひとりを確実に毒していく。すべての人が被害者なのだ。

 

Q 公民としての観点から、あなたは法律の意義は何だと思いますか?

AWW 法律とは社会の尺度だ。この尺度というのは私たちが日頃言う公平、公正、或いは正義の測定基準だ。法律はこの社会の基本的な特徴を定義づける。この社会の法律の執行者つまり司法系統は不断にこの尺度を改変し、たえずこの定規の目盛りを隠している。あらゆる事件で、いつも事実とはまったく違う結果を導けば、実際、法律は麻痺状態となる。結果的には全社会が権威を信じなくなる。その結果、奴らは他の方法に頼って社会を運行するしかない。その方法というのは私たちが通常「腐敗」と称するものだ。それは完全に権力に頼るものであるが故、事実を変え、密室で不正な操作を施す。そして、法律が失効したとき、当然一個の野蛮な生存法則になる。誰が資源を利用できるのか、もちろん、国家権力機構ということになる。

 

Q 楊佳は小さな検察の取り調べに遭って、警察官を殺害しました。気が小さいのでしょうかそれとも他に原因はあるのですか?

AWW そんなに単純なものではないと思う。彼の気が小さいとか大きいとかの問題ではない。また他人の気が大きすぎるとかそういった問題ではない。一個人の価値とはその生命だ。彼が生命をかけてでもひとつのことをしようとしたとき、彼の度量は大きい、なぜならそれは彼のすべての価値だからだ。彼が投げ出せるのは彼自身の命だからだ。彼が命を投げ出した理由は何か、彼は実に簡潔に言っている。楊佳事件について彼自身が言っている以上にはっきりしたものはない。彼は「こんな無念な思いを一生背負って生きていくなら、むしろ法を犯した方がいい」と言っている。こう一字一句をはっきりと言っている。彼は生命の尊厳を守りぬくために法を犯したのだ。もう法律は彼の眼中にはなかったのだ。

法律は人間が制定したものだ。倫理と恥辱は法律よりはるかに高い位置にある。法律には階級性と地域性がある。異なる文化背景には異なる法律がある。例えばイスラム教では私通した女は石で殴り殺されるか、鼻を削ぎ落される。彼らにとっては当然のことであって法律の範疇では公正なのだ。だが、道義の面で私たちは譴責される。これは人間の尊厳に対する一種の傷害だと思うからだ。私は楊佳のためにものを言っているのではない。私はただ、彼のロジックは実に明晰だと思う。彼は言う。「何事によらず、ものの道理というものがある。もし、お前がものの道理を私に与えないのなら、私がお前に私のものの道理というものを与えるだけだ。」

ここは人にものの道理というものを与えない国家だ。もうずいぶん時間が経っている。楊佳ばかりか5・12四川汶川大地震の調査で、私と成都警察との衝突について、まったくものの道理というものがない。やつらは皆言うのだ。誰がお前を殴ったのか? 証拠はあるのか? お前の幻想だろうと。楊佳事件とまるっきり同じではないか? すべての事件がこんなふうに処理されるなら、この政権自体が狭隘だ。人間に対する尊厳と道義を最も高い位置に置くことができないのだ。政権は一人ひとりの利益に傷害をあたえることで、その統治を維持しているのだ。

楊佳は彼の限られた資源で彼がやるべきことをやったのだ。彼はもちろん何人もの警官に殴られた。奴らは他の人間を殴るのと同じように彼を殴った。奴らはそれを何でもないことだと思っている。なぜなら、奴らが殴った人間はみな屈辱に耐え忍んだからだ。みな楊佳のように殴られた後も半年間、彼がしたように絶えず訴えてくるようなことはなかったからだ。楊佳は警察内の監督査察官に電話をしている。それによれば、彼が非常に理性的であることが分かる。多くの法律に訴えようとしている。また、母親にも電話して知らせている。彼は法律に対する意識の高い人間だ。この社会は如何なるひとりの法律意識を持つ人間の質疑さえも認めるすべを持たない。大多数はうすぼんやりとやり過ごし、もっと多くのものは恥を忍んで重責を負っている。このことをはっきりさせようという人間は数人もいない。楊佳は極めて数少ない頭脳明晰で責任を負うことを望み、それを様々な行動に委ねることのできる人間だと私は思う。だからこういう人のことを気が小さいなどという意見に私は同意しない。逆に大多数の方こそ気が小さいのだ。一時の快楽と安全のために公義を放棄し、原則を放棄できるような人間の方がよっぽど小心者だ。

 


『ある孤独な者』の一場面

 

Q 公民の安心はどこから来るのでしょうか?

AWW 法制が不健全な社会では、公民の安心は一種の屈辱によって成り立つ。中国人の言う「忍」だ。この言葉は中国文化の非常に重要な部分となってしまった。その意味するところは、私たちはかなりの快楽を喪失した、あるいは私たちの快楽は他人と共有できないし、私たちの苦痛も他人と共有できないということだ。こんな社会は当然ながら散らばった砂のような社会といえる。なぜならそこには公共の領域も無ければ公共の価値もないからだ。

 

Q あなたは楊佳を公民だと見なしますか?

AWW この社会では誰が公民かと言うことは難しい。なぜなら私たちは公民化した社会ではないからだ。ここは全体主義の社会だ。全体主義社会に公民はいるのだろうか?いわゆる公民というこの概念は、必ずや人が知恵と能力を発揮して、公共社会の中である種の作用を発することのできる状況下で初めて賦与される名称だ。全体主義社会の中で、すべての個人の可能性が剥奪されている。これを公民と呼ぶことなど私はあり得ないことだと思う。

 

Q 撮影の最大の困難は何ですか?

AWW 私たちのすべてのドキュメンタリー作品が遭遇する困難はいつもすべて同じだ。一方向からの叙述しかないということだ。私たちは被害者側には接触できるが、加害者であり権力の側には接触できない。奴らが出て来て話すということはあり得ない。これはドキュメンタリーとして最も残念なことだ。道理から言って、誰でもすべて出て来て話していいはずだ。それが部隊であろうと、裁判官であろうと、また警察官でも、その家族でもそのほかの人でもいいはずだ。『ある孤独者』では瞿建(楊佳事件の第二審の弁護士、楊佳の同意のもとで弁護した)を取材した。彼の話はこの作品のなかで非常に重要だ。彼の開放的な態度はやはり素晴らしいと思う。弁護士としての素養を持っている。非常に困難であるにも関わらず、私たちの取材を受けてくれた。謝有明[3]、この人物は何度も公安系統を使って私たちが彼を撮影するのを妨害させた。ついに私たちはそいつの顔を盗撮することができた。もし奴の顔が無かったらこの作品は作れなかっただろうと私は当時話した。なぜなら、私たちはすべての人たちにこの顔を、楊佳を災難に向かわせたのは誰かを、ひとりの普通の北京の若者を死に追いやったのは誰なのかを見せたかったからだ。

 

Q 映像が最終審におよんだ時、あなたたちは傍聴のために入廷することはできませんでしたか?

AWW 私たちは楊佳の裁判を撮影するために、いつも早朝の5時に法廷のところで傍聴券の受付に並んだ。楊佳を護送する車が出てくる場面を撮るために私たちの撮影クルーは上海の彼がいる刑務所の近くに潜んで待った。とてもきつかった。私たちが謝有明を撮るときにはそこで何日も待った。彼の一場面を撮るためだけに。私たちは最初に楊佳を警察に送り込んだあの警察官を撮るために、奴が勤務する交差点で何日も待った。なぜなら奴がいつ出勤するか分からないからだ。最後になんとか撮れた。私たちにはただ彼らがやってくることが必要だった。彼らが何かを話すことはあり得ない。事実を隠蔽するという面で、この国の人間はみな日頃訓練を積んでいる。意味のある材料は如何なるものも得ることは不可能だ。

 

Q この作品の発表後に誰か脅迫してきませんでしたか?

AWW そんな勇気のある人間はいないだろう。コソ泥が主人を脅迫するなんて聞いたことがあるか? 奴らはこうして実に陰険なことをやってのけたのだ。奴らは表に出てくるのが嫌なのだろうよ。誰一人としてそんなことはしたくない。奴らの脅迫はこの後にやってきた。私の上海アトリエを取り壊したのだ。[4] 奴らはこんなふうに人でなしで後ろ暗いことをする。奴らは私のアトリエを壊したのは私が楊佳事件に関わったからだと言うだろうか? いいやしない。だが、それは明らかなことだ。楊佳の件で私のアトリエを壊したということになれば、私を喜ばせることになる。私はアトリエを失ったが、私の影響はとても大きいということが分かった。奴らがこんなでたらめなことをやらかしたのは、あきらかにこの映像作品のせいなのだ。

 


事件発生ごろの楊佳

 

Q 楊佳の死刑執行の後、なぜ彼の家族は取材を受けたがらなくなったのでしょうか? 前はずっと協力してきてくれたのに。

AWW 私は最近もずっとそのことを考えていた。私でさえもうそのことを話したくないくらいだ。なぜなら結果が出たとき時には、あなたも自分の無力を感じたからだ。私が四川で殴られたことも、[5] あなたに誰もがみなお前は殴られてはいないというなら、あなただって自分が殴られたことはないとすぐに信じてしまうだろう。これは実に奇妙なことだ。つまり、あなたは精神病院に閉じ込められ、名前を変えられ、すべての人間があなたに薬を飲むべきだという。この現実はひとつの真実だ。第二の真実はない。こんなことをされれば、あなたは変わってしまう。投獄させられた多くの人間はみな変わってしまう。人間を投獄するというのは実に深刻なことだ。あなたは変わってしまう。信じないわけにはいかない。だから不思議なのはネルソン・マンデラのような人は何十年も投獄されてどうして変わることが無かったのか?[6] きっとかなり人道的な監獄でなければこうはいかない。中国の監獄なら数日監獄に入れられたらすぐに変わってしまう。

 

Q 最後に楊佳の母親を取材したのはいつですか?

AWW 私たちが楊佳の母親を訪ねたのはかなり遅かった。これも作品制作が遅れた大きな原因だった。楊佳が死んでからしばらく経って、彼女は何度も私たちの取材に応じると言ってくれたが、私たちが建物の下にやってきた時には、何度も気が変わって、もう応じてもらえなかった。私はもう諦めていた。ドキュメンタリーは作品にとっては、取材が早ければ早いほど意義がある。それは傷口が開き、ずっと血が流れるようなもので、そこに近づくすべはなく、それはとても不愉快な感じだった。私の当時の決定は単純なもので、彼女を取材できなければ、作品は作らないというものだった。私はある程度完全性を重視する。自分のために理由を見つけたくはない。彼女に取材するか、すべての映像を捨てるかのどっちかだ。

 

Q あなたの映像作品は全て見ていますが、多くの作品には結末がない。なぜいつも結末が見つからないのですか?

AWW 簡単なことだ。結末は未来のある日に現れる。だからすべてがサスペンス映画なのだ。

 

Q あなたは第一に芸術家なのですが、最近はいつもあなたが社会活動家に見えますが?

AWW いい社会活動家は芸術家で、いい芸術家は社会活動家だと私は思う。

 

Q あなたはひとりの芸術家としての社会責任は何だと思いますか?

AWW 芸術家の社会責任も一人ひとりの個人の社会責任も同じだ。だが芸術家は表現の権利と表現の自由をより重視するのだ。

 


 

[1] 英語字幕版One Recluse 《一个孤僻的人》、2012/12/10 に公開 制作:赵赵、王分(王芬:艾未未の息子艾老の母親)、王晓倩、艾未未 音楽:左小祖咒 艾未未工作室(2010.04.05 186分)中国語字幕のものは2011/01/02に公開。英語字幕版は以下のサイトで見ることができる。2020年5月現在4万3千回以上閲覧されている。
https://www.youtube.com/watch?v=nm00JuLm3vI

[2] 2007年10月5日北京から上海へと自転車旅行をしていた楊佳は、未登録の自転車に乗っていたために警察の尋問を受けた。身分証の提出を拒否したために楊佳は派出所に連行されリンチを受けた。高圧電気棒で性器を痛めつけられて、不能にされたという。何度も警察に訴えたが、聞き入れられず、2008年7月1日、楊佳は警察署を襲撃し、6人の警察官を殺害し、5人にけがをさせた。9月1日一審、12日二審、10月20日死刑確定。11月26日死刑執行。重要な証人である母親の王静梅は事件後失踪し、名前を変えられて精神病院で発見された。

[3] 上海閘北区政府の顧問弁護士でありながら楊佳の弁護に当たり、マスコミに「楊佳の犯罪内容は非常に重い。一般的に言って、量刑的にもほとんど何の疑問も無い。予想外なことが無ければ、死刑だろう。」と楊佳に不利な発言をしている。
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/杨佳袭警案

[4] 2007年上海市嘉定区馬陸鎮計画建設部門はアーティスト村を建設し、村興しをするために艾未未ら6人の著名アーティストに土地を提供し、アトリエの建築を頼んだ。アイは750万元(約1億円)をかけてアトリエを建設した。だが2010年10月27日上海政府から艾未未にだけ違法建築であるために撤去するという通知が届く。11月7日、アイの支持者ら1000人がアトリエで河蟹パーティーを開催したが、アイは自宅に軟禁され出向けなかった。2011年1月11日、アトリエは強制撤去された。
The Crab House 《河蟹房子》 English Subtitles https://www.youtube.com/watch?time_continue=4&v=bWFY0WR7UPw

[5] 2009年8月12日午前3時17分15秒、成都の安逸158酒店の513号室に宿泊していた艾未未が警察の襲撃を受け、頭部を殴打された。艾未未は譚作人裁判の証人に立つために成都に来ていた。このとき、助手の劉艶萍も拘留された。 艾未未《老妈蹄花》完整版がYouTubeで公開されている。また、日本語字幕等は「我们爱吃老妈蹄花We love Laoma Tihua」で閲覧できる。 https://sites.google.com/site/welovelaomatihua/jp/00-03-jp

[6] ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(Nelson Rolihlahla Mandela、1918~2013年、南アフリカ共和国の政治家、弁護士。反アパルトヘイト運動に身を投じ、1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受ける。27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放される。翌1991年にアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。デクラークと共にアパルトヘイト撤廃に尽力し、1993年にノーベル平和賞を受賞。(ウィキペディアより抜粋)

 


 

雑感(2020年6月)文 / 牧陽一

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