ホー・ルイアン「イメージの危機」(3)

イメージの危機
インタビュー / アンドリュー・マークル
I II

 

III.

 


Ho Rui An, Asia the Unmiraculous (2018- ), detail, lecture and video installation with digital prints on paper mounted on LED-illuminated acrylic, books, and magnetically levitated hand model. All images: Unless otherwise noted, courtesy Ho Rui An.

 

ART iT 西洋のエピステーメー(各時代の知の基本的枠組み)、事実上、これが国際的なエピステーメーになっていますが、これを人工知能の一種であるという風に考えてみることはできないでしょうか。人工知能は自らを探索の対象と見なします。だから、私たちの批評的試みのすべては、実際にはエピステーメー自体に根ざしているので、ただそれをより拡張つづけることになってしまいます。そこから逃れようとすればするほど、拡張してしまうというわけです。

HRA その点に関して、地図作成を19世紀の帝国支配に不可欠な技術として語った(歴史学者の)ファリッシュ・ヌールの『呼吸する地図』の関連トークは示唆に富むものでした。彼の話を聞きながら、現在私たちが当然のものと考えている地図や暦などといった基本的な様式、このようなエピステーメーの構造が形成される上で、19世紀がいかに重要なものだったのかがはっきりとしてきました。そして、それらがパラダイムとしてあまりにも強く定着したため、そこから離れるのは容易ではない。たとえば、アジアとヨーロッパでは時間の概念が異なるというような、あからさまに文化本質主義的な議論は、ただただヨーロッパ的な想像力が私たちの制度のどれほど深くまで浸透しているのかを判りづらくするものであって、実質的にこのヘゲモニーから自由意志で逃れることのできる文化などどこにも存在しません。いかなる個別の実践も決してこのヘゲモニーを解体することはできませんが、それを問い質していくこと、少なくとも亀裂が走りうる瞬間を指し示すことは出発点として相応しいのではないでしょうか。

 

ART iT 自分の感性を築き上げていく上で重要だったものはありますか。

HRA 私の学術的背景は視覚文化やメディア理論的なものから来ていますが、コロンビア大学で修士号を修めた人類学の影響も受けてきました。人類学を学んでいるときに、レクチャーを作品を発表するための言論形式として捉えはじめました。初めて全編を通じたレクチャーをやったのは、《Solar: A Meltdown》にまで遡ります。

昔からイメージを扱うことのできる思想家に憧れてきましたが、自分が最も興味をそそられるイメージがアートワールドの外で流通しているのに気づいたことも、人類学に移る理由のひとつでした。数々のイメージを映画史から広く引用してきましたが、自分が惹きつけられるイメージの大半は、私がヴァナキュラー・シネマと呼ぶものから来ています。《Asia the Unmiraculous》に出てくる最も重要な事例は、中国の高速鉄道内でコイン立てテストを行なう映像です。中国の高速鉄道インフラへの現行の投資に対する反応として、2015年にこうした種類の映像がネット上に現れてきました。それぞれの映像は主に中国の高速鉄道網を利用する観光客や外国人旅行者が撮影しており、車内の窓台にコインを立ててバランスをとり、その安定性を測定するというものです。こうした映像は間違いなく映画的です。ある意味、それらは以前私が《DASH》で考察したような種類の映像、ドライブレコーダーなどで撮影した映像のカウンターショットを示しています。ドライブレコーダーは新しい映画装置で、新しい映画装置とともに新しい認識が生まれます。政治的なものであれそれ以外のものであれ、そのような新しい認識が含み持つ幅広い意味とはどのようなものでしょうか。

この問題について書かれた最も挑発的なテキストは人類学者によるもので、彼女たちは映像が流通する社会的環境にによって組み直されるヴァナキュラー・シネマの実践を所与のものであるとし、研究に取り組んできました。私はコロンビア大学の教員たち、とりわけロザリンド・モリス、ジョン・ペンバートン、マリリン・アイヴィー、ブライアン・ラーキンからたくさんのことを学びました。

 

ART iT あなたの言語に対するアプローチは、言葉の連想から生まれる数々のアイディアなど遊び心に溢れていますね。

HRA 途切れなく連想を続けたり、言葉自体の形に関心を払ったり、シニフィアンの運動を追うようにしています。たとえば、IMFのような略称の文字自体を起点に、さらに国際通貨基金(インターナショナル・マネタリー・ファンド)を映画『ミッション・インポッシブル』シリーズのインポッシブル・ミッション・フォースに繋げてみる。単語を純粋に意味論的なレベルでただ分析するよりも、むしろ水平的な関連性をつくりだすのを楽しんでいます。言語そのものが水平的な流れの下に作用すると考えているということもありますね。アジア金融危機の際にタイでは「IMF」という言葉が流行り、それは「安価(cheap)」と同じ意味を持っていました。この言葉が外国由来であること、あるいはビセンテ・L・ラファエルが「異質なものの可能性(promise of the foreign)」と呼ぶもの、それこそが言葉が新しい意味を運ぶキャリアになる可能性を開くと考えています。あらゆる言葉の内にこの可能性が秘められていると考えることで、言葉が表そうとする世界の新しい見方が開かれてくるかもしれません。

 

ART iT リサーチしたもののレクチャーに現れないものはどれくらいありますか。

HRA 実は大半がそうです。制作は通常、たくさんの書籍や資料を読み、たくさんの映画を見ることからはじまります。ほんのわずかでも主題と関係がありそうなものならなんでも調べます。たとえば、《Asia the Unmiraculous》のリサーチ過程では、レクチャーでも言及した『エントラップメント』に出演しているショーン・コネリーのすべての出演作品を見ました。日本が舞台となった若きコネリーが出演している『007は二度死ぬ』を入れて、マレーシアを舞台とした『エントラップメント』に結びつけたいと真剣に考えていましたが、あの物語にうまく合わせられませんでした。

このように、私は基本的にとても広い範囲でリサーチをはじめ、たとえばショーン・コネリーのようなトロープ(転義的比喩)が現れてくるまで素材を貯め、続いて、複数のトロープがしっくりくるような思考の筋道を追います。ある地点で、複数の筋道がひとつの物語としての形をつくりはじめるのですが、通常は一年以上かかるかなり長期的なプロセスです。

 


Both: Ho Rui An, Asia the Unmiraculous (2018- ), detail.

 

ART iT 《Asia the Unmiraculous》では、リサーチのためにピレウス(ギリシャ)、山口、バンコクと遠く離れた場所を物理的に移動していましたが、過去にもこのような規模でリサーチを行なったことはありますか。

HRA 過去の作品に比べて、このプロジェクトではほとんど現地でのリサーチが求められました。要因のひとつは、インタビューの最初の方でも言及した金融に関するイメージの欠乏によるものです。財政破綻に続く副次的な影響についてのイメージはたくさんありますが、世界金融の政治経済それ自体に対応するイメージはほとんどありません。というわけで、実際にはそこにないかもしれないものや、最初はほとんど見えていなかったものを探すために、そうした場所を訪れたということでもあります。さらに、この作品はまさに現在のことを扱っているので、経済の奇跡や危機に大きな影響を与えた場所を再び訪れてみることが制作過程に重要だと感じていました。このように、《Asia the Unmiraculous》の大部分が扱うのは、いまなお展開しつづける奇跡と危機の間の弁証法的なものです。そして、レクチャーの中で示唆したように、中国という新たな主役が支えるアジアの奇跡に関する新しい言説が存在します。

 

ART iT 両極性というものは常に移り変わります。たとえば、香港やシンガポールのような旧植民地は、かつての宗主国とのまさに中心−周縁という関係性の中で前線基地を務めていました。そして現在、中国経済が盛り上がるなか、両都市こそが世界金融の最前線であり、かたやヨーロッパは後塵を拝していると思われています。

HRA そのような意味では、シンガポールは奇妙な立場にあります。ただし、たとえ経済および軍事的観点でどれだけ強力になろうが、シンガポールが世界の主導権を握るとか、あるいはアジアの主導権を握るとか想像するのは妄想ですね。せいぜい、アジアの主導権を実際に握っている中国とアメリカ合衆国の競合する利害を操ろうとしながら、もはや戦略の余地がほとんど見つからないグローバル体制の中で雇われて動いているというところでしょう。

 

ART iT しかし、シンガポールも経済インフラに投資したり、東南アジアの文化的ヘゲモニーの確立を目指すことで、この地域で新植民地主義的戦略を押し進めようとしていると理解しているのですが。

HRA はい。実際、東南アジアとの関係性は、労働、生活する土地、いずれの点においても直接的な搾取のひとつです。シンガポールの土地の造成は、都市国家が隣国の環境資源を搾取する能力次第だということがよく知られています。当然、これらの多くはシンガポールの経済力によるものですが、東南アジアとの関係性という意味では日本もほとんど変わりません。しかし、主導権について話すのであれば、その基準はもっと高いところにあるべきだと思います。ヘゲモニーを握る主体の重要な特徴のひとつとして、イデオロギーの輸出が挙げられます。「シンガポールモデル」は実際に中国のたくさんの都市で採用されていますが、それを以てこの都市国家が世界規模あるいは地域規模で意味のあるアジェンダ設定をしていると理解する人はいません。シンガポールはより巨大な力が社会統制技術を完全なものにするための知識を抽出する実験室であると捉える方が有益だと思います。

 

ART iT 中国の高速鉄道のコイン立てテストの映像で終わるとはいえ、《Asia the Unmiraculous》が中心に扱うのは1997年の金融危機なので、作品内で現代中国が果たす役割はさほど大きくありません。中国を扱うのは別の機会だと考えていたのでしょうか。

HRA 中国は亡霊としてレクチャー全体に取り憑いていると言えるかもしれません。そこからはじめましたが、作品全体では中国をほとんど扱いませんでした。そして、それ自体がアジアの奇跡に関する言説全体を反映するものになっています。鄧小平の南巡講話のちょうど一年後の1993年に発表された東アジアの奇跡に関する世界銀行のレポートには、中国へのさりげない言及はあれど、ほとんどの経済学者は中国経済がどれだけ素早くテイクオフ(これは当時のくだけた言い回しですが)するのかについて、予想できませんでした。ですから、ある意味では、このレクチャーの構造がこの地域と中国との歴史的な関係性を反映しています。

中国の経済的な奇跡という主題も、それ自体、一連のレクチャーを要するようなものです。進行形の中国に対する解釈の大半がやや性急なもので、私たちが直面している不確かさを説明できないのではないでしょうか。大体において、リベラルなメディアは過去の想像力にかなり頼ったままで昨今の中国について語っており、必然的にそうしたトロープの多くは19世紀の資本主義の産業主義的想像力に負っています。現在の中国で起きている数々の出来事には、新しい概念的枠組みが必要なのではないでしょうか。

 


Ho Rui An, Asia the Unmiraculous (2018- ), detail. Photo Yasuhiro Tani, courtesy Yamaguchi Center for Arts and Media.

 

ART iT 細かな点で話をまとめていきたいと思います。《Asia the Unmiraculous》のパフォーマンスの際に、あの「手」は磁気の力で浮いているのですが、これが日本で建設途中のリニア新幹線を連想させます。そして、例のコイン立てテストの映像でレクチャーを締めていますが、これはどこかスクリーンセーバーのようでもあります。このふたつのイメージは仮死状態を暗示しますね。私たちはつい歴史的発展という観点から考えてしまいますが、仮死状態は動いているけれども動いていないものだけでなく、死んでいるけれど死んでいないものに言及しうるため、私たちの現在地について考えるためのオルタナティブな方法になるかもしれません。

HRA 磁気浮上とリニア新幹線との関係を指摘してくれたのはありがたいです。展示に使った書籍のひとつが、石原慎太郎の反西洋的な民族主義的論争『「NO」と言える日本』でした。そこで石原が西洋に対する日本の優れた点として、日本のリニアが浮上する高さを挙げていました。確か当時のドイツのそれを凌ぐ8センチだったと思います。植民地時代は汽車の驚異的な速度が力のシニフィアンだった一方で、石原にとってレールから車体が浮く高さが経済的優位の新たな指標になっていました。そして、現在ではコイン立てテストの映像に見られるように、安定性が科学技術の進歩の新しいシニフィアンになりました。金融変動時代における安定力という、中国の幻想を支えるイメージ。これこそが中国に注目し、中国が現在のグローバルな危機に解決策をもたらすことができるのだと心に描く西洋の一部の人々が広める幻想です。

 

ART iT こうして慣性の話で締めくくることになりましたね。

HRA または静止。動きの中にあって、動かない能力。グローバルな移動というトレンドについて考えるならば、それは特権ですね。近年、頻繁な移動を課された人々とは、不安定な条件の下にいる人々であり、動く必要がなかったり、休息をとることができるのは、実のところ、特権の最大の証拠です。おそらくこれがコイン立てテストのイメージにあれほどまでに魅了される理由ではないでしょうか。

 


 

ホー・ルイアン|Ho Rui An
1990年シンガポール生まれ。現代美術、映画、パフォーマンス、理論が交差する領域で制作活動および執筆活動を展開。グローバリズムや統治機構の文脈の中で生産、流通、消滅するイメージに焦点を当て、権力とイメージの変容する関係性を調べあげ、レクチャー・パフォーマンスやそれを基にした映像作品やインスタレーションなどの形式で表現している。コーチ=ムジリス・ビエンナーレ(2014)、シャルジャ・ビエンナーレ13(2017)、ジャカルタ・ビエンナーレ(2017)、銀川ビエンナーレ(2018)、光州ビエンナーレ(2018)、アジアン・アート・ビエンナーレ2019、ノッティンガム・コンテンポラリー(2019)といった国際展を含む数々の展覧会に参加。最新作の《Student Bodies》(2019)は、第65回オーバーハウゼン国際短編映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した。2014年には、シモン・カステとハンス・ウルリッヒ・オブリストが立ち上げた「89plus」がシンガポールで開催された際にキュレーションを手掛けるなど幅広い活動を展開。2018年にDAAD(ドイツ学術交流会)の助成を受け、現在はシンガポールとベルリンを拠点に活動している。

日本国内でも2012年に札幌国際短編映画祭やSintok シンガポール映画祭(東京)で映像作品を上映、2016年にはTPAM(国際舞台芸術ミーティング in 横浜)で《Solar: A Meltdown》、2018年に山口情報芸術センター[YCAM]、2019年に国際交流基金アジアセンターで《Asia the Unmiraculous》をレクチャー・パフォーマンスとして発表している。展覧会としては、2017年に『サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から』(森美術館、国立新美術館)、2018年に『呼吸する地図たち』(山口情報芸術センター[YCAM])に出品している。

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