テーリ・テムリッツ「逸脱状況を表現する不協和音」

逸脱状況を表現する不協和音
インタビュー / アンドリュー・マークル

 


All images: Terre Thaemlitz, Video still from Deproduction (2017), courtesy Comatonse Recordings.

 

ART iT まずはTPAM2019で上演した『不産主義』の理論的背景からはじめましょうか。2017年のドクメンタ14で同作の初演が披露されるというニュースを受け取ったことを思い出します。日本に関する具体的な言及があったかどうか思い出せませんが、あなたのステートメントから同作が日本の社会政治的文脈に応答したものであるという印象を強く受けました。ここ20〜30年の日本になんらかの繋がりがある人なら、誰もが次のような言い回しを耳にしたことがあるのではないでしょうか。「日本経済の停滞」、「人口の高齢化と減少」、「少子化が進めば、国が滅んでしまう」といった言い回しを。こうした言い回しは、逆に右肩上がりの成長を価値とする男根中心の近代的イデオロギーを反映しているのだと解釈することができます(「バブル」は何よりもまず勃起や夢精の隠喩ですよね)。昨年、自民党衆議院議員の杉田水脈が雑誌に寄稿した記事の、LGBTは「生産性」がないという主張には、このイデオロギーに固執する態度が明確に示されていました(その上に、第二次世界大戦後に日本はアメリカ合衆国に「去勢」されたのだという右翼が昔から抱いてきた幻想を思い浮かべることもできます)。しかし、憲法第9条についても言えることですが、人新世的な生活全体が現実的に持続不可能だということがますます明らかになる中で、日本では支配的な価値観に反対する機会が失われつつあるような気がします。経済の規模縮小を試してみようとか、より少ない人口の可能性を活用してみようとか(これはより多くの移民や難民を受け入れることにも及びます)。確立した権力構造に反対するのが難しいのは当然ですが、だからこそ、『不産主義』の基本哲学、そう私が理解したものが強く心に響きました。同作において考えてきたことを教えてもらえませんか。

テーリ・レムリッツ(以下、TT) 約20年暮らしてきた日本における生産の文脈は、たしかに『不産主義』を特徴付けています。現代の資本主義や家父長制を考え直す機会が失われているとおっしゃいましたが、私はもう一歩踏み込んで、日本の政治文化はそのような機会を断固拒絶していると捉えています。女性やクィア、(10年ほど前にも別の政治家が「フリーライダー」というレッテルを貼った)意識的に子どもを産まない人々に対する度重なる政治的、経済的な攻撃がそれを証明していますよね。世界的に考えたとき、フィンランドやスカンジナビア諸国のような、より少ない人口で社会福祉が充実している国々に目を向ければ、あなたや私が考える「機会」の多くは、必ずしも「支配的な価値観に反対する」ものであるとは限りません。もちろん、そうした国々に比べて、日本は労働力を除けば相対的に天然資源が乏しく、それによってこの国の労働文化があまりにも隷属的になっているのですが、それでも日本の政治指導者が実行すると決断さえすれば、社会が収縮する中で活用できる国際的な前例は間違いなくあります。ただ、彼らはやらないし、やろうともしないだけです。

日本の資本主義的発展やグローバル化がここまで進んだ段階で、時に忘れてしまうのは、民主主義的な実践や平等主義的なイデオロギーといった概念は、ほとんど文化的に輸入されたものだということです。それ故に、日本の政治は土着の社会運動(つまり、国粋主義的な志向からの自己解放)を構成しえたものをめぐるイデオロギーの対立に未だに悩まされているのではないでしょうか。植民地主義との関係も多面的で、それは(中国と西洋のヘゲモニーに対する)数百年に及ぶ鎖国や、それとは対照的に日本が自ら脱植民地化を選びとることなく、もっぱら西洋の介入を通じて終わりを迎えた20世紀初頭の東アジアに対する集中的な植民地化に特徴付けられますね。このように歴史的視野で捉えれば、現在のイデオロギーの対立も理解できます。というか、少なくともこの対立が何に起因するのかまったくわからないものではないという意味ですが。反−本質主義的な視点から見れば、この対立をまとめる価値ある分析はいずれも、解決ではなくむしろ同時性や偽善を分析したものでなければいけません。しかし、ナショナル・アイデンティティは単一性を追い求めるのであり、日本も例外ではありません。そして残念ながら、西洋諸国をはじめとする多くの国々に見られるように、右翼や国粋主義はこの議論が繰り広げる特定の効果、つまり、伝統主義や家族観に関するものを重要視するのです。そこにまるでタイミングを見計らったかのように、右翼政権が次の元号を「令和」と発表しました。この言葉は、日本(和)の司令/指令/命令(令)の時代という抑圧的な意味合いを持つにすぎません。まったく縁起が悪いものです。政権が公表したにもかかわらず非公式だという「beautiful harmony」という奇妙な英訳を受け入れるにしても、私の懸念が払拭されることはありません。たとえば、音楽学ではハーモニー(基準音階など)の概念が厳格で専制的なものであると誰もが理解しています。私はキャリアを通じて、そのような音響の慣習の背後に潜む文化的に抑圧された動態を批評してきました。また、「美」の背景にある博愛の嘘を暴こうとするのであれば、女性的な美の基準からくるプレッシャーについて日本の女性に訊ねてみればいいでしょう。言うまでもなく、それはまた私自身のトランスジェンダリズムにも付き纏っています。

アメリカ合衆国の「バイブル・ベルト」で過ごした子供時代から、そうした議論の積み重ねが持つ不条理や暴力性を意識してきました。『不産主義』では、日本における生産の文脈、特に映像では日本の近親相姦ものやゲイものを重視しましたが、こうしたローカルな動態は、次のようなことを表しているのではないでしょうか。先進諸国や西洋のグローバル化、資本主義、核家族の必要性の背後にある歴史、また、家族の外に民主的に築いた社会福祉をより簡単に壊すことができるように民営化の再流行が家族を社会的支援の自明の場であるとイデオロギー的に位置付けるという兆候です。また同時に、私は反伝統主義[antitraditionalist]にはっきりと留まるつもりでいます(日本の拡大家族への回帰を尊重することも、美化することもありません)。それとは対照的に、左翼や芸術界隈が新自由主義の蔓延に対抗するために伝統主義に新たな価値を見出すような昨今の流行[countertraditionalist]には、前資本主義的な家父長制という重大な問題に対してあまりにも能天気な印象を受けました。ご存知の通り、私は権力の共有というリベラルな課題ではなく、権力の剥奪に関心があるので、リスペクトや《プライド[TM] 》を手段にしようとは思っていません。

 

 

ART iT あなたの批評において、近親相姦やゲイを描いたポルノはどのように位置付けられますか。近親相関が家族関係やタブーに根ざしているのは明らかですが、一方、地下鉄で通勤中の男性が集団レイプされる(と、少なくとも私にはそう見える)シナリオは、必ずしも家族中心の価値観に抵触するものだとは捉えられないのではないでしょうか。ドナルド・トランプがポルノスターとのデートで新聞の一面を飾り、ボルソナーロ大統領はブラジル文化の堕落の証拠として、ある男性が公然で別の男性に放尿している映像をツイートする。社会の規範から逸脱したセクシュアリティの表象は、家父長的なイデオロギーを脅かすものなのでしょうか。あるいは、それはある意味でそのようなイデオロギーの真の表現なのでしょうか。

TT この2点、つまり、家族内の近親相姦と家族外の男性同士の非生産的なセックスは、伝統的な家父長制における最も基本的な性的タブーです。私たちは「同性愛」だけでなく、「ゲイセックス」を正しくとらえるべきで、「同性愛」や「ゲイセックス」は実際、男性同士のセックスの極めて現代的なモデルであり、家族構成の文化的変化や核家族の増加などとともに生まれてきたものです。あなたも示唆していますが、それらすべては間違いなく中産階級の家族観と複雑に絡み合っています。人道主義的な性質やリベラルな性質を含むそのような価値観は、ゲイセックスと家族の間にある敵対がいずれも多かれ少なかれ過去のものなのだという信仰をつくりだします。そこで、私は『不産主義』に次のように書きました。

リベラルな人道主義の文化は、私たちに異性愛者であることを要求する必要はないと認識している。ただ、私たちに異性愛の規範を守るよう求めるだけである。これが今日の主流な「クィアの時代」の根底にあるものである。ビジネスの文化は、私有財産、フルタイムの労働、与信と債務、抵当権の設定された自宅の所有、家族、そして兵役といった共同体の目標が公的に維持されている限り、[性的指向には何の問題もないことをなによりも理解している]。[1]

そして、伝統的な価値観から逸脱した者を家族へと迎え入れたり、家族に再統合したりする目的は、もちろん倫理の発達や思いやりからくるものではありません。文化的なやさしさという感覚は、家族の外での生活や家族から勘当された生活を可能にする社会的支援や支援ネットワークの組織的な解体を覆い隠すというイデオロギーの裏表なのです。

家族を称揚する大量のプロパガンダとともに、資本家による民営化と反社会主義運動が手と手を取って世界中で増殖しているのは、決して偶然ではない。英国の労働者を組織化したトニー・ベンの言葉を借りれば、入念に計画された「世界を常に支配してきた権力の復古」は、先進国の民主制において厳しい戦いの末に勝ち取られた社会福祉が破壊され、かつ、新興国の文化において社会福祉が完全に実現することは決してないと保証されたときに初めて起こるのである。そして、社会的扶助がなされるべき最初の場所として家族が再登録されることで、初めてこのような事態が生じるのである。あらゆる職業及び地位にとって、家族の価値が文化的に必要とされるのだ。[そこに現代の同性婚推進運動の出番があるのだ]。[2]

セクシュアリティの新しいモデルがその基盤や効率性を獲得するには時間がかかりますが、おそらく、異性愛規範が性自認やジェンダー自認よりも文化的に重要視されるこの時代は、資本主義的倫理内でのイデオロギーの洗練と安定がある特定のレベルにまで達したことを示しているのではないでしょうか。150年近くかかりましたが、いまや資本主義機械がスムーズに動いているのかもしれません。主要先進国の文化は、常にオープンで寛容であると見せながら、より効率的に社会的排除を覆い隠すことができる方法を心得ています。その仕組みは、著しい幼児性や倫理性の高い個人主義を通してアイデンティティを構築することに人々を執着させます。結果、保守、リベラル、左翼の誰もが私たちを監視し、皆が「道徳」の高慢な擁護者になってしまいました。その道徳を普遍的で共有されたもの、つまり、共有された体験や感性の人道主義的なモデルとして。クィアやジェンダー規範から逸脱した者たちにとっての、これは自分たちのために切り開いた場所も含めて、倒錯や文化的非協力のための空間や機会が少なくなることを意味しています。

 

 

ART iT あなたにとって、ポルノグラフィを扱うことはどのような意義がありますか。また、ポルノグラフィのメッセージは私たちにとってどのようなものだと思いますか。

TT 1980年代にアメリカ合衆国上院議員のジェシー・ヘルムズが全米芸術基金(NEA)の廃止を迫っていたとき、たくさんの女性団体もちょうど反ポルノグラフィ法を要請していました。当時学生だった私は、ロバート・メイプルソープやアンドレス・セラーノの「浸礼(ピス・クライスト)」(1987)などの検閲をめぐる議論にとても関心を持っていました。かたやヘルムズは明らかに極右、かたや女性団体の多くは中道派やリベラルな立ち位置でした。ポルノグラフィに関する主な世論の中心はもちろん女性の搾取を前提としていますし、とりわけそれは人身売買との関連で最も妥当な懸案事項です。(人身売買には若い男性の性的搾取も含まれることを忘れてはいけません)。しかしその結果、異性愛を自認する人々が統計的にマジョリティを占めていることも相まって、たくさんの人々がポルノグラフィの大多数がストレートを描いたものだという印象を持ってしまったのではないでしょうか。実際には、インターネット以前に製作されたポルノの大多数はゲイを描いていました(これが今日も変わっていないのか確かめようとしましたが、正確な統計が見つかりそうにありませんでした。統計はすべて、何パーセントの男性がゲイもののポルノを視聴しているのかに焦点を当てているようで、その割合はゲイを自認している男性の割合よりもはるかに高いものです。データを示すことはできませんが、議論の叩き台として、仮にポルノの大多数が未だにゲイを描いたもののままであるとしましょう)。

ゲイもののポルノが大多数を占めることについて、文化的タブーとの関係から理解できるかもしれません。世界中で男性同士のセックスは男女間のセックスよりもタブー視されたままなので、誰もがそのような社会でタブーを侵す相手を見つけるのは難しく、そこで安全な性的はけ口としてゲイもののポルノにより大きな文化的需要が生み出されます。これは長く公然たる事実とされてきた公共の場での男性のセックス、男娼、その他の典型的な違法的性行為が普及した背景にある論理にも似ていますね。文化的に禁止されたものは、やはり不法な形で抜け道を見つけだします。(同様に、私はかつて、日本のビデオで性器を映すことが禁じられていることやモザイクが義務付けられていること、つまり、シンプルにセックスを見せることができない代償過度の一種として、日本のストレートもののポルノにおけるレイプ、ペドフィリア、BDSMといったテーマの過激化があるのではないかと書きました)。[3] ポルノグラフィと文化的タブーに関与するものとの関係の直接的な結果として、数十年間にわたり、ゲイ向けのポルノ雑誌の個人広告は、ゲイが互いにコミュニケーションをとるための重要な手段になっていました。それらの広告に記載された私書箱番号や電話番号は、男性とセックスしたい男性が互いに接触するための主要な方法でした。大半の人々には奇妙に聞こえるかもしれませんが、歴史的に言えば、実のところ、ゲイもののポルノはコミュニティ形成のための極めて重要なテクノロジーでした。

したがって、ほとんどの人が反ポルノグラフィ法を「女性を守る」ものだと受け取っていましたが、最も大きな影響を受けたのは、ポルノ全体の大部分を占めていたゲイもののポルノの検閲や処分に関するものでした。それは未だ変わっていないと推測できます。そして、それはゲイの社会的ネットワークに対する直接的な攻撃なのです。インターネット以前の時代ならなおのこと、それがゲイの社会的ネットワークの破壊をもたらしたに違いありません。幸運にも私はこのことを80年代に理解することができたので、反ポルノグラフィ法の実際の作用に対する私自身の感覚は変化し、複雑なものになりました。ごく最近、日本では2020年のオリンピックの準備におけるイメージ刷新キャンペーンのひとつとして、主要なコンビニチェーンの棚からポルノグラフィを撤去しはじめました。正直に言えば、ジレンマを感じますね。一方では賛成していて、言うまでもなく、問題とされている画像は、第一に女性の身体に対する頑ななまでに変わらない性差別的な考えによるもので、そんなものはなくなってしまえばいい。しかし、これは同時に性的なものに対する検閲であり、このストレートもののポルノの排除によって、将来、ゲイもののポルノが公共圏に入ることなど夢のまた夢になってしまいます。ここでもゲイやその他のポルノは決して語られませんし、そのような沈黙は、性の多様性や非異性愛的な倒錯をめぐる、より広範な文化的沈黙に直接繋がっています(歴史的に、アメリカ合衆国の芸術に対する検閲は、メイプルソープのようなファゴット[4] を中心に展開してきたのに対して、日本における議論では、荒木経惟のようなストレートの男性を中心に展開する傾向があります。日本の検閲に関する多くの議論からクィア性が漏れているのは、とても示唆的なことだと思います)。[5]

日本でポルノグラフィをめぐる作品を制作するのは、ここで話したような厳格な検閲法があるためにかなり面倒なことです。ですから、『不産主義』で日本のポルノだけをサンプリングした要素のひとつとして、既にモザイクがかかっている「合法」の素材からはじめるということがありました。それは少し残念でしたが自己防衛のためには必要なことで、とはいえ、こうした譲歩を目に見えやすいところに置いておきたいと考えていました。もうひとつの要素として、私は近親相姦もののポルノで描かれている核家族の慣例にこそ、西洋の影響を即座に見いだすことができ、それが資本主義的グローバリゼーションとの関係において、核家族を脱自然化するのに一役買うのではないかと考えていました。世の中の近親相姦もののポルノの多くでは、息子が義理の母親との性行為に及ぶファンタジーが主流なのに対し、日本では生物学上の母との性行為に及ぶファンタジーの方が多いです。そういう意味では、日本の近親相姦もののポルノは、そのタブーにおけるより深い概念にイデオロギー的に繋がっているのではないでしょうか。あなたが先ほどおっしゃいましたが、ゲイもののポルノには、朝の通勤電車で「サラリーマン」が乱暴なファゴットに集団レイプされるものがあります。家庭的な「サラリーマン」、つまり、中産階級の資本主義支持者という家父長の典型をゲイが襲撃するという、いささか字義通りのイメージは、アメリカ合衆国のコメディアン、ポール・F・トンプキンスのファーストフードチェーンのチックフィレ[Chick-fil-A]のオーナーに関する、「さて、こいつらはどうやらかなりの反同性愛者、失礼、かなりの「伝統的家族主義者」のようだね。ゲイがいるだけなのに襲撃されているなんて」というジョークをループ再生した音源とは対照的ですね。これはリベラルな視点で考えると、かなり気の利いた面白い言い回しなのだと思いますが、同時に、LGBTが異性愛規範の文化にいかなる現実的な攻撃を試みても、それは文字通りジョークに過ぎない、つまり、不可能がゆえに笑い飛ばせるものだという意図せぬ意味も伴っています。この笑いは「私たちは誰にも脅かされない。私たちを脅かすのは保守勢力なのだ」という意味に向けられているのですが。

いずれにせよ、ポルノグラフィを扱うときは、それが「セクシャル・エンパワーメント」という典型的なクィアの枠組みに分類されるものに陥らないように気をつけています。私にとってより大きな関心があるのは、すべてのセクシュアリティに織り込まれている偽善や恥というものであって、それらはどんな「エンパワーメント」の瞬間も本質的に暴力的なものにしてしまうものです。プライド[TM]の運動やLGBTの一般化の背後にある性の合法化や社会的認知を主張する考えにはいつも狼狽えてしまいますが、そのような合法化は常に異性愛規範の文化的な歩み寄りを通じてのみ起こりうるもので、それは性的排除の問題について批評的に追求したり、関与したりすることをますます難しくしているのです。そして、それはLGBTカルチャーの中で増大する道徳主義の原因となり、性暴力に至った集団的恐怖症に関する歴史的理解をますます遠いものにしてしまいます。こうして、リベラリズムの偽りの快適さがLGBTの問題をどんどん限定し、翻弄していくのです。

 

 

ART iT 偏執的な異性愛男性的視線から「ストレート」もののポルノの典型的なカテゴリーを考察するとき、私たちは見るという行為に埋め込まれたストレートの男性への厳格な同一化が崩壊していることに気づくのではないでしょうか。そこから「誰の快楽に同一化しているのか」、「誰の快楽に興奮しているのか」という問いが浮かんできます。それが仮に女性の快楽だとしたら、ある意味、男性視聴者はその女性に同一化していて、投影的なジェンダーの越境が起きているわけですし、一方、男性の快楽に同一化しているのであれば、男性視聴者は男性に興奮しているわけで、それは暗黙のうちに同性愛的なものになります。ストレートの男性視聴者はおそらく大きな男性器に興奮しているのではないかと推測できるのですが、それは大きな男性器が一般的に男優に求められる特徴だからです(少なくとも、西洋のポルノの主流では)。そして、ポスト・インターネット世代のストレートの男性は、短い動画やgif動画でフェラチオのやり方を何度も見た結果、たとえその知識を使う機会がまったくなかったとしても、やり方を内在化しているのではないでしょうか。それから、女性同士のものの場合は、男性の快楽に興奮する男性という同性愛的側面を避けつつも、同性愛の振る舞い(女性同士ができるなら男性同士でもできる)を具現化するとともに、その方程式からギリギリのところで男性を取り除いているというわけです。

この線で考えれば、ストレートの男性が消費するカテゴリーとしてのトランスジェンダーもののポルノは、ストレートの男性もののポルノの極北、あるいはストレートの男性がポルノの視聴中に実際に見たり、欲望したりしているものに限りなく近い表象だということになりますね。(これはカリスマ的でセクシーな男の中の男を言及する際に使われる「男がなりたい男、女がやりたい男」という言い回しにも巧妙に表されていて、男性同士の欲望を偽装するこの言葉遊びには、ジェンダーのズレを含む入れ子構造が見られます。言い換えれば、女性にとってたまらない魅力を放つ存在になりたいという幻想を叶えるために、女性になりたいと願う男性のことで、その実、その魅力が男性には隠されているというもの。この相関関係は、『スター・ウォーズ』初期三部作におけるルーク、レイア、ハン・ソロの近親相姦的な三角関係にも別の形で表されています。性別が曖昧なルークがレイアに惹かれるのは、ハン・ソロの欲望によってレイアが客体化されているからで、一方、ハン・ソロは双子のレイアを抱きながらルークを妄想します。オクティヴィア・E・バトラーのゼノジェネシスSF三部作が前提としているのは、性別二元論が常にその二元論を越える第三の存在を通じて介在する、あるいは、そこにあるけれどないという、いわば「ゼロ」の存在、まるで日本語文法の「失われた」主語のようなものを通じて介在するという考えに対する批評的な応答だと読み取ることもできるでしょう。)

ですから、ポルノを見ることはストレートの男性の特権的行為だという思い込みがある一方で、ポルノを通じて成立するストレートの男性の同一化の崩壊は、常にすでに異性愛というもの自体に内在化されている、あるいは、少なくとも欲望に関して、そこにはストレートの男性などというものはないと結論づけられるかもしれません。

TT たしかに、数十年間にわたって私が強調してきたセクシュアリティに関する反−本質主義的な考え方とは、アイデンティティは唯一のものではなく、曖昧で、流動的であるというものです。それどころか、性的アイデンティティは、文化的慣習との戦略的な関係の中にのみ存在していて、私たちは性的表現の許可不許可をめぐる社会的権力の力学に対応する方法として文化的慣習を学び、内面化します。ジェンダー表現も同じように文化的慣習と密接に関連しています。そして、あなたの仮説は、異性愛的な男らしさというものが実在し、とりわけそれが「自然」なものであるという神話を覆すための試みとして理解することができます。同一化の立場を、俳優が受け取る快楽だけに制限するのではなく、カメラマンや監督、あるいは無生物までの、快楽を「与える」という行為との同一化、また、解離、嫌悪、反感などとの同一化にも広げていくことができるのではないでしょうか。

 

 

ART iT ちなみに、2018年にPornhubというサイト内で世界中の男性視聴者が検索した単語のトップ10は、Japanese(日本人)、MILF(熟女/人妻)、Hentai(変態)、Korean(韓国人)、Step Mom(義母)、Lesbian(レズビアン)、Teen(10代)、Massage(マッサージ)、Anal(アナル)、Asian(アジア人)だそうで、それにFortnite(フォートナイト)とTrans(トランス)が続きました。

疑問に感じていることがあるのですが、このような状況は、セクスティングや男性器の画像を送りつけることや、出会い系アプリのTinder(ティンダー)やGrinder(グラインダー)におけるポルノ化された自己表象とどのような関係があるのでしょうか。また、それは「ストレート」のユーザーと「ゲイ」のユーザーとで異なる意味合いを持っているのでしょうか。そして、Pornhubの統計に戻れば、2018年、同サイトへのアクセス数は335億件あったそうです。これは私たちが生きているパノプティカルな世界をどのように反映しているのでしょうか。見る者は自分が見ている対象/分類よりも特権的だと一般的に考えられていますが(そして、その特権は欲望を叶える際の要因のひとつですが)、ポスト・インターネットのポルノは、それ以外の可能性を示唆しているのでしょうか。

TT 私は見る者を本質的に社会的特権層であるとみなす傾向について長く考えてきました。古典的なフェミニズムの視覚理論で説明される「男性的視線」を、大半の人々が特権化し続けているのは、もしかすると皮肉なことかもしれません。(笑) 常に自己監視し続けなければいけないことや、監視する者と監視される者の両者として自分自身を理解する非特異性などの、女性的視線をめぐるその他の力学についてはどのように考えられるのでしょうか。この「女性的」な立場を、ジェンダーをめぐる権力の力学のみならず、広く貧困やソーシャル・アクセス一般をめぐる権力の力学として捉えることで何か有益なものが得られるかもしれませんし、実際、女らしさから女性的視線を脱本質化することで、階級やカーストの闘争を含むフェミニズムのより深い関心に達することができるかもしれません。そして、それが消費者主義に対する数多くの洞察を与えてくれるのではないでしょうか。また、現在のインターネット・カルチャーがどのように自己監視の感覚を育んでいるのかということ、それはもちろんほとんどすべての人々の文化的経済的損失なのですが、それに対する洞察も与えてくれるのではないでしょうか。

日本で電車に乗ったことがあれば、若い女性をターゲットにした広告の洪水を目にしたことがあるでしょう。それらはまず定額制の高額美容費(レーザー脱毛など)、購買意欲を駆り立てるもの、若い女性のための初めてのローンに集中しています。そこでは、多数のマーケティング会社が、女性が財布の紐を握っているという考え方に合わせて、「全購買の85%が女性によるものである」のように統計を都合よく捻じ曲げています。このレトリックは西洋諸国で非常に重要視されているもので、ジェンダー平等というリベラルの願望を利用しながら、実際の社会改革を促す実践から人々を遠ざけ続けるものです。しかし、現実には女性の購買活動と女性の経済力とはまったく別物です。その購買の多くは女性が家族の食料や掃除用品などを担わされていることによるものなのです。また、日本の男女の賃金格差は先進国の中で最も大きく、女性の賃金は男性より30%も少なく、アメリカ合衆国やEUでも平均して女性は男性より18%も少ない。その上、日本の女性はフルタイム雇用の機会が少なく、パートタイム雇用の労働者の70%以上を占めています。それでは、経済的に依存している社会階層の「購買力」を高めることに対して、マーケティングの膨大な労力を注ぎ込むことにはどのような意味があるのでしょうか。それは当然、持続的な依存状態という生き方が助長されますよね。つまり、いつもパパの支援に頼り続けてきた少女という架空の存在は今や彼女自身が自立するよう勇気づけられているのだという心理を操作しつつ、心理学的にローンや借金、不安のないお買い物を通じた家父長制に女性を依存させているのです。では、この露骨で悪意ある戦略的現実を認め、それを言葉にすることは、若い女性を「エンパワーメントしない」ように聞こえるかもしれませんし、リベラルな考え方からは、このようにあからさまに発言するのは性差別主義的だとさえ呼ばれるかもしれません。しかし、「その通りなのです」。これはすべて未来に向けて女性を社会的に無力化し続ける性差別主義的な文化であり、男性もまたパトロンとして奴隷化される男性依存のシステムを助長しているわけです。

日本では、年収103万円以下の専業主婦が、税金や年金、健康保険の点で優遇されることが明確に示されています。これは、ほとんどの家族において、女性が賃金労働として働く時間を増やして給与から税金や年金、健康保険といったコストを天引きするのではなく、その時間を減らして男性に依存し続けることで得になることを意味するものです。これは同時に、独身者は無料の社会福祉を受ける機会を得られないというペナルティを科されていることも意味しています。もちろん、家族に依存する生活からの自由の対価として、そうしたお金を払っているのだという人もいるかもしれません。これはとても複雑です。特権は欲望を具現化する要因のひとつだという見解が、おっしゃる通り、特権を認識すること、とりわけ買い物狂いのお気楽な若い女性や財布の紐を握る主婦といったステロタイプな特権の認識が実に根深い家父長制依存を隠蔽するというイデオロギー的な倒錯として、社会の至る所で具現化しているのは明らかです。その家父長制依存はあらゆるジェンダーを犠牲にしたり酷使するけれども、その中で最も影響を受けるのは、所得へのアクセスが制度的に制限されている女性や非男性の人々です。このようなジェンダーによる制限は、言うまでもなく民族、人種、移民といった問題と複合的に絡み合っています。

あなたの質問をきちんと理解できているのかわかりませんが、男性的視線の特権という従来の連想を複雑化するという点において、ポスト・インターネットのポルノは私たちに新しいものや有益なものを示しているのだろうかということを考えているということは感じ取りました。そのような具体的な質問に答えようとするのであれば、私たちが消費主義的な枠組みの中でどのように振る舞ってきたのかを振り返ることで得られるものがあるのではないでしょうか。消費主義的な枠組みは、権利を奪われている人々に主体性を与える道具として、女性的視線を頭の悪いマーケターの言う「女子力」のような妄想で歴史的に悪用してきました。そのような枠組みを振り返ることで、こうした策略のはっと息をのむような(実際のところ、息のつまるような)巧妙さを把握することができるのではないでしょうか。

 


 

[1] テーリ・テムリッツ「不産主義」コマトンズ・レコーディングス、2018年10月26日、http://comatonse.com/writings/2017_deproduction_jp.html#essay1(最終閲覧日:2019年5月27日)※[]内はART iTが翻訳。

[2] テーリ・テムリッツ「不産主義」コマトンズ・レコーディングス、2018年10月26日、http://comatonse.com/writings/2017_deproduction_jp.html#essay1(最終閲覧日:2019年5月27日)※[]内はART iTが翻訳。

[3] 「確かに、性の抑圧は、驚異的な収益を生み出すセックス産業を通過することで、抑圧と同時進行すして結果的に生じる解放を見い出す。事実、文化の中で性的表現が限定されればされるほど、性の解放のイメージは強烈さを増すのである。日本のポルノグラフィーを考えてみると、明らかに脚色されたレイプのイメージ(出演者2人が合意の上で演技しているSMプレイ)や小児性愛(未成年者とのセックスや女子高生の制服へのフェティシズム)、ボンデージ、スカトロジー等の内容で、性器への検閲が過度に行なわれている。そのような内容は、日本人が実際にとる性行動の基本ではないにしても、平均的な日本の性風景に存在する場面となってしまった。」テーリ・テムリッツ「ラヴボム/愛の爆弾」コマトンズ・レコーディングス、2002年8月、https://www.comatonse.com/writings/ainobakudan.html (最終閲覧日:2019年6月6日)

[4] ファゴット(faggot):一般にゲイを軽蔑して用いられる言葉で、ゲイだけに限らずゲイであると疑われる男性、女性的であったり弱々しい男性に対しても用いられる。また、そういった特徴はなくとも、相手の男性に対して侮蔑の意味を込めて用いられる場合もある。しかしながら、その他の侮蔑語と同じように、ゲイ・コミュニティの中ではゲイ同士が親愛の情を表す言葉として使用されている。引用元:ジョン・イーディー編著『セクシュアリティ基本用語事典』(金城克哉訳、明石書店、2006年)

[5] テーリ・テムリッツ「GLOBULE of NON-STANDARD: An Attempted Clarification Of Globular Identity Politics In Japanese Electronic ‘Sightseeing Music’」『Organised Sound』vol.8, no.1(2003年4月)pp. 97-108. URL:http://www.comatonse.com/writings/organisedsound_8_1.html(最終閲覧日:2019年6月6日)

 


 

 

テーリ・テムリッツ|Terre Thaemlitz

2001年より日本を拠点に活動するテーリ・テムリッツ(1968年ミネソタ州生まれ)は、マルチメディアプロデューサー、DJ、ライターなど多彩な活動を通じて、主にアイデンティティ・ポリティクスの本質主義に対する厭世的、批判的な試みを展開している。ニューヨークのクーパーユニオンで美術を学び、90年代初頭よりニューヨークのハウスシーンに参入し、DJスプリンクルズ名義のほか複数名義でクィア・トランスジェンダー系クラブ「Sally’s II」などで活動をはじめる。その作曲技法は、カントリー、ファンク、ジャズ、ロックから、ラジオ放送、トークショーの音源、アーカイブ音源まで、さまざまな素材を組み合わせ、新たなアレンジ、クリッピング、タイムストレッチ、反復、並列などを駆使し、素材の持つ政治的な意味合いを引き出していく。

また、テムリッツ自身が運営するレコードレーベル「コマトンズ・レコーディングス」のプロジェクトは、楽曲に加え、理論的テキストや映像、補足的な音響素材を含むもので、音楽産業の主要なフォーマットや流通経路の限界に挑戦する姿勢で知られている。これまでに発表した作品には、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアを暗殺した犯人を追跡する警察無線をサンプリングした曲ではじまる1994年のデビューアルバム「Tranquilizer」、電子音楽のパイオニアのクラフトワークのヒット曲をコンピューター処理したピアノの即興演奏で再解釈した「Die Roboter Rubato」(1997)、史上最長、初の全編MP3アルバムの宣伝の下、16GBのマイクロSDカードに30時間以上に及ぶピアノソロと関連テキストを収録した「Soulnessless」(2012)などがある。

音楽の文脈で最も良く知られているが、その多彩な制作活動や厳密な概念的枠組みにより、幅広い分野で発表の場が与えられている。たとえば、2017年にはドクメンタ14に参加し、アテネの国立現代美術館(EMST)で映像インスタレーション「Interstices」(2001-2003)、カッセルの埋葬文化博物館で映像インスタレーション「Love Bomb/Ai no Bakudan」(2003-2005)を発表したほか、ドクメンタのコミッションで制作したパフォーマンス作品「不産主義」(2017)の初演をアテネ・コンセルヴァトワールで発表し、続いて、カッセルの旧豆腐工場「Tofufabrik」、ケルン世界芸術アカデミーでも上演した。

同年、8GBのSDカードと2組のEPレコードで「不産主義」をリリースし、2章構成の作品はどちらもテキストとポルノ素材を使用し、性的タブーとイデオロギー装置としての家族の関連性を探究している。「登場人物は仮名(近親相姦ポルノのための音とテキスト)」では、中絶、強制結婚、陰核切除、性的暴行、そのほか、有性生殖、ジェンダー規範、家族構成に関する出来事についての証言と、日本の近親相関もののポルノから抜き出した映像に歪みを加えたものを対置し、「苦しみのもとを認めよ(そして立ち去れ)(ゲイポルノのための音とテキスト)」では、「人身所有・強制労働・性的ファシズム・性差別・性的搾取」と密接な関係を持つがゆえに、「子を持つことは非倫理的」であり、「家族は民主主義を不可能にする」と論じたマニフェストが、日本のゲイもののポルノの映像を背景に流れる。映像には電子音楽とともに、前者の楽曲には弦楽器、鳥の鳴き声、家庭内口論、後者の楽曲にはピアノの即興と、ポール・F・トンプキンスのスタンダップコメディのジョークが時折不快なグリッチやフィードバックを伴いながら反復される音源が流れている。

テキスト、映像、音響の各要素は、調和した全体としてまとまることなく、固有の深度、強度、持続性を備えているため、それらが微妙に衝突しあい、観客の注意は常に異なる方向へと引っ張られる。それにより、現代社会の家族の価値観に関する言説をめぐる認知的不協和に、やむことのない原動力を生み出し、また、同性婚の合法化が実のところ、国家的、社会的プロジェクトの時代に続くグローバルな「家族、世襲、生得権という文化力の再登録」の一例であるというような、テムリッツが警告する表面的な漸進的進歩を強調する効果がもたらされる。

テムリッツは、2019年2月に開催されたTPAM(国際舞台芸術ミーティングin横浜)で『不産主義』を上演した。本インタビューはTPAM閉幕数ヶ月後にEメールを通じて行なわれた。

テーリ・テムリッツ/コマトンズ・レコーディングスhttp://www.comatonse.com/thaemlitz/

国際舞台芸術ミーティングin横浜(TPAM)2019
2019年2月9日(土)-2月17日(日)
https://www.tpam.or.jp/program/2019/
テーリ・テムリッツ「不産主義」
2019年2月15日(金)
https://www.tpam.or.jp/program/2019/?program=deproduction

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