EXHIBITION : リアム・ギリック『馬らしさはあらゆる馬の本性である』

©︎Liam Gillick Courtesy of TARO NASU
Photo : Kei Okano

TARONASUでは6月5日よりリアム・ギリック個展『馬らしさはあらゆる馬の本性である』を開催いたします。本展覧会は、立体作品9点、ウォールグラフィック6点で構成されます。

リアム・ギリック | Liam Gillick

1964年アイスバーリー、イギリスに生まれる。ニューヨークにて制作、活動。
ギリックの作品は、グローバリゼーションやネオリベラルの合意性を枠組みとした場合の、抽象化と建築の視点におけるモダニズムの遺産の機能不全な側面を明るみにする。そして、一つの形式としての展覧会についての構造的な再考というものに敷衍していく。第53 回ヴェニス・ビエンナーレにドイツ館代表作家として参加した他、第10回ドクメンタ、ベルリン・ビエンナーレ、イスタンブール・ビエンナーレなど重要な国際展に多数参加。シカゴ現代美術館、ニューヨーク近代美術館、テートモダンなどで個展を開催。ポンピドゥセンター、ニューヨーク近代美術館、グッゲンハイム美術館など、著名美術館でのパブリックコレクションも多数。

 

『馬らしさはあらゆる馬の本性である』展  は、壁面に展示される抽象的構造体の新シリーズ  と、ビニール製の大きなウォールグラフィックスとを組み合わせた展示となる。この抽象的構造体には、開発、インフラ、交流といった人工的世界に関する現代的な抽象表現の可能性への継続的な関心が込められている。その形状は、溝、板、ユニット、人工的な地平線である。それらには、マネージメント、コミュニケーション、コントロールといった抽象的プロセスを直接的に表現するタイトルが付けられている。合併、成長、提携、圧迫、保持、連帯などである。革新、回復、そして果てしなく続く開発のプロセスに魅了されたこれらの作品は、ネオリベラリズムの  美学の批判として、長らく展開されてきた抽象的なるものの制作の最新段階である。これらのすっきりとした形状が、乗り手を乗せた6枚の大きな馬の絵と遭遇する。馬は中世の木版画に由来するもので、壁の上ではそれぞれの絵が回転している。壁の抽象的構造体も、回転する馬も、真実を含む矛盾した虚偽の陳述(half-truths)  に根差したイロニーから逃れることはできない。壁の抽象的構造体は、色彩や形状に備わった一定の論理体系に根ざしている。一方、馬は馬で、独自の論理体系に従って動く。馬たちは、抽象化の過程で適用されることの多い概念上の再処理を施されている。絶えまない回転というシンプルな処理である。ギャラリーの壁の中ほどには、作品の構造に合理的に関連づけられたひとつの地平線が設けられており、上述の抽象的構造体はすべて、この地平線上に配置されている。

 

これらの作品の中で繰り返される「馬らしさはあらゆる馬の本性である」というフレーズは、ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)の『ユリシーズ』から引用されたものである。この一節は、1987年にギリックが美術学校の短い卒業論文のタイトルとしたものであり、また「Lobby Signage(ロビーの看板)」と題された2000年  の作品のうちのひとつは、アルミニウム板を切り取って作られた灰色の文字で、「馬らしさはあらゆる馬の本性である(Horsenessisthewhatnessofallhorse)」と書かれている。「馬らしさはあらゆる馬の本性である」と題された最近の作品としては、Hi-Fiスピーカーシステムの作品も存在する。  そこでは、壁に並べて立てかけられた蓋つきのファイバーボードがスピーカーに見立てられている。

 

ジェイムズ・ジョイスの著作には、数多くの馬が登場する。特定の登場人物について言及する際も、競馬について語ったり、馬を描写したりしている。当時、ダブリンは馬だらけだった。『ユリシーズ』にもたくさんの馬が登場する。こうしたフレーズは、ジョイスの初期の著作『若い藝術家の肖像 (Portrait of the Artist as a Young Man)』  にある「彼のいう輝きとは、スコラ哲学上のquidditas(ラテン語では文字通り「物事の本質(whatness)」)、すなわち物事のwhatness(本質)である」という美学上の命題と馬とを関連づける。

 

「トマス・アクィナスとその信奉者たちは、物事の本質(その「quidditas」または「whatness」)と、その存在とを区別  した。これは、アーティストが芸術作品の美に到達するために、心に留めておかなければならない区別である。我々は、次の言葉を忘れてはならない。「直観とは、物事のwhatness(本質)に対する突然の啓示であり、あまりにも当たり前に見える物事の魂が…光り輝いて見える瞬間である。」

 

(ラファエル・I・ガルシア・レオン、セビリア大学著『Reading Ulysses at a Gallop(ギャロップでユリシーズを読む)』1997年Papers on Joyce 3(ジョイス研究3))

 

ジョイスは、抽象的な哲学的概念に動物の形態を持ち込む。生き物の例を持ち出すことによって普遍的な主張を検証するのだ。しかし、そうした過程において、動物もまた、哲学的抽象概念に変換されてしまうため、このような試みには、ある程度のイロニーが含まれる。ギリックの作品においては、抽象化と、それを達成することは絶対に不可能だという考えとのはざまで、絶え間ない葛藤が生じる。「馬らしさはあらゆる馬の本性である」という一節は、対象の「本質的な性質(whatness)」を追求する芸術の限界とその可能性を常に思い起こさせてくれる。「馬らしさはあらゆる馬の本性である」という表現は、理解可能なかたちで具象化された一節であると同時に、不条理なかたちで提示された極めて現代的な一節である。それは、馬が登場する抽象的または現実的場面を哲学的に思考する表現である。すなわち、競馬場に象徴される事象に持ち込まれた哲学であり、都市や農場の現実を検証する哲学的表現である。

 

リアム・ギリック『馬らしさはあらゆる馬の本性である』
2020年6月5日(金)-  7月4日(土)
TARO NASU
開廊時間:12:00-17:00
休廊日:日、月、祝
http://www.taronasugallery.com/

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