長沢秀之《「沖縄・1944 年・対馬丸」-2》2025年 油彩、キャンバス 72.7×91.0cm ©NAGASAWA Hideyuki| 長沢秀之「OVER PAINTING」 | |
| 会期 | 2026年2月21日(土) – 3月28日(土) 開催前7日後開催 |
|---|---|
| 会場 | GALLERY MoMo 両国 |
| 住所 | 〒130-0014 東京都墨田区亀沢1-7-15 [MAP] |
| 開館時間 | 11:00–19:00 オープニングレセプション:2月21日(土) 17:00–19:00 |
| 休館日 | 日、月、祝 |
| URL | https:/ |
本展「OVER PAINTING」は、絵画というメディウムが抱え続けてきた根源的な問い̶見ること、記憶すること、時間を引き受けること̶を、実践として再起動させる試みです。長沢は、1938年に撮影されたと記された一枚の無名の人物写真を起点に、像を描くことと消すことが不可分に絡み合う絵画シリーズを展開してきました。点状のえのぐによって像は立ち上がると同時に覆い隠され、写真の参照性は撹乱されますが、像は完全には消去されず、むしろ画面の奥で執拗に持続します。
この制作は、COVID-19のパンデミックと、絵画そのものの存立に対する疑義が重なるなかで一度中断を余儀なくされました。描くことが不可能になるという経験を経て、2024年、長沢は未発表の過去作を再び取り出し、「上塗り(Over painting)」という行為を通して、それらを単なる過去の作品としてではなく、異なる時間と身体感覚を孕んだ場として再起動させました。上塗りは修正でも完成でもありません。それは、時間を断ち切るのではなく、むしろ複数の時間を同一平面上に衝突させるための操作です。
本展において提示されるのは、2017年以降に制作された習作や既発表作を基層とし、それらに新たな描画行為を重ねることで生成された新作群です。描く/消す/覆う/再び描くという反復的プロセスによって、絵画の内部には時間が蓄積され、不可逆的な履歴として可視化されていきます。その画面は、完成されたイメージというよりも、時間が沈殿した地層、あるいは記憶の断面として現れます。
長沢の制作を貫く主題は一貫して「見ること」です。2006年の《メガミル》展で提示された「私が見るのではなく、目が見る」という視点は、主体中心的な視覚モデルからの逸脱を示唆していました。人間の網膜に限られない、ある存在の目に映った世界̶長沢が「宇宙の網膜」と呼ぶこの概念は、絵画を表象の装置ではなく、「見られているもの」が物質化した痕跡として捉え直す視座を与えてくれます。本展の絵画もまた、壁という垂直面に飛来し、静止した二次元物体として現れます。
2017年の《未来の幽霊》展では、幽霊は過去の記憶の回帰ではなく、「まだ起きていない未来の記憶」として構想されました。それは未生の存在であり、同時に現在を生きる私たち自身の姿でもあります。「Over painting」においても、古写真や過去の絵画という既存の時間の上に新たな線や色彩が重ねられることで、時間は直線的に進行するものとしてではなく、錯綜し、重なり合うものとして立ち現れます。そこに現れるのは、まだ言語化されていない記憶、あるいは生成の途中にある記憶です。
さらに本展には、1944年の対馬丸撃沈事件¹を主題とした作品が含まれます。長沢にとって絵画は、制度的に保護された聖域ではなく、現実との緊張関係のなかで常に揺さぶられる存在です。現在進行形の戦争や虐殺を前にして、絵画の無力さは否応なく露呈されますが、そのとき作家に残されるのは、自らの歴史において起こった戦争を「見る」こと、そして想起し続けることしかないのです。
対馬丸事件は、絵画を成立させるための倫理的な基盤として、現在に呼び戻されています。
形式的には、点による像の解体と、えのぐのエロス的な物質性の回復が本シリーズの特徴になります。既存の像はまず点状の色彩によって覆われ、“ゼロ次元”へと還元されますが、そこに筆の柄による一次元的な線が介入し、二次元以上のかたちが生成され、最終段階では再び筆が用いられ、肉体に呼応するえのぐの生々しい物質感が前景化します。このプロセスは、秩序だった構築というよりも、衝突や混乱を孕んだ生成の現場として画面を開きます。
近年の《C通信》シリーズが、夢や記憶を見る体験をモノクロームのドローイングやプリントによって探究してきたのに対し、本展は絵画というメディウムそのものに再び深く沈潜する個展です。《メガミル》《被膜》《未来の幽霊》《Painting on Painting》と連続しながら、「上塗り」という方法を通して、絵画を完結したイメージから解放し、時間・記憶・身体が衝突する場として再定義しています。その画面において、絵画はもはや視覚的な窓ではなく、見る者の身体に直接応答する二次元物体として立ち現れることでしょう。
1. 太平洋戦争末期の1944年8月22日、沖縄から九州へ学童疎開する日本郵船の貨物船「対馬丸」が、トカラ列島悪石島沖でアメリカ軍潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没し、784人の学童を含む1,484人が犠牲となった事件
この制作は、COVID-19のパンデミックと、絵画そのものの存立に対する疑義が重なるなかで一度中断を余儀なくされました。描くことが不可能になるという経験を経て、2024年、長沢は未発表の過去作を再び取り出し、「上塗り(Over painting)」という行為を通して、それらを単なる過去の作品としてではなく、異なる時間と身体感覚を孕んだ場として再起動させました。上塗りは修正でも完成でもありません。それは、時間を断ち切るのではなく、むしろ複数の時間を同一平面上に衝突させるための操作です。
本展において提示されるのは、2017年以降に制作された習作や既発表作を基層とし、それらに新たな描画行為を重ねることで生成された新作群です。描く/消す/覆う/再び描くという反復的プロセスによって、絵画の内部には時間が蓄積され、不可逆的な履歴として可視化されていきます。その画面は、完成されたイメージというよりも、時間が沈殿した地層、あるいは記憶の断面として現れます。
長沢の制作を貫く主題は一貫して「見ること」です。2006年の《メガミル》展で提示された「私が見るのではなく、目が見る」という視点は、主体中心的な視覚モデルからの逸脱を示唆していました。人間の網膜に限られない、ある存在の目に映った世界̶長沢が「宇宙の網膜」と呼ぶこの概念は、絵画を表象の装置ではなく、「見られているもの」が物質化した痕跡として捉え直す視座を与えてくれます。本展の絵画もまた、壁という垂直面に飛来し、静止した二次元物体として現れます。
2017年の《未来の幽霊》展では、幽霊は過去の記憶の回帰ではなく、「まだ起きていない未来の記憶」として構想されました。それは未生の存在であり、同時に現在を生きる私たち自身の姿でもあります。「Over painting」においても、古写真や過去の絵画という既存の時間の上に新たな線や色彩が重ねられることで、時間は直線的に進行するものとしてではなく、錯綜し、重なり合うものとして立ち現れます。そこに現れるのは、まだ言語化されていない記憶、あるいは生成の途中にある記憶です。
さらに本展には、1944年の対馬丸撃沈事件¹を主題とした作品が含まれます。長沢にとって絵画は、制度的に保護された聖域ではなく、現実との緊張関係のなかで常に揺さぶられる存在です。現在進行形の戦争や虐殺を前にして、絵画の無力さは否応なく露呈されますが、そのとき作家に残されるのは、自らの歴史において起こった戦争を「見る」こと、そして想起し続けることしかないのです。
対馬丸事件は、絵画を成立させるための倫理的な基盤として、現在に呼び戻されています。
形式的には、点による像の解体と、えのぐのエロス的な物質性の回復が本シリーズの特徴になります。既存の像はまず点状の色彩によって覆われ、“ゼロ次元”へと還元されますが、そこに筆の柄による一次元的な線が介入し、二次元以上のかたちが生成され、最終段階では再び筆が用いられ、肉体に呼応するえのぐの生々しい物質感が前景化します。このプロセスは、秩序だった構築というよりも、衝突や混乱を孕んだ生成の現場として画面を開きます。
近年の《C通信》シリーズが、夢や記憶を見る体験をモノクロームのドローイングやプリントによって探究してきたのに対し、本展は絵画というメディウムそのものに再び深く沈潜する個展です。《メガミル》《被膜》《未来の幽霊》《Painting on Painting》と連続しながら、「上塗り」という方法を通して、絵画を完結したイメージから解放し、時間・記憶・身体が衝突する場として再定義しています。その画面において、絵画はもはや視覚的な窓ではなく、見る者の身体に直接応答する二次元物体として立ち現れることでしょう。
1. 太平洋戦争末期の1944年8月22日、沖縄から九州へ学童疎開する日本郵船の貨物船「対馬丸」が、トカラ列島悪石島沖でアメリカ軍潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没し、784人の学童を含む1,484人が犠牲となった事件
