米田知子 インタビュー


「蒋介石政権時代の参謀総長であった王叔銘将軍の家(齊東街・台北)I」2010年 All images: copyright Tomoko YONEDA courtesy ShugoArts

 

感光される時間の層
インタビュー / アンドリュー・マークル、大舘奈津子

 

ART iT まず、はじめに米田さんの作品や作品コンセプト、また、写真に対する考え方について伺いたいと思います。当時の狙撃者間の視点から撮影した作品「スナイパー・ビュー(クリスチャン・スナイパーのポジションから中間地帯を望む、ベイルート)」(2004)のように、ある種の二重性を持つ写真が印象的です。米田さんが写真メディアを選択した理由を教えていただけますか。

米田知子(以下、TY) まず、プロセスとしてはその場所に行き、撮影するというものです。制作に入る前に下調べをして、その場所の歴史を勉強し、事実を整理をしてから、撮影場所に行きます。そして、実際にその場所に立つと、言葉にはできないのですが、総合的に身体で受け取るものがあり、それを表現するための適切なメディウムが写真だという気がしています。具体的には、なにかが降りてくるというか、一瞬にして、目の前にそれが広がるという感覚があります。
わたしの作品には、感情を省いた写真が多いです。できるだけ客観的な視点で撮影しているので、さまざまな人がわたしの作品を目にしたときに、多様な想いが生まれるだろうと考えています。絶対的な解釈などありえません。誰かがわたしの作品を見たとき、その人が女性であるのか、男性であるのか、また、異なる年齢や社会背景を持っていることで、作品の見え方が違ってくるでしょう。個別の作品への接し方があることを考えると、感情的なものを強く作品に込めたいとは思いません。異なる解釈、見え方、接し方があるということこそ、わたしたち人間がそれぞれ違うということを示していて、それが面白さをもたらすと思うのです。ペインティングでは、どうしても主観的になってしまうので、わたしが制作したいものは、ペインティング作品では表現できません。そして、どんなメディウムであれば表現できるのかと考えたときに、写真が一番適しているのではと思いました。

 

ART iT 米田さんの作品制作において、リサーチはとても重要なプロセスのひとつだと思いますが、そうしたプロセスがどのようなものか、そしてプロジェクトのテーマの決定はどのように行なっていますか。

TY ほとんどのリサーチは、書籍をあたることが多いです。そのほか、インターネットを使って調べることもありますし、プロジェクトを行なう場所でサポートしてくれる方に聞く、コミュニティにインタビューするなど、各プロジェクトにもよるのですが多くの場合は本や図書館ですね。プロジェクトのテーマの決定に関して言えば、その時点で興味を持っているものになることもあれば、例えば、台湾のときのように、レジデンスに呼ばれてから、現地に行く前にその場所について興味のあるところをピックアップして、掘り下げて調べていくということもあります。
過去の文献には写真や絵も含まれます。例えば、「ビーチ(ノルマンディ上陸作戦の海岸/スードビーチ・フランス)」(2002)ではノルマンディでロバート・キャパが撮影した4ロールの内、11枚ほどしか実存していない写真も参照しています。現地は現在避暑地となり、人々が楽しく騒いでいて、沖には豪華客船が行き来している場所です。ほかにも、藤田嗣治の「サイパン島同胞臣節を完うす」(1945)のイメージを頭に入れて撮影に臨んだ作品(「道(サイパン島在留邦人玉砕があった崖に続く道)」2003)もあります。かつての悲劇の場所が、今はハネムーンで訪れる場所になっている。満州の関東軍が爆破した場所も、リットン調査団が線路をチェックしている写真が残されていますよね。(「線路—満州事変勃発となる関東軍が爆破を仕掛けた線路を臨む、瀋陽」2007)

 


Above:「スナイパー・ビュー – クリスチャン・スナイパーのポジションから中間地帯を望む、ベイルート」2004年 Below:「ビーチ(ノルマンディ上陸作戦の海岸/ソードビーチ・フランス)」2002年

 

ART iT そのようにして調べた情報は、どのように一枚の写真に落とし込まれるのでしょうか。また、先程おっしゃっていた、実際の場所に訪れたときに、なにかが降りてくるという感覚についてもう少し詳しく聞かせてもらえますか。

TY 実際に写真を撮るときは、本当になにかが降りてくるのです。自分でも上手く説明できないのですが、もしかしたらリサーチした内容に加えて、幼い頃からの記憶、イメージとして残っているもの、言葉で聞いたもの、また、テレビでちらっと見たニュースや新聞、広告といったものが蓄積されたものが、撮影場所に立ったときに走馬灯のように流れる。そして、それらが眼前の風景とピッと合うところが出てくる。そういうことだと思います。

 

ART iT 『Scene』というシリーズは、客観的にみて米田さんの代表的なシリーズであり、そのプロセスが特徴的だと考えられますが、初期の『Topographical Analogy』も同じようなプロセスを経ているのでしょうか。

TY  『Topographical Analogy』では、歴史性というよりも、その場が持つ痕跡や時間の経過というものを作品にしているので、『Scene』のようなリサーチは行なっていません。殆どの場合、そこに住んでいた人、家族構成、その人の性格などを知らずに撮影しているので、その痕跡を無名性というか、もっと普遍的な人間の存在として写真の中に残していくものです。従ってそこには戦争の傷跡というようなものはありません。
『Scene』で扱っていることは私が最も興味のあるところかもしれませんね。多くの作品は紛争や戦争があった場所で撮影されています。ハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン—悪の陳腐さについての報告』』(1963/邦訳1969)では、法廷で凡常に見えるアイヒマンの姿を通じて、誰もが 狂気になりうるということが語られました 、また、例えば、戦争についてわたしたちが意識する狂気とは、戦場で子どもを抱いて泣き叫ぶ母親の姿や、銃を向けて人を殺している場面、身体の一部が吹き飛んでいる場面といった凄惨な場面ですが、『Scene』では、そういう場面ではなく、狂気はどこにでも起こりうるということを思い起こしてほしい。これらが特別なことではないという事実を写真の中で言いたいと考えています。それは自分の中にあるパシフィスト(博愛主義者)でありたいという揺るぎない意識から来ているものです。

 

ART iT 米田さんの作品は、どこかで、フォト・ジャーナリズムに繋がっているようで、同時に、それとはまったく性格を異にしているようにも感じます。写真を学ぶ前はジャーナリズムに進もうと考えていたと伺っていますが、現在のような、テキストとイメージのバランスの取り方は、そうした経験が反映されているのでしょうか。

TY ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(以下、RCA)の修士論文では、テキストとイメージの関係について考えてみました。テキストは、非常に主観的なものにし、イメージの上にテキストがあると、そのイメージをテキストから読むことで、イメージだけのときとは異なる想いを馳せる、そしてまた対立を生む。言語記号の含意にも興味がありました。そういったことを論文を書いているときに考えていました。
例えば、ミシェル・フーコーの著作にも取り上げられた、ルネ・マグリットの「これはパイプではない」という作品にあるような、テキストとイメージのなしうる逆説的な関係性は非常に面白いと感じていました。RCA時代 実験的に撮影したものに、白い液体が注がれたグラスを持った女性のイメージがあります。「これはミルクです」とテキストを付けるのか、「これは鉛です」とするのかによって、鑑賞者は異なる印象を持ち、異なるイメージが広がります。こういうところを面白いと思うのです。従って、私にとってキャプションは重要です。個人的な見解ですが、「無題(Untitled)」とタイトルにつけるのは、作家として無責任だと思っています。やはり、作品の制作時や撮影時には、作家自らなにかを選択している。さらに作品はパブリックな場所に置かれるものですから、写真家としてというよりも、アーティストとしての責任としてタイトルは必要です。投げやりに「無題」と付け、鑑賞者になんでも考えてくださいとする態度もありうるのかもしれないけれど、やはりそれは不親切で、タイトルをつけ、アーティストの考え方や思いを加えた方が面白いのではないでしょうか。

 


「熱 I」1996年

 

ART iT 米田さんにとって、そうした方法は自然に身に付いたものでしょうか。それとも、写真論を考えていく過程で辿り着いたものなのでしょうか。

TY 理論から入った訳ではなく、体感的に辿り着いた気がします。外国に出た日本人というアイデンティティを認識するに至ったのかもしれません。日本にいると、日本人の考え方や自分の社会背景、出身を意識することは少ないです。しかし、海外に出ると否応なく、日本人というアイデンティティを感じざるを得ない環境になり、そこには、やはりさまざまな背景、考え方の違いや歴史観というものがある。そうしたことが、わたしの作品に影響しているのではないでしょうか。

 

ART iT 海外在住で物理的に撮影が不可能だったという状況もあったとは思いますが、初期の作品で日本を題材に選ばなかったのは、意識的なことだったのでしょうか。

TY もしかしたら、意識的だったかもしれませんね。最初にアメリカで勉強してから、イギリスに行きました。アメリカで見える歴史性はヨーロッパでの歴史性とは違うものがあります。その辺りは、ヨーロッパに移住以降の作品制作において、非常に意識しました。わたしがヨーロッパに着いたのは1989年で、世界的には湾岸戦争があり、ヨーロッパではベルリンの壁も崩壊し、ソ連式の社会主義の体制が崩れるなど激動の時代でした。それ以前、世界は冷戦状態で、膠着した状態が続いていましたが、それが目の前で崩れていく非常に大きなパラダイムシフトが起こりました。その時点にヨーロッパにいたことは、最も影響が大きく、ものの見方にも影響を与えました。眼前にあり信じていたことが、必ずしも永遠ではなく、そればかりか、崩れて違うものになる可能性がありうる。そういうことは日本にいたら感じなかったかもしれません。ただ、3.11以降は、日本も同じ状態になったと思いますし、現在、その日本に帰ってきているということも運命的なことだと思います。

 

ART iT 米田さんの作品は、非表現性とでもいうか、写真が表現から解放されているように思います。それはもしかしたら、テキストとイメージの関係から起きる効果かもしれません。写真ですべてを表現すべきだという意見がある中で、このような効果が非常に興味深いと思います。特別ではないことと、いろいろなところで撮影するということは繋がっているのでしょうか。狂気はどこにでも起こりうる、ないと思われているところでも見つけることができる。

TY そうですね。見つけることもできるし、わたしたち自身も狂気に陥うる。そこには女性的なことも関係しているかもしれません。権威主義的な考え方とはかけ離れていて、自分自身にも理解できないところです。例えば、コロンバイン高校銃乱射事件にしても、高校生が同じ学生たちを殺戮する。その狂気とはどのようにありうるのかという疑問、気になるところですね。

ART iT 『Fragments of the unimaginable』では、ただの箱の中にヒットラーの遺骨の一部と言われるものが入っています(「A.H.のかけら」2002)。この作品でもイメージとテキストの関係に驚きました。作品を観たときに「encounter(出会い)」を体験するというか、米田さんが経た行程を追体験するという感覚があります。写真は写真家がその場に居合わせることで存在し、鑑賞者は写真を観ることで、その場にいるという仮想体験をする。しかし、米田さんの作品には、複数の「場」が存在するように感じます。最初にイメージを見たときの「場」があり、キャプションを読んだ後にはまったくことなる「場」に再度連れて行ってもらえる。ここには、写真の本質について考えるたくさんの要素があるのではないでしょうか。

 


Above:「A.H.のかけら」2002年 Below:「平安神宮 I (ゾルゲ/尾崎)」2008年

 

ART iT さて、制作に関する具体的なことについてもお聞きしたいのですが、各プロジェクトに対して、写真のフォーマットはどのように選んでいますか。例えば、『パラレル・ライフ』というゾルゲの作品では、ピンホールカメラを使用しているのでしょうか?

TY あの作品はピンホールではなく、コダックのブローニーカメラです。スパイが相手のスパイと初めて出会うとき、お互いが仲間であるかどうかわからない曖昧で不明瞭な感じがするだろうと想像しました。そこで交わされた言葉も残っており、その場所で実際に出会っているといわれているが、果たしてそれは本当なのであろうかという事実の曖昧さ。スパイである彼らにも家族はいて、普通の生活を送っている部分もあったかもしれないけれど、その家族にも話せないことがあるという状況。スパイを巡るすべてがファジーであるという状況を写真でも表現したいと思いました。幻影的に写すというか、あまりシャープに撮りたくなかったのです。あの時代にスパイ同士が撮っていた写真も現存しているのですが、そういったものも大抵ぼやけていました。写真を見たり、博物館などでスパイの資料を見たり、そうしてリサーチしていく中で理解したことを全部総合した結果、一番いいと思われる方法を選びました。ただ、ああいう風に撮ったのは、『パラレル・ライフ』くらいではないでしょうか。それ以外は、大判のきっちりした写真です。中判を使い始めたのは、ハンガリーとエストニアのプロジェクト『雪解けのあとに』からです。あのプロジェクトでは、人が入っていたり、動くものが風景の中にあったりと、幅広かったですね。「恋人、ドゥナウーイヴァーロシュ(スターリン・シティと呼ばれた町)、ハンガリー」(2004)という恋人同士が写っている写真があります。街の背景をリサーチしていく中で、本当は社会主義リアリズムのプールの写真を撮ろうと思っていたのですが、そこに恋人たちが入ってきました。そのとき、機動性を考え大判から中判に切り替えて撮影しました。その頃から中判も併用するようになりましたね。「ウエディング—中国から北朝鮮を臨む国境の川、丹東」(2007)でも、最初はアメリカ軍が朝鮮戦争のときに爆撃し、落ちてしまった橋を撮ろうと考えていました。その橋は太平洋戦争中に中国と朝鮮へ渡るために日本が作ったものです。これも大判で撮影しようと構えていたときに、ウエディングボートが突然現れたので、急遽、大判から中判に切り替えて撮影しました。今はいつも両方準備しています。 撮影時は、日本と北朝鮮の関係を考える上で、中国が対話の仲介をしてくれれば、ひどい状況が改善されるのではないかと考えたり、また、ウエディングというものが、どこに向かっているのだろうかと、どこか意味深なものに感じられました。

 

ART iT 東ヨーロッパの戦後建築は独特なデザイン、色の使い方をしていて、非常に魅力的ですよね。そうした場所と中国と北朝鮮の境界や、サイパンのバンザイクリフといった場所とでは、異なる撮影の仕方をするのでしょうか。

TY 私の子どもの頃に大阪万博があり、そこにあったユートピア的な感覚と東ヨーロッパの建築は何か通じるものがあるように思いました。個人的な意見では、イデオロギーの影響が色濃い建築やデザインはなによりも強いと思っています。
建築を撮るのであれば、必ず、形、色合いをまず見ます。私は基本的にフォーマリスティックな写真を撮る人なのだと思っています。だから、歪んでいる写真は許せず、きちんと撮る方が好きです。ただ『パラレル・ライフ』では、少し遊んでみて、違う撮り方をしていますが。フォーマリスティックな写真を撮るのは、ニュー・バウハウス(インスティチュート・オブ・デザイン、現イリノイ工科大学)出身の先生の元で写真を学んだ影響かもしれません。ただ、アーロン・シスキンドやハリー・キャラハンらシカゴ派といわれる写真家の写真にわたしの写真が似ているかと言われたら、そうではないと思いますが。また、学校のあったシカゴでは、ミース・ファン・デル・ローエやヴァルター・グロピウスといった建築家の建造物が周りにあり、特にミース・ファン・デル・ローエの建築が好きでしたね。

 

ART iT 自分以外の作品を見るとき、特に写真の場合は、ビジュアル面に関心がいきますか。それとも、ある種のコンテクストというか、先程話していた二重性というものを期待していますか。

TY コンテクストがある写真の方が好きです。造形的な要素だけで好きな写真もあるとは思いますが、作品を見る上で、コンテクストを考えているような気がします。例えば、ビル・ブラントの写真でも、社会的問題に触れている写真の方が好きですし、リー・ミラーはあまり好きではありませんが、アメリカの従軍写真家として、第二次大戦下の ヨーロッパ激戦地に取材に行った時の写真などは好きですね。マーガレット・バーク=ホワイトの作品はコンテキストの点でも、フォーマリズムの上でも素晴らしい写真だと思います。

 

ART iT このようなことを聞いたのは、米田さんはこれまでにさまざまな場所、地域を撮影していて、それらの作品では、客観的に物語を提示し、鑑賞者による異なる解釈の可能性が開かれていると思います。一方、作品とは関係なく、逃れられないパーソナルアイデンティティというものが影響してくることがあると思います。最初はヨーロッパで撮影していたが、だんだんとアジアで撮影する機会が増えてくることによって、米田さん自身が感じていることとは、異なる反応が返ってくることがあると思います。そうしたものとは、どのように葛藤し、乗り越えているのでしょうか。

TY それには未だにもがいていて、乗り越えているとは思っていませんね。難しいことであるとともに、避けられないことであり、ずっと考えて続けています。あるアーティストと話したときに、自分たちビジュアルアーティストはプロフェッショナルな社会学者でも政治家でもないのだから、職人として自分たちができることをやっていけばいいと言っていました。しかし私はこの世界にいて、ここに住んでいるので、発言するにしても、どんなものを着るのかにしても、すべてのことにおいて社会からは逃れられないと思っています。今現在、日本にいて、日本のものを撮影するとき、そこには逃れられない過去の日本や歴史などが存在し、従ってそれらをどのように消化して、表現していくのかということが重要であり、私にとって今の一番の課題です。

 


「菊」2011年

 

ART iT 今回、日本のものを撮影するという状況に至る過程で、心境の変化などはありましたか。それは、単純に物理的な要請から来ているのでしょうか、それとも、自分の中で日本を対象にして制作する時期が来たと感じているのでしょうか。

TY 日本人もきちんと批評的に物事を見られるような時代になってきたのではないかと感じています。以前は、平和ボケなどと形容されていましたが、3.11以降、そういうことを言っている時代ではなくなりました。語るべきことを、普通に語ることができるようになり、無自覚だったアーティストも、自分たちの立ち位置や発言について少しは考えるようになり、責任を持ってやらなければならないという時期に来ているということがわかってきたのではないでしょうか。これまでも自覚的にやろうとは意識していましたが、これまで以上にもっと背筋を伸ばして、ちゃんとしていかなければならないと考えています。受け取られ方にしても、少しは共感してもらえるようにはなったのではないかという実感があります。
現在、東京でレジデンスをしていて、そこにはほかのアジアの地域から来た人たちもいて、いい環境だと思います。

 

ART iT 日本のことを扱っていくとき、どうしても客観性を失っていく部分があると思いますが、それはどのようにコントロールしていくのでしょうか。東ヨーロッパで撮影をするときに比べ、批評性が強く現れるということがあるのではないかと思うのですがいかがですか。

TY 客観的になれないというか、自分の思いがなんらかの形で表出してしまっているかもしれません。日本人が国粋主義者に見られたら嫌だなという想いはあります。新作では、日本人とはどういうことなのかということを考えながら、撮影していています。明治以降の日本が覇権主義へと傾倒していき、西洋と肩を並べるということを理由に侵略していったとしても、それを庇護するつもりはまったくありません。話が飛躍するかもしれませんが、その頃からあった歪みは、現在の福島の問題にも繋がっていると思います。世界で初めて原爆を投下された国であるにも関わらず、1950年代に平和利用としての原子力というものに惑わされ、翻弄され、利用されてきてしまった人たちのツケが今に至っている。そういうことも含めた日本を巡る大きなことを作品にしたいと考えています。新作で撮影している菊に関して、リサーチをする中で、天皇家の象徴である菊が日本国のパスポートに記されていて、普通であれば日本の国の象徴は日の丸ではないかとも思いますが、そうした日本人の曖昧なところをも菊が象徴しているのではないかと考えています。天皇家の象徴として菊を撮影しているわけではなく、ステレオタイプにされた日本人の象徴、菊の花、現在の日本人のポートレート、という形で撮影しています。

 

ART iT 同じように、日本を撮影したものでは鑑賞者の反応も違うのではないかと思いますが、いかがですか。

TY 今のところありませんね。新作に対しては、予期せぬ反応もあるかもしれません。靖国問題は、日本人として避けて通れない問題ではないかと考えています。ヨーロッパでも毎年のようにメディアで取り上げられていますし、ずっと私自身考えて続けている問題です。自分の写真が政治的な影響を持ってほしいとは思わないけれど、平静な時代へ近づける為の思い、メッセージ とも言えるかもしれません。ただ、そのイメージ自体が喚起する政治的な問題というより、イメージと記憶の関係も見てもらいたいとは思っています。

 

ART iT 米田さんの制作過程では、撮影する地域を設定するだけでなく、ある程度、撮影する時代設定もしていると思いますが、そのときに重要視していることはありますか。

TY 原点には両親が戦争を経験しているということがあるかもしれません。だからこそ、第二次世界大戦を軸とした前後について考えていると思います。手塚治虫さんの『アドルフに告ぐ』の舞台も神戸で、「明石が燃えている」という台詞は、父親が言っていたことと繋がります。

 


「川(両サイドに仮設住宅跡地、中央奥に震災復興住宅をのぞむ)」2004年

 

ART iT 1995年に発生した阪神淡路大震災のほぼ直後と、その10年後を撮影した『震災から10年』はどのような作品ですか。

TY わたしは関西出身で、生まれは明石です。神戸は隣町で憧れの場所として遊びに行っていました。それを記憶に留めておきたいと、個人的にモノクロで撮影した写真です。神戸に住んでいた友人と学生時代の友人の3人で、被害があったところに車で行き、昔よく訪れた西洋館のある山の手の辺りや思い出の場所などの写真を撮っています。おそらく、震災が起きてから、3ヶ月くらい後のことだと思います。両親のことが気になり、帰国した際に撮影したものですが、発表することなく、そのまましまっておきました。その後、2003年の資生堂ギャラリーでの個展の際に、震災10年後に関する展覧会のためのアーティストを捜している芦屋市立美術博物館のキュレーターの方と出会いました。感傷的な作品になる可能性のある関西在住のアーティストではなく、関西出身ではあるが、一度海外に出ていて、客観的な視点を持つアーティストに現在の様子を撮ってほしいという提案があり、撮影しました。
そのときも、これまでの作品と同じく、見えないもの、表に出てきていないものを撮ろうと思い、見えない歪みのようなものを可視化させることを考えました。
住宅展示場のように、新築ですべて同じような規格で建てられた地域にぽかんと空き地があると、どこか奇妙なものを感じます。よくよく聞いてみると、例えば、そこには家族が亡くなられた後の遺産相続や、自治体との問題があるために未だに誰も戻ってこないのだということでした。震災後に仮設住宅が並んでいた川の両岸の向こう側に、神戸市が建てた震災復興住宅が写っている「川 (両サイドに仮設住宅跡地、中央奥に震災復興住宅をのぞむ)」(2004)という写真では、見えないけれども10年後も未だに精神的な傷を負った人がいることを写したいと思いました。仮設住宅に住んでいた人たちは、姨捨山のように、かなり遠い浜の方に住まわされており、自殺率が高いことも知りました。ただ、その写真には小さな男の子が写っていて、さまざまな問題はあるけれども、この男の子が成長してきたように、小さな希望というか、わたしなりに将来への導きを見たように思えて、シャッターを押しました。

 

ART iT 3.11以降にこの作品を振り返ってみることはありましたか。そこには歪みも含めて、ある程度重なる部分はあるのでしょうか。一方で、米田さんが対象と距離を持って物事を見る上で、おそらく3.11に関しては時間という距離が近すぎて、取り組むことが難しいのではないかと思います。

TY 重なる部分はあると思いますね。3.11に関しては、福島の問題もありますから、『Scene』や『震災から10年』とは、違うものとして見ているかもしれません。ただ、新作を作るにあたり、福島の問題とは距離が近くてもいいと思っています。福島を巡る問題は明治から続いていることの延長戦上にあるものですから。

 

ART iT 最後に、米田さんの写真にはドキュメンタリーの要素が強くあると思いますが、今後、そこへフィクションを組み込みたいという気持ちはありませんか。

TY 『Topographical Analogy』ではフィクションもやっていましたね。その後、場所性、つまりその場所が持っている力を感じ、フィクションは必要ないと排除しました。その時点から、現在に至る客観的なアプローチを始めました。リサーチをどのように一枚の写真へと落とし込むかという先ほどの質問に対して、説明し難いのですが、コンストラクションしているようでしていないところがあります。その時々の状況もあるし、すべてが偶然であるけれども、ここだというところが見つかるというのは、経験知なのだと思います。でも、もう少しフィクション性のある写真に戻ろうかと思うこともあります。建築に関するなにかをスタジオでコンストラクションして制作するのもいいかもしれません。

 

 


 

第16号 記憶

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