ヴィルヘルム・サスナル 日常性の覆し

文/加須屋明子

 サスナルは1972年、ポーランドの古都クラクフ郊外のタルヌフで生まれた。クラクフ工科大学の建築科で学び、その後クラクフ美術アカデミーへ移って99年卒業。在学中の1995年から2001年まで「グルッパ・ワドニェ(グループ美)」のメンバーとして、ラファウ・ブイノフスキ(1974- )やマルチン・マチェヨフスキ(1974- )らと共に活躍し、当時は主に平面作品を発表しながら美術と日常生活との境界を突破しようとしていた。活動当初より、モチーフとして選ばれるのは卑近な対象物であって、何気ない見慣れた日常性が画面内に持ち込まれる。形態の単純化や明るい色づかいは、ネオポップと位置づけることもできるのだが、社会への働きかけ、その政治性や歴史意識はウッチ・カリスカグループなどに顕著な、共産党政権支配下におけるラディカルでアナーキー、かつユーモラスな活動からの影響も考えられる。ありふれた日常性へのこだわり、それはまた、身近な友人たちとの親密な関わりの重視でもあった。グループとしての活動も、芸術運動というよりも、互いの関係性にむしろ重点が置かれていた。彼らの描いたモチーフ、あるいは「美」というグループ名自体も、ある皮肉をはらんだ問題提起として提示されたのであった。グループ解散後も、この基本的な制作姿勢は各自に受け継がれてゆく。

 まずは画家として2000年頃から国際的な評価も高まったサスナルであったが、近年はむしろ映像作品で注目される機会が増えている。自らも述べるように、2004年までは主として平面作品を中心に発表し、映像作品は未発表のままであった(*1)。『ヴィンセント2006』展(アムステルダム市立美術館)では、映像作品のみの出品という思い切った決断がなされた。それまで定着しつつあった自己イメージを覆す冒険であり、ここでサスナルはヴァンゴッホ賞を受賞し、大きな転機の一つとなったと思われる。また、近年の技術の発展に伴って、映像機器が小型化され、優れた性能を持つ機材が比較的安価に入手できるようになったことも背景の一つとして、現代美術における映像作品の割合がこれまでになく高まってきた時期とも呼応していた。ただし、サスナルは(絵筆とカンヴァスという古典的手法と平行して)8ミリ、あるいは16ミリフィルムのカメラを使い続けており、ミュージックビデオからの影響を感じさせるような映像作品、身近な風景、家族などを撮影しながら、サイケデリックな効果を効果的に取り入れる、優れた作品を発表し続けている。ちょうど絵画と映像の関係に注目する『液晶絵画』展(*2)の準備を進めていた頃、筆者は2007年夏に、ウャズドフスキ城現代美術ギャラリー(ワルシャワ、ポーランド)にて『1, 2, 3 AVANT-GARDE archives, film, art, experimentation』展出品作品を調査する機会を得た。そこでサスナルの映像作品にとりわけ強く感銘を受けると共に、それによって彼の絵画作品の見え方も変化した。彼の絵画作品と映像作品とは呼応しあっている。サスナルの映像作品の「絵画性」それは例えば質感へのこだわりや、カメラワークなどにも見て取れる。ギャラリーのブースで上映されていたのは、ポップな音楽と合わせ、輪郭の曖昧な人物がゆっくりと動く映像作品2000-2006 で、そのはかなさに心を奪われ、いつまでも見ていたくなるような、みずみずしい魅力と共に切ない哀しみのようなものも伝わってくるものであった。今回の、ラットホールギャラリーでの個展「16mm films」でも、サスナル自身が選定したという映像3作品「Marfa」(2006年), 「Love Songs」(2005年), 「Centre」(2004年) と平面作品6点とによって構成された会場は緊張感に満ちており、異次元の世界が立ち現れる。2006年に「エッセンシャル・ペインティング」展(国立国際美術館、大阪)でサスナルの平面作品が紹介されたことはあるが、個展としては日本初であり、映像作品と合わせての紹介も初めてである。


Wilhelm Sasnal Love Songs
16mm film, 2005
Courtesy of the artist, Anton Kern Gallery New York, and Rat Hole Gallery, Tokyo

音楽と映像とのコラボレーションでは、例えばカロル・シマノフスキ(1882-1937)の音楽と、シュールレアリスティックなアニメーションとの組み合わせが秀逸な、シュテファン&フランチシェク・ティメルソン(1910-88/1907-88)の『目と耳』(1945)のように、ポーランドの前衛映像作品には歴史的な蓄積がある。あるいは、1970年代のネオ・アヴァンギャルド作家たちによる映像を用いた様々な試み、とりわけ、当時の共産主義体制下において厳しい検閲の問題(*3)に対抗するため、徹底してプライヴェートなテーマや日常性を取り上げながらラディカルかつユーモラスな作品を発表し続けていた、ユゼフ・ロバコフスキ(1939- )、同じく70年代を中心に、コンセプチュアルな作品で知られるナタリアLL(1937- )らの先駆的な試み、カメラを通じて日常生活を記録してゆくという手法も思い浮かべることができる。サスナルの初期の短編映像による日常の絵画的スケッチのような作品は、こうしたポーランドの前衛、ネオ前衛美術の系譜とつなげて捉えることができるだろう。他方、彼の絵画制作においては、マリア・ヤレマ(1908-58 )やイエジ・ノヴォシェルスキ(1923- )といった、クラクフにおける20世紀後半の絵画作品からの影響も(恐らくはクラクフ美術アカデミーでの教育を通じて)被っていると思われる。絵画の伝統を担うことについて、「画家である」ことについてのサスナルの態度は二律背反的ではあるものの(*4)、芸術の存在意義が改めて問われる困難な時代において、彼の真摯な取り組みのもたらす「覆す力」は大きい。すなわち、彼の生活と密接に結びついた映像と絵画とは、双方がポスト構造主義的な、構造主義やモダニズムへのシニカルな参照に満ちており、それらは連動しながらミニマリズムを脱構築し、想像されたものを現実の領域へと再度もたらす役割を果たすことができる。そのことによって、私たちと日常との関係を鮮やかに更新させ続けるのである。

*1,4 Wilhelm Sasnal 『Lata walki』, Zacheta Narodowa Galeria Sztuki, Warszawa, 2007/Galeria Civica di Arte Contemporanea, Trento, 2008
*2 『液晶絵画 Still/Motion』三重県立近代美術館/国立国際美術館/東京都写真美術館、2008
*3 共産主義体制諸国では、公式には社会主義リアリズムの作品しか発表を認められていなかった。特に政治的な文脈に関わる可能性のある作品や、ソ連批判を少しでも感じさせる作品については厳しく検閲がなされ、発表を認められないか、すぐに撤去を命じられることもあった。このため、作家たちは時に高度な比喩や暗喩を用い、時に日常生活に密着したリアリズム的表現の中から、それぞれの創造性を発揮しつつ表現活動を行ったのである。発表の場所も、個人のアパートや地下など人目につかない所で、限られた者のみに公開されることもしばしばであった。証拠として残らないよう、記録さえ残されないことも多いため、当時の活動の状況については、関係者たちの記憶、あるいは破棄を免れてこっそりと保管され続けた断片的なフィルム、質の悪いコピーや手書きのノートなどからの再構成と検証が急がれる。

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