25:再説・「爆心地」の芸術(6) 中原佑介と核の批評(前編)

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シンポジウム「未来の美術館のかたち」壇上での中原祐介(2010年9月、直島ベネッセハウス)
提供:瀬戸内国際芸術祭実行委員会事務局 撮影:中村脩

去る4月24日、北川フラムさんと故・中原佑介について語る対談を公開で持った(*1)

僕が最後に中原さんにお目にかかったのは、その北川氏が総合ディレクターを務めた「瀬戸内国際芸術祭2010」で催されたシンポジウム「未来の美術館のかたち」(*2)の時のことだ。同じ壇上に並ぶのはこれで3度目だったと記憶している。が、パネラーとしてではなく、一対一で会話を交わしたのは、直島でのこの催しからの帰路、高松港から空港までをご一緒したタクシーのなかでの正味30分ほどの時間だった。空港に着くと、便が違っていたため、入り口を過ぎると軽く会釈しただけで左右に分かれた。それが、僕にとって中原佑介との最後の別れとなった。それからわずか6ヶ月後の2011年3月11日、中原さんはすでにこの世の人ではなくなっていた。

震災を経て、あらためてお聞きしてみたいことは少なくない。中原さんが亡くなったのは3月3日のことだから、彼は大地震も大津波もそのあとの原発事故も知らずに世を去った。実際の訃報に接したのは、3月12日のことと記憶している。だから、中原佑介という戦後の美術批評を代表する存在の死と、3月11日の破局的な衝撃は、僕のなかでかなりの部分、重なっている。けれども、それは決して偶然では片付けられない意味を持つ。


『中原佑介美術批評選集』第2回配本記念トークセッション 椹木野衣×北川フラム「3.11後の今、中原佑介は何を語っただろうか」(2012年4月、ヒルサイドプラザ) © BankART1929 撮影:中川達彦

北川さんとの対話で僕がこだわったのは、中原さんのデビュー評論「創造のための批評」末尾に出てくる次の一節だった。物書きが最初に世に出た文(本)には、本人の気づかぬうち、彼の生涯にわたる活動を規定する一文が盛り込まれているものだが、中原さんの場合は、おそらくこれだったと思う。

「意識と物質の矛盾とたえまない発展とをみるために、あたらしい眼を作家と共に発見すること。」(中原佑介「創造のための批評」、『中原佑介美術批評選集 第一巻 創造のための批評−−−戦後美術批評の地平』、27頁、現代企画室+BankART出版、2011年)

「創造のための批評」は、中原佑介が京大の湯川秀樹研究室へ在籍中に書かれた。ふつうに考えれば、「物質」という語に理論物理学の影響がないわけがない。後の「人間と物質」展も、当初のタイトルが「人間と物質のあいだ」であったように、ここでの物質は、単なる「物」ではない。むしろ相対論的/量子論的な「場」に近い。そう考えれば、中原佑介が一貫して美術館という力学的な「箱」ではなく、量子論的な「場」に可能性を見出し、「情況」や「臨場」という語を使いながら、できあいの「作品」や「展示」よりも知覚や過程、行為や環境からなる「場」を重視したのもよくわかる。ただし、それは同時におのずと「美術」の解体を孕むことになる。だから、「人間と物質」展以降の中原佑介が、その思想と人脈を活かし、いわゆる「国際的なキュレーター」として活動していく(=既成の「美術」を強化すること)のではなく、むしろ、より広範で脱美術的な文化論/文明論へと向いていったのは(たとえ時代の制約があったのだとしても)ある種の必然であったのではないかと思うのだ。

だからこそ、あの過酷な原子力災害の渦中で中原佑介の訃報に接したとき、とっさに僕が思い浮かべたのは、彼がかつて湯川秀樹研究室にいた理論物理の学究の徒であったことだった。もし中原が、この大規模な原発事故に直面していたなら、必ずや、何がしかの思いを持ったはずだ。


事故直後の福島第一原子力発電所(4号機)。撮影日:2011年3月15日(東京電力公式サイト「写真・動画集」より)

実際、先に挙げた中原佑介のデビュー評論「創造のための批評」には、冒頭から少々唐突にサイバネティックス批判が出てくる。またその論拠として、同じ理系(東京帝国大学医学部)出身でありながら、やはり文学の世界に転じた安部公房に言及しながら、物質をめぐる「冷たさ、断片性」を引いている。京大の湯川秀樹研に身を置き、原子の物理がいかに人の思惑を超えた力と時を持つか、知り抜いたうえでの発言だろう。そんな彼がサイバネティックスに対置したのが詩であり、美術批評の可能性だったのではないか。いわば、自動「機械」に対する「創造」による抵抗である。

実際、人の手で途方もない核エネルギーを制御しようとする原子炉ほどサイバネティックス的な産物はない。原子炉になにか異常があったとき、自動制御で核分裂反応を抑止する制御棒が挿入される設計や、ひとたび電源が失われても、崩壊熱で蒸発する湯気を循環させ核燃料を冷やす非常用炉心冷却装置 (ECCS)といったシステムは、まぎれもなくサイバネティックスの嫡子にあたると言える。が、中原が批評を書くことで抵抗したものこそ、そのようなサイバネティクスの(思想ではなく)機構(システム)であった。つまり、理論物理学から美術批評への転身は、単にデビュー時の美術評論募集への応募における一席入選という機を得た結果というだけではなく、当時の湯川研が基礎研究へと進みつつあった、核の分裂反応を応用した発電技術に象徴される、人間をはるかに凌駕する自動制御システムへの批判を伴っていなかっただろうか。もちろん、中原は後に至るまで広義のサイバネティックスについての関心を失わなかった。彼は機械発明や永久機関への関心、そして意味の同語反復(トートロジー)による独自のナンセンス観を通じて、この分野に消えぬ関心を寄せ続けた。が、そこには常に、惹かれつつ退けるという逆説がつきまとっていた。この逡巡は、実は「創造のための批評」の中にすでに読み取れる傾向でもある。だからこそこの「あいまいさ」は、中原の批評に単純な科学技術批判に留まらない、はるかに複雑なニュアンスを与えてもいた。

この意味では、中原佑介「創造のための批評」(1955年)は、その内容の吟味だけでなく、当時の中原が置かれた時代背景も考慮して読む必要がある。前年の54年3月にはビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸が被曝。国内で大規模な反核運動が起こり、それを逆利用する形で「原子力の平和利用(アトムズ・フォー・ピース)」が推進され始めた。またこの年は、原子力研究をめぐるもうひとつの大きな変化が起きている。ビキニ事件に先立つ2月、中曽根康弘を中心とする政治的な動きのなかで、わが国初の原子力予算案2億5000万円が提出されると、これが直ちに衆議院を通ってしまったのだ。彼は「学者がぐずぐずしているから札束で頬をひっぱたくのだ」と発言した。

この中曽根発言は、日本の原子力基礎研究の一切を否定するものだった。粒子加速器は1930年代にはすでに完成していたし(*3)、戦中には長岡半太郎や仁科芳雄により秘密裏で原爆の研究が行われた。敗戦後、米国によってこれらの研究の一切が禁止されたが、その理論は湯川秀樹や朝永振一郎らに伝えられた。後に美術批評家となる中原佑介は、この系譜にいたのである。

この中曽根発言は、日本で自前の原子炉開発を省き、英米からできあいの原子炉を輸入するという政策から発せられた、わかりやすいあらわれだった。事実、福島第一原発一号炉は米国GE社製だ。以後、商用原子炉による発電技術と大学での学問的な理論物理の乖離が進み、軽水炉の緊急時に必要な事故対応などの基礎研究は衰退したと思われる。そのことは、福島第一原子力発電所の原子炉メルトダウンに接して、なんらなすすべを持たなかった、わが国最高権威の「学者」や「専門家」の、あの怯え切ったような所作や虚言を思い返せば、たちどころにあきらかとなるはずだ。

中原佑介によるサイバネティックス批判と美術批評への転身の歴史的背景には、原子力の平和利用をめぐる、こうした一連の経緯がある。だからこそ、そこから批評家に転じた中原が、自国での開発を途絶せざるをえなかったサイバネティックスの産物である原発の爆発を見て何を思ったか、同じ美術批評家として、いま改めて考えずにはおられない。(この項続く)

  1. 『中原佑介美術批評選集』第2回配本記念トークセッション 椹木野衣×北川フラム「3.11後の今、中原佑介は何を語っただろうか」2012年4月24日、ヒルサイドプラザ。

  2. 2010年9月5日に直島のベネッセハウスで開催。登壇者は中原佑介、北川フラム、椹木野衣、日比野克彦、建畠晢(司会)。

  3. 日本で完成していた3基(理化学研および阪大、京大)の粒子加速器(サイクロトロン)は、敗戦後、米占領軍の手でそれぞれ東京湾、大阪湾、琵琶湖に沈められたとされている。いまも、湾や湖の底に眠っているのだろうか。

参考資料
武谷三男『原水爆実験』(1957年)、『原子力発電』(1976年)、いずれも岩波新書
『昭和31年版 原子力白書』(1957年)、原子力委員会
中尾麻伊香「京大サイクロトロンの物語」(2008年)

※本稿はTwitterアカウント(@noieu)で連続ツイートした内容をもとに全面的に手を加え再構成したものである。

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