24:再説・「爆心地」の芸術(5) いわき湯本にて<3>

2012年3月21日、美術家の村上隆氏と博多に飛んだ。画家の菊畑茂久馬氏を訪ねるためだ。僕らは空港に着くと早々に福岡市美術館に向かい、約束をとりつけていた学芸員の方と菊畑さんのアトリエを兼ねたご自宅を訪ねた。

菊畑さんにお目に掛かるのは初めてだ。が、僕にとってはただならぬ恩のある方である。そもそも、僕の批評の主題となって久しい「戦争画」も、もとはと言えば海鳴社版の菊畑茂久馬著作集で『絵描きと戦争』にふれたのがきっかけだった。その出発点となる著作『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)も、その中で辿り着いた「悪い場所」という概念も、菊畑さんの本を読むことなくしては、おそらくありえなかった。美術家としてはもちろんだが、著作家としても、僕にとってはとても大きな存在なのである。

他方、菊畑さんも「前から一度会いたかったんだよ。なかなか会う機会がなくて」と、笑顔で僕らを迎えてくれた。菊畑さんは『日本・現代・美術』の続編と言ってよい『戦争と万博』(美術出版社、2005年)についても、以前『あいだ』誌(116号)に文を寄せ、鋭いエールを送って下さった。僕らは、アトリエにでんと据えられた菊畑さん近作の大作絵画「春風」(2011年)――想像以上に若々しい息吹と冷徹な物質性を兼ね備えた稀な作品だ――を前にして、たくさんの貴重な話をお聞きした。


山本作兵衛『王国と闇』(1981年、葦書房)

それについては、また機会をあらためなければならないが、ここで特別に触れておきたいのは、昨年、ユネスコの「世界記憶遺産」に決まった福岡生まれの絵師、山本作兵衛(1892〜1984)による、筑豊の炭坑夫が当時置かれた過酷な労働や生活を描いた一連の「戦争記録画」ならぬ「炭鉱記録画」についてである。すでに7歳から現場で働いていた作兵衛は、炭坑夫を辞め63歳で炭鉱事務所の警備員になると、それまで日記というかたちで付けていた入念な記録や記憶に基づいて完全に独学で絵を描き始め、ついに92歳で亡くなるまで、実に千点以上もの作品を残したのである。

もっとも、今でこそ広く知られることになった作兵衛の記録画だが、当初から脚光が当たっていたわけではない。世に出るきっかけを作ったのは、ほかならぬ菊畑氏による紹介と普及の活動である。とりわけ作品集『王国と闇』(1981年、葦書房)では、菊畑氏自身、本格的な評論を寄せている。また氏が色校正まで手掛けたという印刷は驚くほど鮮明で、細部に至るまで神経が行き届き、マルチプルの作品と呼びたくなるような箱入りの大型本だ。これを見ているうち、僕の脳裏には、いわき湯本で出会った、もうひとつの炭鉱画のことがよぎった。

かつての常磐地方が、首都圏にもっとも近く、広域にわたり豊富な炭田を擁したエネルギーの供給基地で、夕張や筑豊と並ぶ炭鉱労働の一大拠点でありながら、なぜか僕らの記憶からそのことが消されていたことについては、この連載でもすでにふれた。だが他方では、「常磐」といえば即、「常磐ハワイアン・センター」が思い浮かぶくらい、この地と温泉は密接な関係を持っている。が、もとはといえば、1950年代後半から国のエネルギー政策が大きく舵を切り、資源の輸入自由化によってあいつぐ閉山と採掘の終了を余儀なくされると、新たな産業基盤として、古くからある温泉による観光を強化し、改めて打ち出さざるをえなかった結果なのである。

いわき湯本に通ううち、かつてのこの地での炭鉱労働が、いかに筆舌に尽くし難く過酷なものであったかを、僕は初めて知った。同時に、いわき湯本での炭鉱産業が、本来であれば恩恵であるはずの温泉との闘いでもあったこともわかってきた。ここでの「闘い」とは二重の意味を持つ。ひとつは、あまりに湯量が豊富であったため、いわき湯本での石炭採掘はつねに噴き出す熱い湯との闘いであった。もうひとつの闘いは、地元に複数あった温泉街との確執が生まれたことである。明治の中期から始まった石炭採掘事業により、場所によっては湯の湧出量が激減したり、採掘の邪魔となる湯を汲み上げ大量に川に捨てた(毎分14トン)ため、内郷市(当時)を流れる新川付近で放流口の湯温は46度に達し、川がそのまま格好の露天風呂となり、従来の温泉宿のバランスが崩れてしまったのだ(話はややズレるが、このように、北茨城から福島県浜通りに至る一帯が、太平洋に及ぶ大規模な炭田を持ち、豊富な地下水を持つ地域であるということは、今回の原発事故の行方を考えるうえでも十分に留意しておいたほうがよい。もしも、解け落ちた燃料集合体が地下水に混入するようなことがあれば、さいわい水蒸気爆発こそ起こらずとも、想像を超える大規模かつとりかえしのつかない水質汚染が起こるということは明白である)。


いわき市石炭・化石館「模擬坑道」展示 手積採炭 〔昭和19(1944)年頃〕 写真提供:いわき市石炭・化石館

常磐地方をめぐるこうした石炭産業の推移については、現在、いわき湯本にある「いわき市石炭・化石館」の展示に詳しい。とりわけ地下展示で大規模に扱われた当時の炭坑労働を再現するジオラマは一見の価値がある。また炭坑労働は目に見えない有毒ガスや殺人的な湿度との絶え間ない闘いでもあり、そのために使われた探知装置や防毒マスクの展示を見ていると、かつての石炭産業と、今日に至った原子力産業における労働の様子が、この地を舞台に重なって見えてくるのだ。

こうした特殊な事情を抱える常磐地方では、筑豊での山本作兵衛の記録画にあたるものはなかったのだろうか。もちろん、あったのである。ただし、ひとりの手によって描かれたものではない。集合的な展示施設こそないものの、これらの絵を、僕らは先の「石炭・化石館」で見ることができる。もっとも、分類がむずかしいためか、これらの絵は階段の踊り場や連絡通路、出口といったあたりに散在して掛けられ、いまひとつ所在がない。が、福島生まれで、常磐中学在学中は美術部に所属するものの、家計を鑑み美術学校への進学を断念。炭鉱に就職し、保安部で仕事をしながら、独学で絵を学び中央での発表を続けた熊坂太郎(1910〜1992)などは、こういう機会にあらためて注目されてよい存在だ。


熊坂太郎「交番所」 写真提供:いわき市石炭・化石館


熊坂太郎「採炭図」 写真提供:いわき市石炭・化石館

在職中の1941年に第28回二科展に「炭礦風景」で初入選。その後も「G炭礦の一隅」(1947年、第34回二科展)、「炭砿斜陽」(1949年、第4回行動美術展)、「炭鉱の風景」(1956年、第1回新世紀展)と次々に入選を果たした熊坂は、1963年に常磐炭礦(株)を退職したあとも、一貫して地元で絵を描き続けた。生前から画壇での評価をある程度得ていたといえばその通りだし、いっぽうで山本作兵衛のような特異なオリジナリティこそないものの、僕らがいま置かれた状況の起源を、美術を通じて改めて知るうえで貴重な画業であることには変わりがない。

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