連載 田中功起 質問する 6-4:林卓行さんから 2

第2信にて理念的にオープン・エンドの作品とはどういうものかを明確化した田中さん。林さんは、リレーショナルアートにおける権力性への批判を展開しながら、「展覧会」の時間と空間から作品は自由でありえるのかという、田中さんが設定した問いについて考察します。

田中功起さんの第2信はこちら往復書簡 田中功起 目次

件名:ふたたび、「けり」をつけること:「オープン・エンド」を終わらせるために

田中さま

拝復
返事がすっかり遅くなってしまってすみません。別の仕事で神経を遣う交渉ごとにずっと従事しているために、なかなか返信の筆を執ることができずにいました。ご容赦を。交渉ごとのほうはそれこそオープン・エンドの様相を呈してきて、依然として継続中なのですが(だから以下のように林がオープン・エンドに手厳しい、というわけではありません。念のため)。


田中さんの「メッセージ」を写した写真への応答として。とくに日本語で、それも
こうして写真にすると、主述の関係があいまいになるからおもしろい。

「完結した作品」だけが「オープン・エンド」になる

ともあれ、まずは林の愚問につきあってくれていることに感謝します。じっさい自分の思っていたことを、ほとんど言われてしまったような感じです。そうです。どんな形式の作品だってオープン・エンドたりうる。つまり作品それ自体が、まぎれもなくひとつの完結したものとしてきちんと作者の手を離れ、ある環境に置かれ、そして鑑賞者の手に渡るとき、作品は作者を「表現」したり、ある特定の共同体を「表象」したりしようとすることをやめ、また別の鑑賞者あるいは共同体に「享受」されるもの、あるいは活用されるもの、という新しい「end=目的」を得る。

そのとき、享受されたり活用されたりするための最低限の条件が、作品が完結させられている、ということではないでしょうか。素朴かもしれないけれど、林はそれを作者の「責任」だと思うし、芸術家としての倫理だとさえ思うのです。そうでないと、作者はたえず後出しが可能になってしまう。「いや、完結してませんよ、じつはこういう作品でもあるんですよ」、ということが後からいくらでも言える。これは作者の作品に対する専制でしょう。しかもこの種の論理を、いま「この作品はオープン・エンドで、だから社会や鑑賞者によって受け止め方は自由でいいんですよ」と言ったその口で言ってのける作者さえある。

ついでに言うと、モダニズムが誤解されているのもそこかもしれない。つまり、モダニズムが言う「芸術の自律性」というのは、どうも天才としての作者が作品を完全に支配下に置くことと理解されていて、だから見る者にとっては不自由だ、とか、社会の問題から目を背けている、と非難される。でもフリードなどを読んでいて漠然とわかることだし、ピカソも繰り返し述べていることですけれど、「作品は作者より大きい」というのが、はじめからモダニズムの基本認識だと思うんです。つまり作品が作者からも自律してしまっている(だからこそ、それは作者から独立して当時の社会や後の世に深くかかわることになる)。それは、比喩的な表現になってしまいますけれど、そうした作品では作者がきちんと作品に生命を吹き込んで、そしてそれを完結させているからです。その意味では、「オープン・エンドです、完結してません」、という作品のほうがむしろ作者がずっと作品を支配下に置き、さらに鑑賞者や社会をそれに従わせ、芸術の享受や活用を不自由にしている。

だから、作品が完結しているということと、それが作者の支配下にあるということは、ぜんぜん別のことです。それどころか上述のように完結していない作品のほうこそが、悪しき意味でずっと作者の支配下にあると言いたい。一方、作品が完結し、にもかかわらずその作品が作者より大きいとき、それがまさに「予定調和」を脱している、と言われるのだと思います。したがってある作品が「完結している/していない」ということと、その作品が「予定調和に陥っている/陥っていない」ということもまたまったく別の問題であることを、ここで強調しておきましょう。

「権力」としてのアート

そしてこうした点では、田中さんが挙げているクレア・ビショップによるニコラ・ブーリオー批判にも、林は少々不満があるのです(*1)。あの批判は、アートワールドの内輪の人間だけを相手に「関係性の美学」を謳歌するリアム・ギリックやリクリット・ティラバーニャより、その外にいる人間まで巻き込んで、社会と芸術の「敵対関係」を露呈させるサンティアゴ・シエラトマス・ヒルシュホルンのほうが「アート」に対して批判的になっているぶんえらい、みたいな話になっているように思うからです。そのときビショップもまた、作者が作品を通じてひとに関与する、あるいはもっと直截にひとになにかをやらせる「プロジェクト」がふるう「権力」、あるいはそこで作者が作品とその享受者に対して行う専制的な支配について、無自覚とは言わないまでも少々楽観的ではないでしょうか。

なるほどビショップの批判を読むと、シエラやヒルシュホルンの作品がいわゆる「コミュニティ・アート」のようなものと一線を画す作品であることは、とてもよく理解できます。ただいずれの作品の場合も、それまでそういうものを芸術だと思っていなかったひとたちが動員され、その目的=endをよく理解していないうちに、なにかをやらされることがある、という点は共通している。たとえ善意からであったとしても、「アート」の名の下に発動されるその「権力」のことを、ビショップにかぎらず「権力」への批判を言うひとびとがあまり問題にしないようなのが、林には不思議です。

たとえば、ビショップ論文の中で高く評価されているヒルシュホルンの『バタイユ・プロジェクト』のことを考えてみましょう。これをたまたま林は2002年のドクメンタを訪れたさいに実見しています(*2)。ヒルシュホルンは当時、ドクメンタ会場のカッセルにほどちかい、移民を中心とする低所得者層が暮らす地域に、思想家ジョルジュ・バタイユに捧げたオマージュというべきモニュメントや図書館、バーなどを作りました。ビショップはその作品について、ヒルシュホルンがそうした場所にアートワールドの人間たちを半ば強制的に連れてゆくことによって、この人間たちを「アートワールド」の外にある現実に接触させる、その点に意義を見出しています。
でも、じっさいにその場に行ってみてわかったことがあります。そこは低所得者層のための集合住宅で、たしかにいくぶん殺風景ではありましたが、それなりにこぎれいなアパートが集まる場所でした。そのまん中に、掘っ立て小屋然としたスタジオやら、ガムテープで覆った樹木状のモニュメントが作られている。たしかにビショップの言うように、「アート」を見にそこを訪れた物見高いアートワールドの住人たちは、そこで潤沢な資本に依拠する自身の物見高さについて、反省させられたことでしょう。林ももちろんそのひとりでした。

けれど、住民にとってはこの作品はどうか。せっかくきれいにしている自分の住まいのすぐそばに、バラックのような建物やチープなモニュメントを作られてしまって、田中さんが言うように、うれしく思わない住民だっていたかもしれない。ビショップは「ヒルシュホルンは住民たちをバタイユの真摯な読者として扱っていた」と書いています。それはたぶん嘘ではない。
でも、ビショップ自身もそこで書いているように、そうすることがアートワールドの住人にとって「破壊的」であることが第一義なのであって、バタイユ思想の重要性を住人たちにも知ってもらう、というのは目的としては二の次であるように思います。かりに住民たちが、バタイユを理解することが必要な状況にあったとしましょう。けれどそのときでも、住民たちが、「ファン」(ビショップ)としてのヒルシュホルンがバタイユに捧げたオマージュや、そしてもとはと言えば、ゴージャスなアートを期待しているアートワールドの住人を故意に裏切るために作られたチープな作品に、つきあう義務はない(*3)
ちなみに、そのときデイヴィッド・ハモンズが、「アートの観客は最悪の観客だ」と、展示の入り口にある看板に、アートワールドの人間の自己批判よろしく書いていました。けっきょく、全部アートワールドの住人同士の内輪もめのようなものだと思うのです。あるいはアートワールドの住人がおなじアートワールドの別の住人に対して、「おまえは社会を知らない」と告発しているだけ。でもそんな内輪もめは、その団地の住人にはどうでもいいことでしょう。よそでやれ、という話かもしれない。

「展覧会の枠の中に閉じられている」?

さて、そろそろここまでの議論を踏まえつつ、田中さんが設定しなおしてきた問に答えなければなりませんね。

まず問い1:「展覧会の枠の中に閉じられているプロジェクトを、文字どおり本当にオープン・エンドにした場合どうなるのか」。
「文字どおり本当にオープン・エンド」というのは、田中さんの言う「理念的なオープン・エンド」、あるいは林の言う「作者によっていったん完結させられた作品がなにものかに享受されることで獲得するオープン・エンド」のことではなく、「作品が物理的な意味で永遠に更新され続ける」という意味でのそれですよね。作者がある統一的な原理によって制作/更新し続けることができ、さらに作者が亡くなった後も、たとえば指示書などによって更新が可能になっている、というような。

この問いについては、答えかたがふたつあると思います。ひとつは、別になにも変わらない、というもの(笑)。というより、「文字どおり本当にオープン・エンド」のプロジェクトで、ふつうに展覧会の枠の中で、ただしその部分が展示されているものがありますよね。たとえば河原温やジョナサン・ボロフスキーによる「カウンティング」の作品。あるいは田中さんが挙げている木村有紀の「Pictures of a Man」なども、この意味では文字どおりのオープン・エンド「になりうる」構造を持った作品と言える。「髭の男」はわたしたちが理念によって追加可能である以前に、彼女自身によって文字どおり追加可能であるのですから(余談ですが、林が先月訪れたバーゼルでは、フランシス・アリスがこれと似た着想のインスタレーション作品「Fabiola」を発表していました。こうした作品では、展覧会に出品しても、その枠を出ても(=そのほかのかたちで公開しても)、あるいはそもそも公開しなくても、その要諦というか、作品としての「核」にあたる部分は、とくに変化することがないでしょう(*4)
そしてこの答えで不足だとなれば、やっぱりそのとき「理念的にオープン・エンド」かどうかを考えてやらないと、この問については考えられない、ということでしょうね。

単純な事実として、ある作品を物理的・時間的にオープン・エンドにしたらどうなるのかといえば、それは物理的・時間的に展覧会の中に収まりきらなくなるという、それだけのことでしょう。でも、田中さんが考えたいのはそういう意味での「収まらない」ではなく、むしろそうなったときに(あるいは展覧会という後ろ盾を失ったときに)、作品はそれでもその価値を変えずにいられるのか、という問いですよね? あるいはそもそも作品は展覧会のために作られるものなのか、という。
それなら、そのときやはり「理念的にオープン・エンド」であるかどうかだけが問題なのだと思います。つまり、理念的にオープン・エンドの作品は、「文字どおり本当にオープン・エンド」あるか否かに関係なく、その価値を維持できる。これは逆を考えればいい。「理念的にオープン・エンドではない」作品は、「文字どおり本当にオープン・エンド」あるか否かに関係なく、まさに「その展覧会の枠の中に閉じ込められて」終わります。つまりそれは、「失敗作」や「言及するまでもない作品」として、最初に出品された展覧会が終われば、以後ほかの展覧会で展示されたり、だれかの議論で肯定的に参照されたりすることなく、ひとびとの記憶から消え去るのです。

そして問い2:「展覧会の時空間とは別の、作品そのものが必要とする時空間の中で制作はなされるべきではないだろうか」について。
まず、「そういう制作方法があることを忘れてはいけない」と思います。
作品が欲する必然的な時間や空間というものを、林はフィクションだとは思いません。あるいはそうすることで「予定調和」を回避することもできる。ボナールが、まず壁一面に大きなキャンヴァスを貼り付けてから絵を描きはじめ、ここまで、というところまで描いた後、キャンヴァスを切り取るようにした、というのはその一例ですね。「キャンヴァスの枠をあらかじめ想定して、そこにきれいに各部分を嵌めこんだ作品が勝ち」という予定調和から、ボナールは逃れようとしたのだと思います。
あるいは逆のケース。最近よくある、日常空間やもともと展示施設ではない場所で開かれている展覧会などを見ていると、既存の空間を個々の作品がどう有効に使っているかを競う、「大喜利」みたいに感じることがあります。そういうときには「展覧会の時空間とは別の、作品そのものが必要とする時空間」で制作したおなじ作者の作品を見られたらいいのに、と思ってしまう。「大喜利」ではすべったらたんに失敗作だし、上述の意味で有効な解法を示した場合でも、「予定調和」にしかなりません。しかしある芸術作品の成否とは、そのさきにあって問われるはずのものなのです。

ただ、そのいっぽうで、時間的にも空間的にも制約がない=作者の自由がきくところでは、その時間が長かろうと短かろうと、あるいはその場所が広かろうと狭かろうと、ひとはけっきょく作品を自分の予想や裁量や都合のつく範囲に収めてしまいがちである、ということも事実でしょう。とくにそのような時間について林が思い出すのが、ラカン派の精神分析が「短時間セッション」(各回の分析=治療を短時間のうちに区切って行う)を採用し、またその点が精神分析学派の内部でしばしば激烈な論争の的になった、という話です。そのときラカンが、「一定の時間」に固執したのは、やはり時間をかけるほどにしだいに被分析者がつじつまの合うように加工した答え=「予定調和」の答えを出そうとすることを、回避しようとしたからだと思うのです。
というわけで、この問2についてはケース・バイ・ケース、というのが林の答えです。

さて、またずいぶん長くなってしまいましたが、さすがにそろそろ筆を置かなければならないようです。第二信の終わりにあたって、こちらから問いをひとつ。
田中さんは自身の作品、「Someone’s Junk Is Someone Else’s Treasure」について、それがパフォーマンスやプロジェクトの作品ではなく、最終的に映像という形式をとった作品となることを前提とし、またその形式を利用した作品である、と説明しています。この指摘はとても納得のゆくもので、またわたしたちの議論にとってとても大切な論点を含んでいるようです。というのも、ある作品のend、つまり終わり=目的をどうするかを決定するのは、かなりの程度その「メディウム」ではないかと思うからです。 そしてこの議論の延長線上に、イヴェントやプロジェクトを「メディウム」として選んだ作品は、「展覧会」というかなり制約の多い制度にフィットするものなのか、あるいはさらに議論を進めて、作品は「展覧会」にフィットするものであってはならないのではという、田中さんが(たぶん)この連載でずっと問い続けている問いがあるように思います。 ということで、つぎはこの「メディウム」と「end (終わり=目的]」の関連について、意見を交わしてみることにしませんか? この企画と残り一往復となった書簡には、少々余るおおきなテーマかもしれませんが、できるところをすこしだけでも。

そういえば、先日ヨコハマトリエンナーレを再訪しました。あのオープニングからもう2ヶ月にもなるのだと思うと、ほんとうに時間の流れをはやく感じます。秋の訪れは心地よいですが(といってもLAの秋がなかなか想像できない)、そろそろ夏の疲れが出てくるころかもしれません。ご自愛ください—–なんだかこれは自分に言っているみたいですね。

2011年10月12日 東京の自宅にて
林 卓行

  1. クレア・ビショップ(星野太訳)「敵対と関係性の美学」『表象05』(月曜社、2011年)pp. 75-113

  2. 田中さんの言う「実作を見ないとわからないというある種の経験至上主義」について、林の考えもここで。林自身はこの「主義」者です。というのも林の場合は、基本的に実作を見てはじめて、なにか発言する気になるのです。もちろん、それまでの経験を下敷きに類推しながら考えたり書いたりすることもありますが、それも基本的には別の具体的な作品を見た経験です。もっとも、これは「主義」と言うよりほんとうに個人的な気質の問題だと思います。だから自分としては実作を見ないと書けないけれど、見ないで書くひとをどうこういうつもりはありません。もっとはっきり言えば、「実作を見ている自分のほうが見ていないあなたよりも正しく批評できる」というような言いぶんは林も嫌い。

  3. この理由で、今回のヴェネツィア・ビエンナーレのスイス館で見たヒルシュホルンの展示は、アートワールドの内部で最後まで没趣味性を貫いていて、思いのほかよかったと思います。

  4. だからこそ、というべきでしょうか。今回林はこのアリスの作品を見ずにそのぶん空いた時間でほかの作品を見て、帰国してしまいました。コンセプトと写真がいくつか載ったパンフレットを見るだけで、これは展示を見なくていいかな、とも思ったのです。もちろん「経験至上主義者」として、これ以上林はこの作品について発言する権利を持ちません。でもこうして発言をしないと宣言すること自体が、この作品に対して林が下した評価になったりもする。その意味では必ずしも実作を見なくても批評はできます。

近況
すでに旧聞に属してしまいますが、第一信を投稿した後、ヴェネツィア・ビエンナーレを見るついでに、ヨーロッパを10日間ほど旅行してきました。あちこちで知人たちのお世話になりながら、サヴォア邸やピエロ・デラ・フランチェスカの優品をはじめ、見たいと思っていたものをいくつか実見して幸福のうちに帰国すると、勤務先の大学の学生が企画した泉太郎さんの展覧会が待っていた。ほかにも本文冒頭に記した交渉の仕事などあって、めずらしく濃密な人間関係のなかにある秋です。

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