笹本晃インタビュー: ハドロンとしてのインスタレーション/パフォーマンス

インタビュー・文/ 大舘奈津子(編集部)


Secrets of My Mother’s Child
performance still of installation/performance, 2009
Photo by Arturo Vidich, Courtesy of the Artist

 笹本晃は動く。パフォーマンスアーティストとして当然とはいえ、身体と同時に口も動く。さらに自身が設置したインスタレーションの中で動き、そのインスタレーション自体も動くものを多用する。即興、早口、奇妙な動きを繰り返すそのパフォーマンスは本人が認識するように、コメディアン的で 且つひどく神経質な様相で、話す言葉は論理的であろうとしながら高速に空回りをする。観客の笑いを誘いながら、その反応にまったく動じることもなく淡々とその場を切り回して行く。

 2007年にニューヨークのチョコレートファクトリー劇場で初演し、その後装置を変更するなど少しずつバージョンを変えながら数度発表し、最近では2008年の横浜トリエンナーレでインスタレーション/パフォーマンス作品として見せた『remembering/modifying/developing』では、設置されたクローゼット(手前に扉がついているが後ろの板が抜かれており通り抜けられるようになっている)、頭部がおろし器に改造された譜面台、ゴムがつけられたジャガイモ、そして彼女の作品における重要な描く」行為のために切り取られた壁の一部などを駆使し、作品内を自在に動きまわった。実際、この作品においては目に見える動きだけでなく、天井からつり下げられたモニターに写っている映像も、会場に流された音もライブのようでありながら実は前日/過去のものが使われているなど、不可視的な時間の動き(彼女が以下後述する速度の違い)も組み込まれている。また昨年、ニューヨークのアートスペース、ザ・キッチンでの作品『Secrets of My Mother’s Child』(初演は同年に劇場で行われた)はいくつかの小品でなるオムニバスである。以前より母に聞きたくて聞けなかった質問をするという名目で母をわざわざ日本からニューヨークに招待し、質問を試みたという事実を基にした作品である。コミュニケーションすることへの強い欲求を持ちながらそれに相反する行為をしてしまうというディスコミュニケーションの状況をスケッチ形式で綴っている。

 今年のホイットニー・バイアニュアルに参加し、『Strange Attractors』と題されたインスタレーション/パフォーマンス作品を発表、会期中6と9が付く日にパフォーマンスを行っている彼女に話を聞いた。本人曰く、6と9というこだわりは、カオス理論によって説明されるストレンジアトラクターのひとつである、ローレンツ方程式の図からヒントを得ている。


Strange Attractors
performance still of installation/performance, 2010

courtesy of the artist

ARTiT まずホイットニーでの作品とその制作プロセスについて聞かせてください。 

笹本晃(以下SA) 今回は作品制作過程において、ちくわ、ドーナッツ、痔のためのクッションなど丸く穴があいたものばかりについて考えていました。私の作品の作り方は漁のようなもので、まずオファーがあってから3ヶ月間くらいは地網をはり、ひたすらアイデアの破片が集まるのを待ちます。それからそこから要素を拾い上げ、組み立てていくのです。今回は昨年の夏にオファーがあってからの数ヶ月間に考えていたことが反映されていると思います。考えていたことを無理に排除することは不可能なので、どうしても入ってきてしまいます。また以前に考えていて結局採用しなかったもの、以前採用したことがあってもまだ考える余地のあるものが現れることもあります。 

ARTiT 実際インスタレーションとパフォーマンスの関係性、つまりどちらかが先行して作られるのでしょうか。例えばインスタレーションを装置としてかなり完成させておいて、それからパフォーマンスを考えるのか、それとも同時進行的に、つまり生活しながら部屋に必要なものをだんだん揃えていくように、インスタレーションが出来ていくのでしょうか。 

SA 後者ですね。パフォーマンスもインスタレーションも、展示中に仕上げに向かうようにしています。展示が始まる段階でインスタレーションは80%、パフォーマンスのスコア(大まかな予定)は50%できている、といった感じです。インスタレーションは先ほどの漁の例で言うと、編集作業を終えた段階でかなりフィックスします。それはインスタレーションに使うモノが持つ物理的な耐性が、柔軟な変更を望まないからです。
一方でパフォーマンスについてはインスタレーションとは対照的にかなり即興性、柔軟性を持つものですから、そのふたつの差異を楽しんでいます。インスタレーションである程度フィックスしたものを劇的に変えることはしませんが、パフォーマンスの際に後からモノを持ちこんで小さい変化を加えることはありますし、パフォーマンスの時、その瞬間に考えていることを入れ込む、というより入ってしまうことはしばしばあります。インスタレーションは先ほど話した耐性という意味からよりゆっくりした速度が流れるので、即興という速度があるパファーマンスがそのモノが持つ耐性によって、その速度に変化がでたりするのです。そういう意味でも、私にとってインスタレーションとパフォーマンスは相互作用し合うものです。
 
ARTiT あなたの作品はパフォーマンスをしていない間も、見る人がある種の不在性を感じるインスタレーションであるように思えます。それはパフォーマンスがあることで完成している、と捉えるべきなのか、パフォーマンスが行なわれた、という証なのかどちらでしょうか。 

SA インスタレーションとパフォーマンスの比重は100%:100%と考えています。それぞれお互いの存在によって意味を増すことがあっても、お互いが依存し合って完成度を容赦しないように心掛けています。モノの見かけがいいというだけでパフォーマンスに起用しすることや、パフォーマンスの痕跡として格好いいからインスタレーションに残す、といった決断を避けるようにしています。この心掛けは、制作中に作者としてこだわっていることで、果たして作品に結果として現れているかは問題にしていません。

 
 
ARTiT インスタレーション作品についてうかがいます。インスタレーションによくビデオおよびビデオカメラが組み込まれていることが多いですが、どのような使い方をしていますか。少なくても記録という機能としては使っていないように思えます。 

SA ビデオカメラは、モノの視点を示唆すべくインスタレーションに組み込んでみました。モノへの感情移入に興味をもっていて、例えば、机の上のカップは自分のことをどう捉えているのだろうか、と想像しています。パフォーマンスの記録となると、よくパフォーマーに焦点が当てられ、モノ達は背景となって左右にゆれながら、まるで車窓の窓から、静的な鑑賞を許されません。自分がパフォーマンスをしているとき、画面に移るのはほんの数分かもしれないし、それこそ自分がモノ達の背景になって画面を通り過ぎているかもしれ ない。その可能性を託して、パフォーマンスの際にも展示の間と同じ状態でカメラが作動しています。 

ARTiT 先ほどのインスタレーションとパフォーマンスの比重が同じ、ということにつながりますね。 

SA どちらかがどちらかの説明にならないようにしています。 


Secrets of My Mother’s Child
Installation view of installation/performance, 2009
Photo by Adam Reich, Courtesy of The Kitchen, New York

ARTiT あなたのインスタレーション作品が持つ身体の不在性についてはいかがでしょうか。パフォーマンスを見ず、インスタレーションだけを見た人にも、あなたがそこに存在した痕跡が見える気がするのですが。 

SA 身体のニオイがするインスタレーションを作っています。動画的な形跡ではなく、ル・コルビュジエの椅子の設計のように、身体がモノとどう接触するのか、関わるのか、を考えています。繰り返し になりますが、モノには耐性があり、物理的な抵抗力があります。従って、一度そこに残した痕跡は非常に緩やかに消え去っていくので す。つまり、そこでパフォーマンスを行なう時、さらに今回のホイットニーのように繰り返しパフォーマンスを行なうとニオイが残るのかもしれません。ただし、それもいつかは消え去るものですし、そのモノへのアクセスを私物化しようと思ってはいません。誰かに使われたという痕跡が残るものを希望していますが、それは自分でなくてもヒトであれば誰のものでも痕跡もしくはニオイが残ればよいと思っています。一方で、パフォーマンス直後は、強烈な自分の痕跡がモノに刻み込まれていて、そしてそれを残した記憶が自分の身体 にも残っているので、自分のモノだという意識が非常に強いです。例えば、先日パフォーマンスの直後、自分が書き捨てた明らかにゴミである紙屑を欲しいという人がいて、迷いつつもあげてしまい非常に後悔しました。それは自分の身体の肉を切り取られたような 痛みを伴う感覚でした。 

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