サイモン・フジワラ インタビュー

物[オブジェ]の考古学
インタビュー/アンドリュー・マークル


Installation view of Welcome to the Hotel Munber (2010) at the 3rd Singapore Biennale, 2011, mixed media, dimensions variable. All images: Unless otherwise noted, courtesy Neue Alte Brücke, Frankfurt, and TARO NASU, Tokyo.

ART iT あなたの作品には、エロティシズムと考古学とのメカニズムを微妙に組み合わせることによって物が如何に語るかを探るものが多く見られます。シンガポール・ビエンナーレに出品したインスタレーションとパフォーマンスの作品「Welcome to the Hotel Munber」(2008–)ではこれを更に発展させて、作品の中心人物がアマチュアの官能小説家という前提から始まっています。まず、エロティシズムについてどのように考えているのでしょうか?

サイモン・フジワラ[以下、SF] エロティックな作品とは、滅多に真摯に受け止められるものではないので、かつてシュールレアリストやバタイユがしたように、深層心理や社会問題に関わるようなエロティックな作品を作ってみたらなかなか笑えるのではないかと思いました。
私がエロティシズムを作品に取り入れるのは、ゲイアイデンティティをどのように扱うかや、ゲイの男性が自らのセクシュアリティについて話す際の語り口の選択肢のなさとも関わっています。例えば、一般的に浸透しているゲイエロティカには、既存の家族を排除した新たな、男性のみの家庭というものを理想として掲げる傾向がありますが、私はそれに対して、ゲイアイデンティティについての言説を[従来の]家族の概念と融合させることができるかどうか知りたかったのです。だから、当然ながら、生殖という概念がパフォーマンスの中核を成します:ホモセクシュアルな子の遺産とは何か? 子供ができなくても家族を築けるのか?
でも、それと同時に、本質的にはエロティシズムについての作品ではないとも言えます。エロティシズムを取り入れることによって、鑑賞者の注意を引いて、その他の題材にも関心を持ってもらうという策略です。エロティシズムを最重要な導入部とすると、例えば世界中の多くの人々がほぼ忘れていて、さらに個人的な経験を持つ人はもう殆ど残っていない、スペインの歴史におけるある特定の時期など、他の何についても自由に話せるようになります。そういった内容にも入り込んでもらうためのひとつの方法というわけです。
そして、最後に、コンフリクトという概念もあります。これはバタイユを参照しているのですが、つまりエロティシズムとは常に矛盾しているものだという概念です。バタイユはこれを原始時代の人による創作活動と文明社会との間の矛盾を以て語っています。この矛盾、コンフリクトの概念が物語全体を突き動かしています。


Top: Detail of Welcome to the Hotel Munber (2010) as installed at the 3rd Singapore Biennale, 2011. Bottom: Installation view and detail of Desk Job (2009) in the Nordic Pavilion of the 53rd Venice Biennale, 2009, mixed media, dimensions variable. Photo Anders Suneberg.

ART iT バタイユの『眼球譚』も参照しているのでしょうか? パフォーマンスの中で小道具として使うダチョウの卵と、バタイユによる物語の中で眼球、卵、そしてセクシュアリティが繋がりを持っていることなど、いくつかの共通点があるように思えるのですが。

SF はい、私が影響を受けているバタイユのテキストには『眼球譚』も、より学術的な論文なども含まれます。官能的な文章とはどうあるべきかは、必ずしも質が伴っていないので判断が難しいです。だからこのパフォーマンスでは、最初からハードルを下げておくために、まず陳腐なゲイ雑誌のために書かれた官能小説なのだという背景から出発します。そうすれば鑑賞者も純文学はもちろん、官能小説さえも期待しません。

ART iT エロティックな題材の件はひとまず置いて、作品のインスタレーションの部分については、空間のエロティシズムについて考えることを通したアプローチを取っているのでしょうか? エロティックなナラティブをその他の題材への「導入部」として捉えているように、物と物との関係を、鑑賞者が作品と深く関わることを促すためのひとつの仕掛けとして捉えているのでしょうか?

SF もちろんです。これは特に2009年のヴェネツィア・ビエンナーレの北欧館のためのインスタレーション「Desk Job」において重要な問題でした。「Hotel Munber」のパフォーマンスと同時期に考えていた作品で、自分自身について書く官能小説家という人物を扱っている点では、ある意味そのパフォーマンスから派生したと言えます。展覧会の会期の半年間ずっとヴェネツィアに留まってパフォーマンスを行なうことはできなかったので、本当のこととそうでないこと、物語全体を繋ぎ合わせようとする「Hotel Munber」の鑑賞者が体験する感覚を、彫刻的な環境に置き換える方法を見つけなければなりませんでした。その内容は確認はできないことばかりなので、本当に自分自身の判断力に委ねられてしまいます。これは実際に何が起こったかの判断は観客に委ねるという、演劇の古典的な概念からきています。
「Desk Job」や、「Hotel Munber」のインスタレーション——インスタレーションとパフォーマンスとで、同じ作品の別の部分というわけですが——といった作品の場合、インスタレーションを見ることで鑑賞者が何かを得るためにはどうすればいいのか、ということを考えました。ただ単に見に入って「ああ、フランコか、1970年代のスペインね、うん、知ってる知ってる」と思ってもらうだけで充分です。そういった参照元が分からないと何も始まらないので、ある程度の基礎知識は必要になります。でも、何に言及しているのか分かれば、私の両親についての作品だということも察しがついて——バーにいる父と小さな子供が見えます——そして、あからさまにエロティックな要素やむしろポルノグラフィックな要素もいくつかあります。面白かったのは、最初に展示したときに鑑賞者が、カスタネットやバスケットや溶けかけのロウソクといった、インスタレーションの中の全ての物がエロティックに思えてきたそうなのですが、それは全て作品の鑑賞自体に潜在していて自分たちの頭の中から出ていることなのだと彼らは理解し始めていました。私はいくつかのサンプルを与えるだけで、残りは全部鑑賞者の想像力から生まれます。
このような作品では、誰かに物語を語って、手を引いてガイドしていくことは簡単です。でも、そうすると鑑賞者が自分の経験を作品の解釈に加えたり、自分の家族や、自分の親の歴史と自分の歴史との関係などについて改めて考えたりする余地がなくなってしまうので、私は鑑賞者自身の心理に重点を戻すことを好みます。だから、作品への反応としては、歴史の再構築の方法に関心を持つ人もいれば、疎遠になった親とも関係を保つことができるという、パフォーマンスの中で扱う概念に関心を持つ人もいたりと、個人的な反応も政治的な反応もあり、実に様々でした。

ART iT この作品はまた、親と子との間の性にまつわる緊張関係についても、子が親のセクシュアリティに与える影響と、親が子のセクシュアリティを形成する様との両方の側面に慎重に触れているように思えます。

SF そうですね。面白いことに、どんなにホモエロティックでも、ゲイについての作品と捉える人は少なくて、これはセクシュアリティ全般についての作品であり、その一部として同性愛者たちとフランコとの間の争いを取り上げているのであって、それはヘテロセクシャルな文脈でも、別の社会的機関でも同様に展開し得る物語なのだと多くの人は理解してくれます。

ART iT ゲイについての作品と捉えられることについて懸念はあるのでしょうか?

SF 作品はできる限り広く受け入れてもらいたいのです。閉鎖された社会の一部と考えずに鑑賞できるものだと思いたいです。主人公である父は、元々異性愛者だったのが同性愛者に成り変わったという人物で、彼に自分を重ね合わせることもできますし、ずっと静かに背景に潜んでいる母に自分を重ね合わせて、この状況について話す息子を持つ彼女の気持ちを想像することもできます。いくつか選択肢はあるのです。
このような、非常に多くのことに言及する作品を作る過程では、そういった解釈の衝撃を、後に続くより分析的な、直接的な描写と掛け合わせることがとても大事でした。特にシンガポールのような場所においては、通常はあまり自由に話されない同性愛について発言するのは大事なことです。そういった制限を感じるという意味ではフランコ政権下のスペインと似たようなものと言えるでしょう。表面下には政治的な意味合いももちろんありますが、いつもはっきりとしたドキュメンタリー的なものではなくて、フィクションと隠喩的な空間の共有とを通して形になります。


Top: Installation view of Phallusies (An Arabian Mystery) (2010) at Manifesta 8, Murcia, 2010, mixed media, dimensions variable. Bottom: Installation view of Frozen (2010), commissioned by the Frieze Art Fair Cartier Award, 2010, mixed media, dimensions variable. Photo David Grandorge.

ART iT 作中のエロティックな要素と並行して、あなたは考古学的な環境を作り上げています。そこでは個々の構成要素がより幅広いナラティブを伝えているように見えると同時に、それを伝えることを拒否する権利も保有していると言えます——結局、ただの物でしかないわけですから。このようにして作品を作るようになったきっかけは何だったのでしょうか?

SF 美術学校に入学する前に建築を勉強していたこともあって、今でもあらゆるかたちで根強く残る、美術家の本質とされるイメージは私には昔から受け入れられません。美術学校で彫刻作品を作っていた頃は、その彫刻について話すことや、その彫刻と目に見えないものとの関係について話すこと、そこに繋がりがあると人を説得しようとすること、そして物と私が引用している言葉との間の空間を見つけることなどの方がずっと興奮しました。例えば、1850年に書かれたとある本を想像して、そして割れた卵を見てそのふたつの間の繋がりを発見するときに人の頭の中で変化が起こる様子がとても好きです。これは私にとっては美しく力強いやり方になるのではないかと考えました。
また、建築を勉強していた頃に模型やスケッチのプレゼンテーションを頻繁に行なうかたちで自分のアイディアについて話す訓練を受けました。私がこの建物を本当に建てて、人々をひとつにして「二酸化炭素の排出ゼロ」云々の条件を満たして世界を変えるのだと審査員を説得しなければならないわけです。でも実際には段ボールの塊の話をしているわけなんですよね。レトリックやダイアローグに大変な時間を費やしていながら物自体はさほど重要ではないという状況は哲学的な意味でとてもコミカルだと思いました。これはもちろん宣伝の分野についても言えることです。どんな商品であっても、どれも壮大な物語がその周りに作り上げられていきます。
物そのものに対する敬意の欠落のようなものがある一方で、テキストを通して物や彫刻の力を理解することができます。私の彫刻インスタレーションはまるで演劇の舞台装置のようで、「画面の中のコカ・コーラからは物語が伝わってくるか、こないか?」と常に自問している映画やプロダクションのデザイナーのように仕事をします。まさにそういう考え方なのです。全ての構成要素が物語を伝えていて、その物語というのがあまりにも複雑なので、瞬時に理解できるようなサインを出さなければ鑑賞者は先に進めません。だから私は殆ど啓蒙的とも言えそうな心理学的な考え方をしています。

ART iT しかし、美術においては符号化や排除も生産的であり得ます。宣伝建築のアプローチとは違って、全てのことが全ての人に平等に伝わる必要性は必ずしもありません。

SF ごもっともです。私はいつもインスタレーションやパフォーマンスに脱線と言えるような要素や意味不明の要素を加えたり、敢えてイメージを有効活用しなかったりします。例えば、「Hotel Munber」のパフォーマンスに現れるいくつかのスライドがあるのですが、一瞬鑑賞者を別のところに持って行ったり、私がその前後に言うことと繋がりはするけれど説明はされなかったりします。そういったワイルドカードをここそこに放り込むことも好きです。
また、このパフォーマンスの場合は感情の要素がひとつの論点となっています。脳を強く刺激するパフォーマンスだということは自覚しています。文学やファンタジーが好きな愛読家などは、全体を通して明白なフィクション=分析=フィクション=分析の詩的・分析的な構造を持つこのパフォーマンスを好むでしょう。そして最後に全部崩壊してきて私が感情的になってくると、私が実際にどれほど強く感情的になっているのか分かりませんし、私が父を演じているのかも、父が自らフランコになりつつあることに気が付いたから泣いているのかも分からなくなります。この瞬間はどの感情にもはっきりと分類できません。このつかみどころのない衝撃的なエンディングを残されて、それまでに起こったことが全て覆されます。
鑑賞者に向かって説教をしないというのも大事なことでした。最後に陳腐で感情的な要素を付け足したことに対してひどく怒っていた人が大勢いましたが、まさにそのためにやったことでした。鑑賞者をも疑心暗鬼にして、みんなそれぞれ異なる自分自身の考え方に沿った反応をしなければならないようにする要素が必用だったのです。これだから私は自分のことを隠れ表現主義者と呼んでいるのです。表現というのはちょっと下品な言葉とされていました。エロティシズムも同様に。それは何故でしょう? 私たちは何故それを失ったのでしょうか? もしかしたら、なんでも保存して制度化したがる傾向のせいかもしれません。感情は、博物館の一体どこに置けばいいと言うのでしょう?


View of stage for the performance version of Welcome to the Hotel Munber at the Singapore Biennale, 2011. Photo ART iT.

ART iT では、美術家としてパフォーマンスを作ることとインスタレーションを作ることとの間に緊張関係を感じることはありますか? 何かを演じることと空間に置いておくこととの間に感情の緊張関係はあるのでしょうか?

SF 私は緊張関係を技術的装置として使って、他の物に火花を散らすような物を組み合わせます。パフォーマンスの場合、分析とフィクションとの間の緊張関係は、ただ単にだらだらと長い話ではなくてダイナミックなパフォーマンスにするための仕掛けでしかありません。フィクションは鑑賞者を隠喩的な状態に持って行くために必要です。私から引き離すことによって、私たち全員が突然ひとつの領域を共有し、全員がナラティブを思い浮かべていながらも、誰一人物理的に体験していない状態となります。そうするとナラティブはある種のセラピーとしての自己分析のセッションのようには見えなくなります。自伝的な題材を扱うとき——もしくは、仮に自伝的とされる題材や、自伝という形式についてでも——そういった場合にはもちろん特定の立場に釘打たれてしまう罠を常に避けて動くわけですが、私はそれを利用してアイデンティティをこじ開け、連想によって鑑賞者の反応が形成されることを可能にします。人はいつだって美術作品を心理学的に分析して自分自身の感情に基づいた論理を当てはめたがります。私はその力を利用しているのです。鑑賞者が自分の伝えたいことを考えてくれるように操れる潜在意識部分を探すために、私がどこで生まれて、どういった作品なのか解説する壁のパネルの裏に入り込もうとしているのです。

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