アイザック・ジュリアン エッセイ

ほどけないもつれ

アイザック・ジュリアン 『Ten Thousand Waves』についての考察

文/ 高士明(ガオ・シーミン)


Installation view of TEN THOUSAND WAVES (2010) at ShanghArt Gallery, Shanghai, 2010. Nine-screen installation, 35mm film transferred to High Definition, 9.2 surround sound, 49 min 41 sec. Photo Adrian Zhou, courtesy of Isaac Julien and ShanghArt Gallery, Shanghai.

私が最初にアイザック・ジュリアンにあったのは2007年6月のことであった。彼は当時今回発表した『Ten Thousand Waves』の制作に向けて最初のリサーチのため、中国に行く準備をしている頃で、「ポストコロニアリスムへの決別」をテーマにロンドンで行われた「第3回広州トリエンナーレ」の記者会見の場であった。その『Ten Thousand Waves』(2010)は先日完成され、上海で展示された。彼は3年前この映画のために行った最初の旅で感じた困惑を反映してか、彼はこの経験を「中国での最初の知的収穫」と名付けた。

すでによく知られているように、ジュリアンはポストコロニアリスムを中心とした問題を現代美術で取り上げる代表的な作家といえよう。彼の作品はポストコロニアリスムの条件に関わる人種、性別といった問題を扱い、アイデンティティの形成のなかで生じる差異を発掘し、イデオロギーの議論における権力の力学を露にする。しかしながら、短い中国での経験から、ジュリアンは「ポストコロニアル性」の問題が西洋の文脈の外に持ち出され、再び概念化された場合わずかに意味が変質すること認識した。この変質に対する自覚によって、新たに見つかった複雑性を、これまでになかった立場から、中国についての議論を試みるために、ジュリアンは既知の表現手法と政治的姿勢を切り離さざるを得なかった。いわば『Ten Thousands Waves』はジュリアン自身の、中国を巡る長旅の個人的な道程記録のようなものである。

映像作品を制作する作家として、彼が最初に行ったことは時代劇であるカンフー映画の映像、共和国時代の古典作品、ガイド映像、ドキュメンタリーや歴史といった資料映像といった様々な映像が混然とした、中国に関連した「レディメイド」のイメージと向き合うことであった。それらを一度それぞれの要素にわけて、再度これらレディメイドの映像を並べ直し、自分自身の物語に仕立てている。中国文化の表象の、さらに表象として最終的に出来上がった映像作品はジュリアン自身と彼が中国で出会った協力者たちとの間の長期間に渡る対話の所産である。

登場人物であるマズーの流れるようなドレス、古き時代の上海で着られていたチャイナドレス、魅惑的な屋上から夜のジンマオタワーのイメージなどを含む『Ten Thousands Waves』は、ジュリアンが過去数年間にわたり行なった中国の美しい旅の記録であるが、この記録の奥底には決してほどけないもつれが存在する。
 


Installation view of TEN THOUSAND WAVES (2010) at ShanghArt Gallery, Shanghai, 2010.

専門家たちが観る場合、この過剰にも思える中国の美化された視点が危険であることは明白であるが、これは実際には核心的な問題ではない。ジュリアンの作品は彼が「観客精神」という考え方を自覚していること、またそれに対する懸念が見て取れる。この観客精神は作品自体と展覧会という行為を巻き込むメカニズムを操作することに関連しており、行為や演技、映画、劇場、そしてリハーサルといった事柄と結びついている。『Ten Thousand Waves』のインスタレーションに足を踏み入れると、観客はまるで迷路に迷い込んだような気持ちになるかもしれない。この迷路のような場所はジュリアンのマルチチャンネルビデオプロジェクションの配置によって創り出されたもので、フィルム編集の境界の再定義として捉えることができる。ジュリアンのこの再定義はフランスの映画評論家、および理論家であるアンドレ・バザンが言うところの文字通り「時間の空間的広がり」と「空間の解放」に基づくものと言え、これを極めて直接的かつカジュアルに実現したものに見える。しかしながら、さらに問う必要があるのは、この実現で何が失われたかということであろう。この実現の手法は過度に単純化しているか、そう見えるだけなのだろうか?
 
実際、観客個々の体が潜在的なカメラと化して『Ten Thousand Waves』を観る際、彼らは作品を凝視することによって、自分自身の興奮と物語を構築することになるだろう。従って、違う人々が違う位置に立ち、違う視点で作品をみることで、観るものごとに全く違う解釈に分かれていくであろう。ここで、ある作品が今日大衆的な展覧会の戦略を使う際、-つまり展覧会場において個々の動きと観客の凝視に併せた空間を編集することをゆだね、また観客を観客自身の映画の編集者に仕立て上げるといった戦略-、意図された開放と意味の多様性がとてつもなく安っぽいものにならないだろうか、という疑問が生ずる。
 
この迷宮化された映像空間において、人々が個々に体験する映像作品は、希薄で不完全なものである。しかしながら、アーティストがこの空間を設置した際、彼は無数の旅-しかもそのひとつひとつは地図上に提供された別の選択肢としての旅-をすべてをカバーする地図を故意に作り上げたように見える。単純に、観客それぞれの経験をアーティストの頭の中の作品と関係させる、つまり地図に関係のある旅なのである。しかしながら、この地図はアプリオリでもなく、公的領域でもない。この非直線的な場所において、観客によって経験された作品は無数の各々の認識からまとめられている。おそらく、このように考えることできるだろう。アーティストの作品は触れてはいけない幻想なのか? また他の異なる観点ではこうも言えよう。ジュリアンのマルチスクリーンという手法が劇的に我々の認識密度を高めるものにも関わらず、作品が観客に開放されているのは不可避である。さらに重要な点はこうした種類のマルチスクリーンは、混然とした視覚的なシナリオが我々の日常生活の典型的な知覚伝達状態である一方で、異常なまでに制度化された映画の固定された視点とも言える。我々の視覚および感覚経験は展覧会の視覚装置や映画などに負っており、ジュリアンの非直線的なマルチスクリーン映画といったインスタレーションの手法を一時的とはいえ視覚的な解放に導くものである。


Installation view of TEN THOUSAND WAVES (2010) at ShanghArt Gallery, Shanghai, 2010.

『Ten Thousand Waves』には、すでに名の知られた上海在住のアーティスト、楊福東(ヤン・フードン)が俳優として登場する。ここでも、楊の演技を中国美術業界との対話構築のために使う、ジュリアンの意図を感じる。ジュリアンは楊の『Dawn Mist, Separation Faith』(2009)を初めて見たときの興奮を語っていた。「私たちは展示空間の現場で映写機と映写技師を見ただけではなく、あらゆる種類の演技と舞台装置を見たのだ。それはあたかもリハーサルを見ているように感じた。楊福東の作品は、テイクごとに結果が少しずつ違うため、即興でありながらカメラの前で演出しており、つまり撮影それ自体の環境や状況といったものと密接に関係しているものと私は理解している。さらに最後にはこれらのテイクからひとつの場面を選んでいる、したがって、この製作過程はある意味リハーサルという形をとっていると言えよう」

現実に、ジュリアンが『Ten Thousand Waves』において、楊が頻繁に使用しているイメージの手法を借用しているが、これらのイメージを使用する背景にある彼の故意性は、楊のそれとは正反対のものだ。異なった中国様式の映画を描きながら、ジュリアンは歴史的なイメージの流用を通じて、徐々に中国にアプローチができることを希望している。一方で楊は、中国的なものと距離をもってることを強調している。楊はおぼろげで、混然する、互いに切り取られた時間の共時性に踏み込むことによって、現在の中国からは身を引いている。

いずれの場合も、双方のアーティストの作品とも、定義できず、開いた状況を持っており、映画の最終プレゼンテーションからスタジオ製作の条件までの逆転、つまり映画製作の完成への道の真逆を呈示している。

これについて、ジュリアンは『「Ten Thousand Waves」の構成は映画製作用の機材、映画のスタジオそれ自体、さらには参加者や撮影場所に見に来た人々すべてが非常に重要である。なぜなら、もちろん観客は撮影場所でなにかが起こるのを期待していて、それがある種の緊張感を生むからである。いかに観客が空間の中で訓練し、作品が美術的なイベントとして観られたかということがこの作品である」と語っている。

アイザック・ジュリアンの『Ten Thousand Waves』は上海のシャンアート・ギャラリーで2010年5月21日から6月20日まで展示上映された。シドニービエンナーレにおいても8月1日まで上映されている。今後、ロンドン、ヘイワードギャラリーで2010年10月13日から2011年1月9日まで行なわれるグループ展『Move: Choreographing You』にて公開される予定。ロンドンのヴィクトリア・ミロギャラリーでは10月7日から11月6日までアイザック・ジュリアンの個展を開催する。『Ten Thousand Waves』の写真作品が展示される予定である。

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高士明は杭州にある中国美術学院の芸術人文学院の副校長で、2010年に行なわれる第8回上海ビエンナーレ『リハーサル』のキュレーター。上海ビエンナーレは2010年10年23日から2011年2月28日まで開催される。過去にキュレーションした展覧会に第3回広州トリエンナーレ『Farewell to Post-Colonialism』など。

All images: Photo Adrian Zhou, courtesy of Isaac Julien and ShanghArt Gallery, Shanghai.


アイザック・ジュリアン インタビュー(1)

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