キムスージャ インタビュー (2)

いくつもの収束点
インタビュー/アンドリュー・マークル

II. 鏡 – 空虚 – 他者
キムスージャ、非行動のパフォーマンスについて


Deductive Object (1997), used Korean bed covers, used clothing, bundle, 46.99 x 66.04 x 67.945 cm; fabric, 389.89 x 288.925 cm; as an installation, 46.99 x 389.89 x 288.925 cm. Installation at Akira Ikeda Gallery, Nagoya. All images: Courtesy of Kimsooja Studio.

ART iT あなたの作品はしばしば場所の置き換えという文脈で語られます。実際、あなたの作品が戻る場所、もしくは帰る場所はあるのでしょうか?

キムスージャ(以下KS) 私は自宅やスタジオの外、特に旅先で作品を作ることが多いです。作品そのものが「帰る場所」はありません。移動する度に文脈が変わります。たとえ同じパフォーマンスでも、インドで展示するときと、ペルーやケニアで展示するときとで全く違うものになります。それぞれの国の人と違う繋がりができますし、それぞれ違う関連性や議論が生まれます。
場所の置き換えを取り上げるつもりは特にないのですが、ひとつの場所からまた別の場所へと常に移動しているとそのように映ります。また、場所の置き換えという概念はボタリ[包み]を作ること自体に含まれています。記憶、歴史、社会を包み込む物としてボタリは時と空間、文化、社会、性別のあらゆる概念をひとつにまとめています。しかし同時に、ボタリは布製なので一種のペインティングと言えますし、結ぶと彫刻になります。
ボタリの作品を作るきっかけとなったのはこの造形的な側面でした。そして1993年、ニューヨークのPS 1でのレジデンスから韓国に戻ったときに私の関心はもっと個人的、社会的、文化的な問題に向かっていきました。自分の国の文化や社会を別の視点から見ることができるようになり、作品の造形的な側面を補うことができるもうひとつの現実が生まれました。
ボタリにみられる場所の置き換えの概念は時間とも関係があります。ボタリは過去、現在、未来を全部一度に包み込むのです。ある意味、ボタリが表象するものは、同じくそれらの問題を包含する美術家の身体でも表象することができます。もしかしたら、それぞれの都市の特徴との自分の関係性を通してこういった問題を探っているのかもしれません。例えば、最初の『A Needle Woman』 (1999–2001)では世界中の大都市を訪れましたが、2005年の作品では主に危機的な状況に陥っている地域、例えば交戦地帯や政治・宗教を巡る争いが起こっている地域を訪れました。ハバナとリオデジャネイロはポストコロニアリズム、搾取や暴力の問題を探究するために訪れました。パタンにはカトマンドゥの内戦が起こっていた頃に行きましたが、実際、かなり危険な旅でした。アフガニスタンやイラクにも行きたかったのですが、あまりにも危険性が高くて、自分の命をかけてまで行きたいとは思えず諦めました。とにかく、当時はそういった象徴的な場所に関心を持っていました。


Top: Mind and the World (1991), thread, Chinese ink and acrylic on cloth, bamboo, 290 x 440 x 150 cm. Installation view at Gallery Hyundai, Seoul. Collection National Museum of Contemporary Art, Gwacheon. Bottom: Still from A Mirror Woman: The Sun & The Moon (2008), four-channel video projection, 12 min 33 sec, sound. Commissioned by Shiseido Foundation, Tokyo.

ART iT ボタリと身体との類似点についてお聞きしますが、あなたの作品における「姿勢」に興味を惹かれます。ひとつの姿勢を保ってじっと立ったり座ったりするのはとても難しいことで、そのためには身体が殆ど建築的と言っていいほどの特徴を持つ必要があります。これまで考察されてきた中に姿勢も含まれるのでしょうか? 身体そのものだけではなく、身体をどのようにして支えたり寝かせたりするかということです。

KS じっと立っているということも制作行為のひとつです。渋谷で最初のパフォーマンスを行なったとき、じっと立っている方法、呼吸をして地に足をつけて重心を保つ方法をすぐその場で覚えなければなりませんでした。瞑想やヨガの経験はありませんでしたが、そのパフォーマンスの原動力となった衝動のおかげで独学で習得を始めることができました。肩を動かさずにいるためには、腹式呼吸を覚えなければなりませんでした。重心を保つためには、しっかりと身体を堅くして立つ必要がありましたが、それと同時に、パフォーマンスを行なっていた30分間もの間、ちゃんと血の循環を保つ必要もありました。なかなか難しいことです。頭の力を抜いて、左脚の力を抜いて、両足の力を抜いて、と自分に指示を出さなければなりませんでした。そうして自分の身体をコントロールする方法を覚えました。振り返ってみると、確かにあなたの言うとおり、私は人体を建築的な要素として捉えているのだと思います。自分自身と自分の身体とを同一のものと考えずに、とても客観的に捉えています。
立っているパフォーマンスという概念は、欧米によく見られる、自分自身を積極的にさらけ出すようなパフォーマンスに対する反応から発展したという側面もあります。私はそのことを強く意識していましたし、むしろ何もしないことによってより多くを表現するパフォーマンスを作りたいと考えていました。

ART iT 中国の思想には「無為」[wu-wei]、つまり行動を起こさない行為、作為のない自然な行為、あるいは非表現や非行動とも呼べる概念があります。美術の文脈においてこの概念をより深く追求するのは非常に興味深いことだと思います。

KS 私の作品においては、非表現のパフォーマンスはある意味、他者を理解するためのバロメーターを作ります。『A Needle Woman』では、観客は非表現または非行動の同じパフォーマンスがいろんな都市で行なわれているのを見て、それぞれの都市の人々の行動やそれぞれの風景の明白な違いを認識するようになります。ある時点に達すると観客は私自身の像を忘れ、代わりに私の目に見えているものが見えてきます。そうして私の身体は、それぞれの場所を観客がより深く体験できるように媒介する役割を担うようになります。もし私自身は映さず、都市の風景と現地の人々だけを映したとしたら、全く違う作品になるはずです。観客にとっての作品への入口がなくなります。

ART iT では、あなたは針と布との両方だと言えるのでしょうか?

KS そうですね、私に言わせると、針とボタリとの両方というところですね。私の作品と頭と身体の中で布を広げたり畳んだりするような過程が起きているわけですが、私の視線、そして私の身体と周りの人との関係性を通して、いろんな社会や文化を縫い合わせていく針という側面も現れます。私の身体は時と空間とのひとつの軸となります。ただし、最初の『A Needle Woman』はリアルタイムで撮影したので、時間軸よりも空間軸の方が強く表れています。ふたつめの作品はスローモーションで撮影したので時間軸の比較が強調されています。スローモーションで動く人々は私の身体とより繊細に、あるいはより個人的に関わっているように映りますが、それと同時にゼロの地点としての私の身体は拡張されたゼロとなります。時間とは何か? その問題について考えてきました。

ART iT まるでいくつもの鏡を作っているようですね。

KS その鏡は布、つまりキャンバスを代替しているのではないかと思います。そして鏡は広げられた針でもあると考えています。それまでにいくつかのプロジェクトで鏡を使ってきましたが、2008年に東京の資生堂ギャラリーで『A Mirror Woman: The Sun & The Moon』という個展を開催したときに、私の作品のうち自然に関わるものはどれも布に関するテーマから展開していることに気が付きました。私にとって自然とは拡張された、もしくは広げられた自然——あるいは布——であり、人体は針の延長線上にあると言えます。針と布との関係性にまつわる全ては初期の作品と連関しています。実際、裁縫を取り入れた初期の作品を作るきっかけとなったのは、ペインティングに見られる鏡の要素でした。私は元々画家として活動していて、キャンバスの表面をどのように扱うか常に考えていました。美術家として活動するということは、キャンバスの上を彷徨って新しい表現法の中に映し出された自分の姿を探し求めることではないかと思います。鏡という概念と自分のアイデンティティの探求とは、違う材質や方法論を通して変貌しつつも、私の作品の中に最初からありました。

ART iT これまで何世紀にも渡って向き合ってきた、そしてこれから先も向き合い続けることになる大きな問題のひとつに他者との関わり方が挙げられます。あなたの他者との関わり方は、自己ではなく他者の立場に自分を置くことと言えるのでしょうか?

KS 全くその通りですね。面白い捉え方です。美術家の中心的な題材はいつだって自己と他者です。キャンバスと向き合うということは、他者をどう扱うか、そして自分自身をどのようにして投影するかについて考えるということでもあります。でも私はその問題を他者とのコミュニケーションや、他者を受け入れて一種の同一性を見つけるということも含むように拡張させたいのです。これは最終的には誰もが向き合うことになる問題でもあります。


Both: Still from Thread Routes – Chapter 1 (2010), 16mm film transferred to HD format, 29 min 31 sec, sound.

ART iT そして今は「Thread Routes」(2010– )という新たなプロジェクトに取り組んでいます。最後に、このプロジェクトは過去の作品とどのように関係しているか聞かせてください。

KS 『A Needle Woman』と比べると、今回のプロジェクトは糸の話と言えます。テキスタイルを織ること、レース編み、こねることや紡ぐこと——どれも糸に関する行動です——に焦点をあてて、世界各地の建築における地理的・文化的な文脈と対比させています。ブリュージュを訪れたときにプロジェクトの着想を得ました。路上でレース編みをしている女性たちを見て、直ちに建築の実践的な活動を連想したことがきっかけとなりました。でもプロジェクト自体はペルーであらゆる織物グループの活動と、その国の自然の構造や建築・遺跡とを並置したことから始まりました。映像は16ミリフィルムで撮影しました。最終版は30分近くの長さになっています。
「Thread Routes」はある意味、回顧的なプロジェクトとも言えます。これからマリで続けて、その次はインドのとある地域に向かいます。その地域の丸い鏡で装飾した土の家は、インドのミラーワークを施した布にも繋がります。また、四川省の少数民族とも仕事をする予定ですが、プリーツスカートの独特な民族衣装はその地域の段々畑や民家の伝統建築と強く関係しているように思えます。そして日本の伝統的な石庭の手入れもまた織物と関連しているように思えます。他にはヴェネツィア、ブリュージュ、バルセロナ、そしてグラナダにも行く予定で、更に、現地の布の文化と結び付けることのできる、とても装飾的な建築要素が見られる中東の国も訪ねようと思っています。そういうわけで、この先二・三年ほどはこのプロジェクトを中心に活動します。
もうひとつ、アメリカ政府の共通役務庁からの依頼で、アリゾナ州のメキシコとアメリカとの間の国境でのサイトスペシフィックなプロジェクトを手がけています。アメリカに入国するときの最初のゲートの真上にLEDスクリーンを設置して、マリポーサ・ランド入国港における移民関連や麻薬密売と、それらにまつわる政治問題や暴力を取り上げるビデオ作品を作っているところです。ここもまた、とてもデリケートで脆弱な場所と言えるでしょう。

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第11号 地域性

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