ミカリーン・トーマス インタビュー

具象と抽象の統合に向けて
インタビュー/アンドリュー・マークル


Mama Bush: One of a Kind Two (2009), acrylic, rhinestone and enamel on wood panel, approx 274 x 366 cm. All images: Unless otherwise noted, courtesy Mickalene Thomas Studio.

ART iT あなたの作品では、黒人女性のイメージが1970年代のブラックスプロイテーション映画のビジュアルと歴史的なヨーロッパ絵画のコンポジションとの両方を想起させるかたちで登場します。現代において黒人であることにまつわるイメージを使うということは、必然的に黒人のアイデンティティを題材としているということでしょうか?

ミカリーン・トーマス(以下MT) 作品を作るときには、それが必ずしも特定の文化の、あるいは人種のアイデンティティを表すものとは考えていません。インスピレーションのひとつでもあるかもしれませんが、どちらかと言えば私自身のアイデンティティの延長線上にあるものです。アフリカ系アメリカ人の美術家が自らのアイデンティティになんらかの形で関わる作品を作ると、その枠組みの中だけで捉えられてしまう傾向があります。でも、個人的には私の作品にも普遍的な要素があるのではないかと思います。人間としての精神に語り掛ける、誰でも馴染みのあるような関係性がそこにあると思いたいです。それは私にとっては、現代の文化的アイデンティティの概念よりも絵画や美術史について考えることに帰結していきます。
作品を作るときには、第一にペインティング制作の造形的な側面を通したアプローチをとりますし、最終的に出来上がる作品もまたペインティングを念頭に置いたものとなります。でも、黒人の身体を作品に取り入れるのは、それらが通常見られないような、あるいは語られないような文脈に置くことによって、西洋における美の観念との比較を可能にすることができるからです。私の知る限りでは、西洋美術史における黒人女性のイメージとは大方、他の人に仕える立場にあるものか、もしくは人類学的な視点から捉えられたものばかりです。言い換えると、西洋美術史上の美の概念の原型的な探求には見られません。そういった、美しいとされ自己に関わるイメージには昔から興味がありました。そして私が作った作品で人のイメージの見方を刺激し、それらの考え方を変えられるかどうかということに関心を持ちました。ステレオタイプのレベルだけでなく、例えばそれらを完全に消去して観客自身のイメージの捉え方を挑戦するということです。だから結局いつも西洋美術の様式をペインティングを作るときのメカニズムとして利用することに戻っていくのだと思います。そうすると、黒人の身体を挿入すると既存のものとの関係性が生まれます。

ART iT 日本人メディアアーティストの森村泰昌の作品はご存知でしょうか? 森村の『美術史の娘』の写真作品シリーズもまた、西洋美術の名作を基に作品制作を行なっています。。あなた方おふたりがされていることには重なる部分があると思いますが、最終的にできる作品は明らかに異なります。

MT 彼の作品のことは知っていますが、きちんと見たことはありません。マネが日本の木版画に影響されたことは知っています。色彩の使い方や画面の使い方、風景画の構成などに見られますね。そのことはとても強く意識しています。他の人の作品を見るときには、作品のみに留まらず、参照されているものも見ています。
でも、森村泰昌の作品を見るときに私自身の作品との類似点について特に考えたことはありませんでした。面白い比較ですし、作品をもっと見てみたいと思います。しかし、マティスがマネの作品に目を向けたように、お互いから発展し何か新しいものを作る方法を探るためにお互いを利用する美術家が大勢いるのは間違いありません。


Both: Oh Mickey (2008), DVD and framed monitor, rhinestones, acrylic and enamel on wood panel, diptych, approx 81 x 127 x 14 cm (framed monitor) and 122 x 91 x 5 cm (painting).

ART iT  あなたと森村泰昌に関しては、私にとって、どちらもただ単に異人種の身体を西洋美術の名作に挿入するというアイディアだけでなく、作品を作るプロセスに関することも興味深いです。精巧なセットを作って撮影し、写真を基に作品を作る過程では、各々のイメージがパフォーマンス、あるいはパフォーマンスのドキュメントとなります。

MT 森村泰昌の作品は、私の作品よりもパフォーマティブではないかと思います。でも私の作品にもパフォーマンスの要素があることには間違いありません。自分の空間を作り、それを直接見てその空間の一部になりたいのです。モデルと仕事をするときにはアートディレクターのようなものになり、スタイリストやメイクアップアーティスト、照明デザイナーにも関わってもらっています。コラボレーションから成るプロダクションで、モデルたちも私自身が必ずしも作品に持ち込めない何かを提供してくれます。本当にエキサイティングなことです。
空間の概念やモデルとの仕事の仕方をより発展させることができるという点でパフォーマンスに興味を持っています。そこに何かもっと深く追求できるものがあるのではないかと思っています。そのために、モデルを撮影する様子をビデオで記録する『Ain’t I a Woman』シリーズを始めました。スチル写真やペインティングでは何かを失っていて、それをビデオでなら捉えることができるのではないかと思ったのです。私の場合、パフォーマンスの要素は作品を見る人にそこで起こっていることの全ての側面を見てもらいたいという気持ちから生まれています。

ART iT そのビデオは撮影中にモデルたちが経験する自信と脆弱性との間の推移を捉えていますが、写真はひとつの瞬間だけを捉えます。

MT そうですね。モデルたちは自らの中に果断な行動を見出すことができる瞬間がありますが、それは脆弱性にも、撮影されたい角度を分かっているという自信にも生み出せるものです。そういった微妙な瞬間こそが、写真で捉えたくても必ずしも捉えられないものではないかと思います。
実は、[コネチカット州ニューヘーブン市の]イェール大学での大学院時代には今よりもっとパフォーマンスをやっていて、「クワニカ」という名前をつけた人物として仮装をしました。1970年代後半のニュージャージー州に育ち——もしかしたらブラック・パンサー運動やマーカス・ガーベイのアフリカ回帰運動からインスピレーションを得た発想かもしれませんが——「アフリカらしい」名前を持つことによって自分自身を取り戻す必要性のようなものが常に感じられました。従兄弟も家族もみんな自分で考えた、アフリカ中心の思想に基づいた聞き慣れない響きの「アフリカらしい」名前を名乗りました。実家に帰ると、今でも一部の従兄弟にはクワニカと呼ばれます。
では、クワニカとは一体誰なのでしょう? ニュージャージー南部のカムデンで育ち、今はエールに通っているという、実在する人として仕立て上げました。外見については、彼女はニューヘーブンの地元民なのかどうかという基準がありました。当時、町と大学との間で一種の分裂があり、イェールにいたアフリカ系アメリカ人の大半は職員だったので、学生はいつも学生証を提示させられるなど、大学の関係者であることを証明させられました。
それで地元民の格好をしたクワニカがイェールに通学するというパフォーマンスのプロジェクトを行うことに決めました。それまでよりもずっと頻繁に引き止められましたし、かつらやイヤリングや付け爪といったコスチュームを見にまとっていたので美術学部の同級生の多くも私が誰か分からなかったようです。なかなかの経験でした。当時はシンディ・シャーマンを意識していて、誰か別の人として見られたり、自分が誰なのかということではなく外見や着ている服に反応されたりすることに表される変身の瞬間や、その経験を中心に紡ぐことのできる物語というものに興味がありました。そしてその物語はエール在学中に制作した写真シリーズというかたちをとりました。


Left: Negress (2001/05), C-print, approx 122 x 109 cm. Right: Negress 4 (2001/05), C-print, dimensions not available.

ART iT 最初は大学で抽象的な作品を作っていたということを読みました。なぜ抽象作品から離れて人物を取り入れた表現やポートレート作品を追求することに決めたのでしょうか?

MT [ニューヨークの]プラット・インスティテュートの学部生だった頃は人物を描くことがあまり上手ではないという意識があって、人物画の授業はいつも避けていました。ブライス・マーデン、テリー・ウィンタース、アグネス・マーティンといった画家に関心を寄せていました。でもイェールに進学すると、なぜ抽象的な作品を作っているのか、そしてそれが私にとって本当はどのような意味を持っているのかについて問題を提起されました。私には、自分の作品をペインティングとして語ること以外に正当化する方法が分かりませんでした。
テキストを使いながら抽象的な作品の制作を続けられるのではないかと思い、色彩、フォルム、表象にまつわる一切を排除したテキストペインティングの作品を実験的に作り始めました。
次第に、人物を取り入れる必要性を感じるようになりました。そのため、イェール在学中にはスタジオで二種類の作品を作っていました。一部は具象的、一部は抽象的で、その二種類の作風をどうにかして統合させる方法はないものかと模索していました。ゆっくり、段々と実現に近づいています。というのも、現在の作品から人物を除くと抽象的な要素があるとはいえど、まだ統合できてはいないと思います。だから作品を作り続けているのです。私には、抽象表現の方がずっと自由でコンセプチュアルな遊び心があるように感じられます。また、抽象とは何か、表現主義とは何か、コンセプチュアルな論理とは何かといったことへの人々の理解を挑戦することも好きです。
その後、いろんな美術家が人物をいろんなかたちで使っていることに反応するようになりました。ゲイリー・ヒュームの作品を見て、フォルムと色彩を中心とし人物像を抽象的に使っていることや、カラ・ウォーカーの人物の使い方に特に感心したことを覚えています。カラ・ウォーカーのドローイングは本当に完璧で、ドローイングを理解しているからこそ切り抜きのシルエットを透視画法による空間に置けるのだと思います。彼女は何よりもコンセプチュアルな製図技師と言えます。抽象化は私の十八番です。抽象化の使い方は分かっていますし、私のルーツはそこにあると感じ理解しているとも思っています。
人物を導入したことは、大学院生としての私の作品についての批評的な会話から派生したと言えます。若い黒人女性であるあなたは、なぜこういった概念を取り上げているのか? どうやって統合させるのか? 別に黒人であることに関わる作品を期待されていたというわけではなく、なぜ私個人がそんなに抽象表現に捕らわれているのか知りたかったのでしょう。それでこの二種類の表現法を統合させたいと思っているのです。


Top: Black Cock, Black Bitch (2000). Bottom left: Untitled (2000). Bottom right: Untitled (2000).

ART iT クワニカの実験があなたを人物を使った表現に導いたと言えるのでしょうか?

MT そうですね、それと私自身と母とを撮影したことがきっかけとなりました。その頃、黒人男性の男性性や黒人女性のセクシュアリティに関するシンボルやそれらを指し示すものをペインティングの中でグラフィックなイメージを組み合わせて使い始めていて、例えば、雄鶏と雌のアメリカンピットブルテリアとを描いたグリッターペインティングで「ブラックコック」[黒い雄鶏/黒人の男性器]と「ブラックビッチ」[黒い雌犬/黒人女性]を組み合わせた視覚記号論的な作品を作りました。イメージとスラングの言葉遊びを作品に取り入れていて、それが抽象化と言葉とを使うコンセプチュアルな手法となりました。その頃はメル・ボックナーの作品に注目していて、グレン・ライゴンも、こういったイメージを高圧的にならずに、無理強いをせずに作るにはどうすればいいか理解するという点で多大な影響を受けました。そしてそこに写真を導入した時点で更に新たなかたちと特定性が生まれました。

ART iT 抽象化の歴史に興味があるとのことでしたが、実際に作品を拝見するまで近作がいかに大きいか気付いていませんでした。どのような経緯でそれほど大きなスケールで作品を作るようになったのでしょうか? これはマッチョなペインターという概念への反応なのでしょうか? それとも、どちらかと言えば題材自体が要求することが原動力となっているということなのでしょうか?

MT どちらもあると思います。大きなペインティングを作ることができる自信の誇示のようなものは確かにあります。男子的なことですね。そういう、男性的な「あいつらはやったんだから、俺だってできるだろう? どうやってやろう?」という発想は結構好きです。
最初は小さなスケールで制作していましたが、構図の面で限界を強いられるように感じました。絵画の空間について考え始めて、作品の平面的なグラフィカルな空間をより複雑な立体的な空間へと変える方法――平面と遠近法とを使う方法を探りました。いわゆるペインターによるペインティングを作りたいという願望、絵の具で描かれた表面とその鑑賞者との関係性というクレメント・グリーンバーグ的なことへの願望が常にあります。作品の寸法は、そのペインティングがどのように見られどのような意味を持つかを決める重要な要素だと思います。大きな作品を作るためにはあらゆる関係性に対処する必要があるので面白いです。つまり、全ての構成要素を理解しペインティングの中で活かそうとする奮闘があります。
小さな作品を作るときには、大抵、あまりにも早く完成図が浮かんでしまうので、実験をする余裕がありません。ある一定の大きさの作品を制作していると、次第に実際にやる前に何が起こるか分かるようになってしまって、自分のやり方をよく理解しすぎていると感じて違う方法を考えることに決めました。きっと、私自身のための挑戦なのでしょう。もちろん、マルチパネルのポートレート作品のように、小さい方がうまくいく作品もあります。それらは多分、その空間に収まったグラフィカルなイメージであり、そこに意味があるからその寸法でよいのだと思います。
でも、スタジオでペインティングと奮闘していて、なかなかうまくいかなくて4、5回は一旦離れる必要があるという状況が大好きなのです。例えばジャスパー・ジョーンズの作品や個人的に共鳴するイメージを見て学んだのですが、そういったペインティングの前に立って感じることこそが、私自身のペインティングを前にした人に感じてもらいたいことなのです。


Installation view of “Mickalene Thomas – One of a Kind Two” at the Hara Museum of Contemporary Art, Tokyo, 2011. Photo Keizo Kioku, courtesy the artist and Hara Museum of Contemporary Art.

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