アイザック・ジュリアン インタビュー   (3)

(3) 人を見る目

オリエンタリズムへの賭けと政治化された美学について


Cover Image: Green Screen Goddess (Ten Thousand Waves) (2010), Endura Ultra photograph, 180 x 240 cm. Courtesy of Isaac Julien, ShanghArt Gallery, Shanghai, and Victoria Miro Gallery, London.

王修雨

時間がない
妻と愛を交わすための

時間がない
息子の成長を観るための

時間がない
母に食事させるための

『Ten Thousand Waves』のための王屏 “Small Boats”から抜粋

ART iT 『Ten Thousand Waves』には、モーカム湾惨事に関する香港のドキュメンタリー素材が挿入されたことについて話しましたが、あの部分は短かったので、とても心を打ったし、映画からビデオへというテクスチャーのシフトがあり、素晴らしい風景から日常生活の内部へという組み合わせもありました。観たと思ったら消えてしまったリアリズムの作品への導入でした。

IJ その通りです。警察のビデオとドキュメンタリーという現実の素材を利用していますが、単なる現実ではなく、より広義の状況を描こうとしているのです。何人かの中国人文化研究者と話しましたが、彼らはインディペンデントのドキュメンタリー映画分野で起きていることに大変に関心があり、現在、中国映画界で起きているいちばん興味深い動きだと語っていました。私もそれには関心がありますが、そのアプローチではできることは限られているでしょう。私の美学はリアリズムと関係なく、思想や政治を表現することです。作品は浄化することによって政治的問題を詩的に演出したり、瞑想したりしているのです。

ART iT その一方でオリエンタリズムの亡霊もうかがえ、表現したものがオリジナルからまったく違った、客観化したものになっています。この点は懸念していましたか。

IJ もちろん懸念はしていましたが、私の作品が「オリエンタリズムの亡霊」と関係があるとは思いません。私のイメージは福建省の伝説を使ったという事実に関連しています。今でも崇拝されている媽祖を想起させることで、福建省の人たちが空間と時間をどのように移動したかという歴史と対話できたと思います。歴史を見れば、モーカム湾の悲劇は数多い悲劇のひとつに過ぎないし、媽祖が救えなかった漁師はたくさんいたことでしょう。従って、作品の最後で神女がクロマキーのセットにいることを暴露して、神秘をいわば脱構築理論化したわけです。つまりメタな物語のレベルで創作し、政治的発言をするためにファンタジーを利用しているわけです。より政治的に現実主義的戦略を用いた方が、より適切だと思う人もいるかもしれません。でも、私はこれらのイメージがドキュメンタリーでもフィクションでも、構築されているととらえています。すべて特定の観点を作り出しているからです。ひとつはドキュメンタリー、もうひとつはより様式化した形ですが。様式化した叙事詩的な形式で、特定の政治的問題を取り上げようとしている点が変わっているのかもしれませんが、これは私が意図的に不協和を醸し出しているからです。色々な素材や映画的テクスチャーをファンタジー要素と一緒に寄せ集めることで、私の作品は誇張、神秘や伝説の領域に属するようになっているのです。


Installation view of TEN THOUSAND WAVES (2010) at ShanghArt Gallery, Shanghai, 2010. Nine-screen installation, 35mm film transferred to High Definition, 9.2 surround sound, 49 min 41 sec. Photo Adrian Zhou, courtesy of Isaac Julien and ShanghArt Gallery, Shanghai.

ART iT マシュー・バーニーの『Drawing Restraint 9』を観たことがありますか?日本で撮影し、典型的に「日本的」なイメージをたくさん利用していましたが、あの作品と類似点があると思いますか?

IJ マシューがしていることはとても面白いけれど、彼の作品と比較しようとは思いません。私のプロジェクトはまったく異なります。マシューはアジアに影響されている西欧のアーティストという長い伝統から来ています。私ももちろん、そうですが。違うのは、その影響を美的に注目させる彼の手法には、とても遊び心があるという点です。例えばポップスターのビョークを連れて行き、アジア人の衣装を着せます。『Ten Thousand Wave』のようなプロジェクトは、マシューの目的と異なった美的アプローチをしており、異なった解釈をしなくてはいけません。マシューは伝統に対して大変、皮肉な考えを示していますが、私の『Ten Thousand Wave』のような作品は、もっと評論的なものです。マシューより、もっと慎重かつ注意深い方法で「侵入」しなくてはなりません。だから、女優の趙濤やマギー・チャンに出演してもらい、より誠実な対話をしようとしたのです。
マシューのようなアプローチは、ビョークがポップスターだから、より安全に見えるという点は指摘しておきたい。ファッションや広告のコードでは、このように侵入して、コメントしても受け入れられやすいのです。より共生的な協調による制作手法によって、中国文化を表現する方が私にとっては好ましい。もちろん、こういう補償的なアプローチでも、特定の美的コードとジャンルの操作を伴いますが。

ART iT 海外で作品制作する場合、どれくらい侵入できるか躊躇することはありますか。それともできるだけ侵入することが目的なのでしょうか。

IJ 私は挑発するために侵入という言葉を使いましたが、微妙なニュアンスがあります。というのも、カメラで何かを撮影するという事実自体、ビジュアル的に侵入をしていることになるからです。つまり、私は常に表現という問題に取り組んでいるのです。それが「ポストコロニアル的表現」と言われようとも。イメージは「私の」ものではありません。折り合いをつけることが大事です。内容は何か。政治的問題は何か。地理を超越してあるビジュアルの美的会話は何か。
我々は皆、そうしていますが、これは一部の人にとっては大変なリスクを伴います。私がアーティストとしてとるリスクは、不法に越境する人たちに比べればまったく何でもありません。『Ten Thousand Waves』のような作品に伴うステレオタイプの概念について考える時、同一視を超越するために思い起こさせる特定の比喩はあります。広西チワン族自治区の『アバター』のような景色を撮影すれば、人々がどう思うかという点はもちろん、意識しています。オリエンタリズム的な景色だということもわかっています。大英博物館で媽祖の絵を観ましたので。信じられなく美しい絵です。でも重要なのはどのようにこういう表現をするかという点です。文化を超えた正式な美的交流だけでは、私には興味がありません。クエンティン・タランティーノのような人たちは特定の文化にカメラを向けてきました。しかし、これは娯楽ジャンルでの会話で、楽しく、「いけない」喜びを感じるわけです。でもアートにおいては別の意味を持つので、問題になるかも知れません。私はこういう問題について、真剣に議論を見直すことに興味があります。なぜなら、ポストコロニアリズムの評論家エドワード・サイードが『オリエンタリズム』の著者だったのですからね。
私が媽祖神話を再構造化する際には、特定の尊厳を維持したいのです。コラボレーションや俳優たちの演技との関係で尊厳を維持しています。だから、とてもエネルギッシュだし、精密でディテールが描かれているのです。中国人クルーと仕事し、趙濤が演技している時、北京語を話さない私には彼女の言っていることがわかりませんが、カメラマンが「これはとてもよい撮影ショットだった」と私に言うわけです。お互いに共通の関心事ですから。
つまり、アーティスト、特に映画監督はいつも文化に侵入し、通訳し、一緒に働いているわけで、そういう立場で調和と不協和の可能性を経験するわけです。美的相違点を基に、何かを表現するために中国文化に興味があるわけではありません。政治的に信用できないとうまくイメージはできません。


Both: Installation view of TEN THOUSAND WAVES (2010) at ShanghArt Gallery, Shanghai, 2010.

ART iT でもパフォーマンスや、振付師と協力して、抽象的または物語でない方法で思想を伝えることに関心があるのではないですか。

IJ 昨日のオープニングでは、作品を観ることだけでなく、会場の観客を観ることも重要でした。観客のスクリーンとの関わり方は或る種のダンスのようで、私には興味があり、上海でそれを目の当たりにすることはとても重要だったのです。私は『Move: Choreographing You』という展示に取り組んでいます。これは今年10月、ロンドンのヘイワード・ギャラリーで行われるもので、『Ten Thousand Waves』も展示されます。私がパラレルモンタージュと呼んでいるものは、視点の振り付けに関連しています。作品にはパフォーマンスという問題がありますが、それだけではなく、スクリーンが建物に設置され、人々がそのスペースでどうそれに対応するかという問題もあるわけです。やってきて座るだけの人たちもいることでしょう。疲れているのかもしれない。でも動くイメージを観る時、我々は一定のパターンに陥りがちだから、ギャラリーという場所で、そのパターンを切り崩そうとしているのです。
パフォーマンスという問題では、『Ten Thousand Waves』には一切、脚本がなかったから、全ての撮影ショットがリハーサルの映像ということができるという点でも面白い。

ART iT 一緒に仕事したマギー・チャンなどはウォン・カーウァイとよく仕事したことがあるから、そういう即興的なアプローチには慣れていたことでしょう。

IJ その通りです。ウォン・カーウァイは覚えていないと思いますが、彼とは会ったことがあります。彼の映画の中でも『楽園の瑕』 (1994)は大好きな作品です。カメラワークの振り付けの構造において、彼の代表的映画だと思います。今日のウォン・カーウァイとして知られる前の作品です。まったく意識的ではなくても特定の美的な戦略を持って制作している人たちの作品に私は興味があるのです。つまり、別に起きうる問題のひとつに、全てリハーサルし過ぎということがあります。そうなると、スタイルが沈滞して新鮮ではなくなってします。
マギー・チャンの『楽園の瑕』でのイメージが、『Ten Thousand Waves』の媽祖の役にとても似ている点は否定できません。特定の引用句があり、マギーのような俳優と仕事すると、過去の演技に関連している映画、実績が一緒に伴ってくることになるわけです。


Installation view of TEN THOUSAND WAVES (2010) at ShanghArt Gallery, Shanghai, 2010.

ART iT メタな物語と言いましたが、移民問題が大きな政治的問題になっているという意味において、この作品は中国を舞台としたイギリスに関するものだと言えますか。

IJ まったくその通りです。イギリスにおける移民問題の議論で問題なのは、反対論者たちがこれから入国してくる人たちが問題であるようなふりをすることです。実際には長年、すでにイギリスで暮らしているというのに。だからポストコロニアルの視点が重要になるのです。大英帝国には古くからの関係があり、今、行われている議論はその関係を矮小化し、あざけるだけです。ロンドンが素晴らしいのは、国際都市であり、我々がアイデンティティーを忘れ、皆ロンドン人になれることです。ですから、『Ten Thousand Waves』はイギリスのことであり、中国のことでもある。私は黒人のロンドン人としてこれを制作しましたが、ロンドンのヘイワード・ギャラリーでの展覧会で展示することは、この議論への私の美的貢献となるわけです。

(翻訳 池原麻理子)

アイザック・ジュリアンの『Ten Thousand Waves』はシドニー・ビエンナーレで2010年8月1日まで展示中。その後、ロンドンのヘイワード・ギャラリーで2010年10月13日から2011年1月9日まで公開される。アイザック・ジュリアンの個展は10月7日から11月6日まで、ロンドンのヴィクトリア・ミロ・ギャラリーで開催され、『Ten Thousand Waves』の写真作品が展示される。

画像は特記がされているもの以外のクレジットは次の通り Photo Adrian Zhou, courtesy of Isaac Julien and ShanghArt Gallery, Shanghai.

アイザック・ジュリアン インタビュー
グローバルではなく、ローカルを繋げて

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