ドミニク・ゴンザレス=フォルステル エンリーケ・ビラ=マタスのための6つの部屋

目次

I. 扉の影の秘密

II. ダブリネスカ

III. 写字室の旅

IV. ダブリネスカ再訪——グーテンベルクの銀河系

V. パリは死なない

VI. めまい

ビラ=マタス読書リスト(簡略版)

I. 扉の影の秘密


Une Chambre en Ville (1996), carpet, local newspapers bought each day during the exhibition, telephone and telephone connection, mini TV monitor, radio-clock, artificial lighting system. Installation view, “Dominique Gonzalez-Foerster, Pierre Huyghe, Philippe Parreno” at ARC/Musée d’art moderne de la ville de Paris, 1998-99. Photo Marc Domage/TUTTI, © the artist, courtesy Jan Mot, Brussels, and Esther Schipper, Berlin.

エンリーケ・ビラ=マタスの本は、フィクションとノンフィクションとの間の境界線上に存在しています。そこにある全てのことが本当だと思えるように書かれているのです。

小説を書き始める前、ビラ=マタスは映画雑誌にインタビューや記事を寄稿する仕事をしていたのですが、そのインタビューの多くは自ら作り上げていました。例えば、ある映画監督をインタビューするはずなのに、実際に会うことができなかったとしたら、全部つくり上げてしまうのです。彼の文章にはマルセル・デュシャンやマルグリット・デュラスのような歴史上の人物との出会いが登場します。語り手がそうした人物に出会うとき、その振る舞いや話し方は非常に具体的に描写されていますが、それは多くの人が予期するであろう彼らの振る舞いや話し方と異なるものです。

ある日、ビラ=マタスとバルセロナのバーで飲んでいたとき、私は彼にフリッツ・ラングの映画『扉の影の秘密』を見たことがあるかと聞きました。ビラ=マタスはこう答えたのです。
「いや、見ていないけれど、フリッツ・ラングなら一度会ったことがあるよ」
それはサン・セバスチャンの映画祭でのことで——男性用のトイレで偶然会ったとか、そのような話でした。そのとき、私にはそれが本当にあったことなのか、その場で作り上げられたフィクションなのか判断できませんでした。

ビラ=マタスが書く文章には、フィクションであるにもかかわらず、説得力を与える要素がたくさん含まれています。それはW.G.ゼーバルトが小説に本当にあったことかどうかふと確認させるようなイメージを挿入するのとよく似ています。フィクションだと思っていたものが実際には現実のものかもしれない、でも著者自身による文章しか確認できる情報がないので確信は持てません。ビラ=マタスの場合、通りの名前、作者の名前、たくさんの名前が現れて、私たち読者はその文章は基本的に本当にあったことなのだと信じ込んでしまうのです。

II. ダブリネスカ


TH.2058 (2008), three reproduced sculptures (125 percent of original size) or six reproduced sculptures in original size, LED Screen, 229 shakedown beds, approx. 10.000 science-fiction books, sound, approx. 100 x 22 x 20 m. Installation view, Tate Modern. Photo Tate Photography, London, © the artist.

ビラ=マタスの最新刊、『Dublinesca』は退職して出版目録も閉鎖することに決めた出版人を中心としています。『Dublinesca』の話中で、その出版人が読んだことのある全ての本のうち、オーストリア人作家のペーター・ハントケの本が一番面白かったと語る場面があります。出版人は、その本にはあるカップルが会話をしていると、突然アメリカ人映画監督のジョン・フォードが現れて彼らに話しかけるというシーンがあることを思い起こします。出版人は、実在する人物がフィクションに介入したことが衝撃的だったと言うのです。

『Dublinesca』は私がビラ=マタスと知り合ってから、彼が書き始めて完成させた最初の本です。私は彼が本を書くプロセスを観察した、というよりも、プロセスの一部を追うことができたのです。例えば、もしビラ=マタスがどこかで講演をするならその経験が次の本のどこかに現れるかもしれないことは前から知っていました。でも今ではそれに加えて、ビラ=マタスが実際にしようと思っていることと小説に書こうと思っていること、あるいはするつもりで実際にはしなかったけれど小説には書いたこととの間で常に行ったり来たりしていることを、私自身が体験したことで知るようになりました。

例えば、2008年のテート・モダンのタービン・ホールでの私の展覧会『TH.2058』のカタログへのエッセイの寄稿の依頼のメールまでも『Dublinesca』の一部になっていたのです。件の出版人、つまりビラ=マタスに宛てて「ドミニク」という人からメールが届きます。私が送ったメールでは、展覧会のコンセプトにおける雨の重要性や黙示録的な雰囲気について説明しました。一方、小説ではこのメールが出版人の精神状態とリンクし、『Dublinesca』の世界で雨が止めどなく降り続きます。まるで私が展覧会のために思い描いた筋書きのように。

それでもこの本は日記ではありません。比較すると、日記は受動的なものとまで言えるかもしれません。ビラ=マタスが行っているのは、文章が生活に影響し生活が文章に影響する過激なことなのです。

III. 写字室の旅


chronotopes & dioramas (2009). Detail view, Dia at the Hispanic Society. Photo Cathy Carver, courtesy the artist and Esther Schipper, Berlin.

実生活への言及を通して作られた物語の筋書き、あるいは物語に発展するように作られた実生活の筋書きは、文筆についての深い知識と繋がっていなければつまらないものになってしまいます。ビラ=マタスにとって、自らの生活と物語の世界との間をこのように行き来することは、巨大な図書館としての世界の探検と必ず交わっているのです。『Dublinesca』ではジェイムズ・ジョイス、『パリは死なない』ではマルグリット・デュラス、そしてホルヘ・ルイス・ボルヘスなど他にも幾人かの作家に焦点をあてています。

『Dublinesca』のもう一人の主要登場人物はアメリカ人の作家、ポール・オースターです。ある場面では、主人公である出版人がオースターの自宅を訪ねます。これを読んで、私自身オースターの影響を色濃く受けていた1980年代後期の頃を思い出しました。当時、彼の本をもとに作品をひとつ作ってもいます。ビラ=マタスとオースターという二人の作家がこのように繋がっていることは個人的にとても興味深いことです。

オースターは今、複雑な局面を迎えています。最近出した『Travels in the Scriptorium』という本は、フィードバックループを思わせるかたちで過去の作品や登場人物に連結しています。ビラ=マタスの凄いところは、同じくループの中にいるとはいっても、それは生産的なループであるということです。彼は本当は一冊の本を書いていて、これまで発表している全ての本はそれぞれテーマが異なり——例えば、『バートルビーと仲間たち』は書けなくなった物書きについての小説で、逆に『パサベント博士』は読書中毒者についての小説です——単体で本として成立しながらも、実はひとつの壮大な作品の一部なのだというような気がします。

ビラ=マタスは私と文学とを再び繋いでくれました。まるでキュレーターのような人です。だから私には『Dublinesca』の主人公の出版人が特に重要な登場人物に思え、彼自身について多くのことを語っているように思えるのです。ビラ=マタスがゼーバルト、オースター、ロベルト・ボラーニョやフランツ・カフカについて書くと、その作家たちの本を読みたくなります。その中でもゼーバルトの作家としてのアプローチは、現在の多くの視覚芸術家のそれと重なります。つまり、特定の建築と特定の音楽とをリンクさせる非科学的な研究、不思議な発見に繋がる世界の直感的な研究というアプローチです。美術作品を作るプロセスには理解しづらい側面があります。たくさんの情報を収集し、学問を超えるかたちでその情報を消化しようとする様子は、機能しない機械を発明する狂気じみた人々さながらです。

IV. ダブリネスカ再訪——グーテンベルクの銀河系


RWF (Rainer Werner Fassbinder) (1993). Installation view, Hohenzollernring 74, Esther Schipper/Michael Krome, Köln. Photo Lothar Schnepf, courtesy Esther Schipper, Berlin.

ビラ=マタスやゼーバルトの作品、あるいはボルヘスの作品にまでも、現在のインターネットの仕組みと深く通じる文学の傾向が見られます。ボルヘスが今の情報の循環の仕方、「図書館としての世界」を思い描いた最初の人だという記事がいくつも書かれています。

これは『Dublinesca』でも登場します。私たちの印刷物との関係の変化に直面した出版人が「グーテンベルクの銀河系」の終焉に捧げる哀歌を作ろうかと考えるのです。ビラ=マタスがどこかで見つけてきた言葉なのか、自分で考えた造語なのかは知りませんが、ここで言う「グーテンベルク」とはもちろん最初の印刷所のことで、「銀河系」とは印刷の時代のことです。もうひとつ現れるテーマに「引きこもり」があります。テクノロジーに長けた「引きこもり」がバーチャルの世界を通して社会との関わりを持つ——つまり、自分の部屋の中だけの範囲内で旅をする登場人物です。『Dublinesca』では出版人が一種の「引きこもり」となりますが、過去2年間のうちにビラ=マタス自身がこの言葉を使うのを何度も聞いています。ビラ=マタスはこの本で初めてインターネット、ブログ、メールといった新しいメディアへの強い意識を表しています。これはビラ=マタスが自身のウェブサイトを小説に殆ど匹敵するレベルまで発展させたことと多少は関係があると思います。

そのようなわけで、文学の岐路の追求という、『バートルビーと仲間たち』や『モンターノの病気』などの作品に既に現れているテーマは、かつてないほどに明確になっています。実を言うと、私は彼の本を読む度に、文学に全く興味のない人が読んだら一体どのような体験になるか思いを巡らせるのです。きっと何一つ理解できない、何も知らない異国の地を訪れるのと似たような感じだと思います。彼の本を読むとそれは終わりのないプロセスだということがはっきり分かります。何かを読んでそこから引用して、それがまた誰か別の人の手に渡って、そのまま終わることなくずっと連鎖してゆくのです。ビラ=マタスは意味と出会いとの、ジョン・ケージとも似た雰囲気のランドスケープを創り出します。偶然性をもとにした部分もありますが、それでも全てがお互いに結び付いているのです。

『Dublinesca』の出版人は自分自身が出版目録、一緒に仕事をしてきた全ての作家の融合体になったことを発見します。とどのつまり、作家というものと密接に関連付けられているアイデンティティの頑なに閉鎖された固定観念を否定しているのです。この多重性はボルヘスが何年も前に挙げていたものですが、インターネットというコンテクストで尚更深い意味を持つようになってきています。

V. パリは死なない


Tapis de Lecture (Enrique Vila-Matas) (2008), one midnight-blue moquette carpet, 300-500 books, dimensions variable. Installation view, Musac – Museo De Arte Contemporaneo De Castilla y Léon. Courtesy Esther Schipper, Berlin.

長い間、ビラ=マタスの名前は知っていましたが、本は読んだことがありませんでした。きっと興味を持てないと思っていたのです。でもある日ようやく一冊読んでみたら、自分が想像していたのと全く違うことに驚きました。初めて読んだのは『パリは死なない』。アーネスト・ヘミングウェイの『移動祝祭日』を喚起するこの本では、若きビラ=マタスが作家になるためにパリに引越して、たまたまマルグリット・デュラスから部屋を借りてアドバイスをもらいます。他にはアルゼンチン人の作家であり映画監督でもあるエドガルド・コザリンスキーにも出会うのですが、偶然、私もその本を読む数年前にコザリンスキーに会っていたのです。ビラ=マタスとコザリンスキーは映画館で出会い、コザリンスキーはビラ=マタスに、ボルヘスがシネマについて書いた文章を紹介するのです。そこでビラ=マタスはボルヘスを探してパリの街中を歩き回りました。

2007年に私は『everstill/siempretodavía』というグループ展に参加しないかとハンス・ウルリッヒ・オブリストに声を掛けられました。会場はグラナダの、詩人フェデリコ・ガルシーア・ロルカの生前の家だったので、展覧会の関連イベントとしてビラ=マタスを招聘して講演をしてもらってはどうかと提案しました。グラナダに到着した当日、偶然にもビラ=マタスと同じ時刻にホテルでチェックインすることになりました。私が着いて、彼が着いて、ふたりとも控えめでした。翌日、オブリストと3人揃って、長いインタビューを行ないました。その後も、ビラ=マタスがパリに頻繁に訪れるということもあって、ふたりで会うことは続きました。

2008年にはビラ=マタスをカスティーリャ・レオン現代美術館(MUSAC)での展覧会『Nocturama*』に招待しました。彼がジョルジュ・ペレックについて講演している間に、私はビラ=マタスとその本と、それらの本の背景にある本についての新たなインスタレーション作品「Tapis de lecture」(読書のカーペット)を作りました。その後、同じ年にテート・モダンのタービン・ホールでの展覧会のカタログへのエッセイの寄稿をお願いしたのです。私たちの間では、私がフランス語で書いて彼はスペイン語で返します。テートのことで書いたメールでは展覧会の、世界の終わりというシチュエーションにおける引用の重要性というコンセプトを説明しました。ビラ=マタスの返信を見ると彼はコンセプトに対してかなり乗り気になっている様子で、私が世界の終わりというシチュエーションにおける引用について書いたことをほんの少し違う言い回しで繰り返していました。その反応に元気づけられた私は、それは正に私が展覧会について伝えたかった内容そのものだと返信しました。そしてその1、2日後、彼はただ私が書いた説明をスペイン語に翻訳しただけだったのだとようやく悟りました。

このような感じで彼とやり取りをしています。たまに音信不通になったと思ったら、いきなり連絡が来るのです。突然携帯にビラ=マタスからのメールが届いたと思ったら、彼はアントワープで旅をしていて、アントワープ中央駅からメールを送っている、ということが一度ありました。アントワープ中央駅はゼーバルトの『Austerlitz』の冒頭においてとても大事な立場を持つ駅です。

VI. めまい





All: Video stills from De Novo (2009), DGF/Corvi-Mora production, DVD, duration 20 min, French with subtitles, filmed on location in Venice. Courtesy the artist and Esther Schipper, Berlin.

私の最初期のインスタレーションのシリーズ『chambres/rooms』では小説をもとに、文章を使わずに物語を作ることを試みました。このシリーズを始めた頃、デイヴィッド・グーディスなどのミステリー小説を読んでいたので、一番最初のインスタレーションのひとつはグーディスの小説をもとに作りました。オブジェと言語体系との一致、一種の二重分節としてのヒントというアイデアがあって、観客が立体的なテキストからそれぞれ何かと何かの間に繋がりを見い出せるインスタレーションを思い描いていたのです。

本を映画化しようと思ったことはありませんが、2009年の第53回ヴェネツィア・ビエンナーレのために作った映像作品「De Novo」では文学が中心となりました。この映像には、私がヴァポレットに乗って本をラグーンに放り込む場面があります。娘がそれを見て、その本は二度と手元に戻らないのではないかとひどく心配しました。彼女に、本にお名前は書いたの、と聞かれて、書かなかったわ、と答えると、どの本だったの、と聞かれました。ゼーバルトの『Vertigo』よ、と答えたら、娘は少し考えてから言いました。
「『Vertigo』ならいいか」

そのようなわけで、この本を放り投げるという行為はなかなか挑発的であって、決して気やすくできることではありませんでした。もちろん、私は本を愛しています。私の作品にとってなくてはならない材料であり、私のどの個展も10冊や20冊の本に集約できそうなほどです。でも、それと同時に、私はある意味小説家のなりそこないなので、いくら本を愛していても一種の葛藤のようなものもあることは否定できません。フィクションとはどのようにして書くものか、何から始めて一体何について書けばいいのか、私にはどうしても分からないのです。

ビラ=マタス読書リスト(簡略版)

ポール・オースター(Paul Auster)
ロベルト・ボラーニョ(Roberto Bolaño)
ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)
エドガルド・コザリンスキー(Edgardo Cozarinsky)
マルグリット・デュラス(Marguerite Duras)
ペーター・ハントケ(Peter Handke)
アーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway)
ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)
フランツ・カフカ(Franz Kafka)
クラウディオ・マグリス(Claudio Magris)
ジョルジュ・ペレック(Georges Perec)
W.G.ゼーバルト(W.G. Sebald)
エンリーケ・ビラ=マタス(Enrique Vila-Matas)

ドミニク・ゴンザレス=フォルステル パリとリオデジャネイロを拠点とする。「De Novo」は日本では京都国立近代美術館が所蔵、3月から同館にて開催された『マイ・フェイバリット——とある美術の検索目録/所蔵作品から』にて展示。過去には京都のヴィラ九条山などでのレジデンスも経験している。

ドミニク・ゴンザレス=フォルステル
エンリーケ・ビラ=マタスのための6つの部屋

第5号 文学

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