ニッポン国デザイン村 : 7 

震災絵画

最初に、このたびの大震災にあたり、被災されたみなさまに心からお見舞い申し上げます。一日も早く、安全な環境で、平常の生活に戻れますよう。

しかしいまだ余震が続くなか、被災地の美術館が当分のあいだ閉館されるのはもちろん、被災地以外でも中止や延期を余儀なくされる展覧会が続出している。「いまアートになにができるか」とみずからに問いながら、自衛隊員にも消防団員にも、トラックに灯油を積んで被災地に届ける元ヤンキーや、ハイエースにコンロ積んで九州から炊き出しに向かう豚骨ラーメン屋の兄ちゃんにすらかなわない現実。自分が1枚の絵を描いて、それがおよそ20万人と言われる被災者のこころにどう届くのか。いま、このときにアーティストという職業でいることの意義を、根底から考え直さざるをえなかったひとも少なくないと思う(これを書いている自分も含めて)。

津波で廃墟と化した街並みや、不気味な煙を吐き出す原子力発電所から、自衛隊員に抱きかかえられた赤ちゃんまで、この2週間あまり我々は”情報の津波”とでも呼ぶべき、おびただしい量の動画や写真に翻弄されてきた。そうした”震災のイメージ”のうちで、しかし僕のこころのいちばん奥に突き刺さったのは、テレビの映像でも週刊誌のグラビアページでもなく、ニューヨークタイムズ紙のために水木しげるが描いた、1枚の絵だった。

いまにも濁流に呑まれようとしているところなのか、渦巻く水の中から伸ばされた右手。もがくように開ききった指。「みんなでひとつになって立ち上がろう」みたいな情緒的なメッセージばかりがメディアによって垂れ流される中で、最悪の現実から目を背けがちな我々の首っ玉をぐいとつかんで引き戻す、これはそういう冷厳なちからがみなぎった作品だと思う。そしてそのような作品が、売れっ子現代美術作家ではなく、ひとりの老いた漫画家から生まれたことにも、深く考えさせられた。

水木さんの絵を見て、瞬間的に思い出したのは両国にある小さな公園のことだった。横網町公園という名前のその場所は、かつて被服廠(ひふくしょう)跡と呼ばれ、関東大震災で3万8000人の死者を出した悲劇の地だった。 
横網町公園には東京都慰霊堂と復興記念館という、ふたつの建物がある。関東大震災と太平洋戦争の東京大空襲の犠牲者、あわせておよそ16万3000体のお骨が、この場所に安置されていることを知るひとは、多くないだろう。


(左上)東京都慰霊堂の全景。手前の講堂と背後の三重塔が一体になった和洋折衷建築。うしろにそびえるのはNTTdocomo 墨田ビル。(右上)ゴシックの教会堂と、寺院の大講堂をミックスしたような講堂の大空間。(左下)復興記念館全景(右下)東京大空襲でこの付近一帯は壊滅状態になったが、奇跡的に慰霊塔、復興記念館とも無傷のまま戦災を逃れた。

大正12(1923)年9月1日、午前11時58分に相模湾で発生した関東大震災が東京を襲った。ちょうど昼時のことだった。着のみ着のまま、あるいは荷車に家財道具を積んで人々は逃げまどったが、この地域の多くの被災者が逃げ込んだのがここ、横網町公園のある場所。当時は軍服を製造する工場である被服廠の巨大な工場が移転したあと空き地になっていて、東京市が買収して公園にする計画を進めていたところだった。
被服廠跡には約4万人が避難したが、人間と家財道具でぎっしりだった空き地の、どこからか火が出て、逃げ場のない人々を炎に巻き込んだのだった。焼死者数、およそ3万8000人。関東大震災で亡くなった犠牲者が、東京全体で10万人あまりだったというから、その4割近くがこの地で、火災によって亡くなったことになる。翌日から始まった遺体・遺骨収集作業では、積み上げられた焼死体の山が3メートルを越したという。
黒焦げの遺体となって身元もわからない5万8000人のお骨を収め、慰霊のために建てられたのが、この納骨堂。「官民協力して、広く浄財を募り、伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣工し、東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された」と、園内の由来記にある。

二度とこのような災害に見舞われぬよう、祈願を込めて建てられた慰霊堂だったが、ご承知のように太平洋戦争で東京は計106回もの空襲に見舞われた。とりわけ昭和20年3月10日、東京大空襲と呼ばれる日の爆撃では、9日深夜から10日に日付が進んだ直後に300機以上のB29が飛来。軍需産業の拠点となっていた東京下町を火の海に変えた。そのひと晩で、犠牲となった人数は7万7000余。焼け焦げて身元のわからない死者は、都内各地の寺院や公園130ヶ所に仮埋葬されたが、敗戦後の昭和23年から、東京都(1943年に東京市から東京都になった)によって、4年間をかけてすべて掘り起こされ、都内十数カ所の火葬場で火葬しなおされた。そのうち、幸運にも身元がわかって遺族に引き取られたものをのぞく10万5000体のお骨が、やはりこの慰霊堂に収められることになったのが昭和27(1952)年のこと。東京都では軍人については千鳥ヶ淵、靖国神社など慰霊する場所があるが、民間人の犠牲者については、この納骨堂以外に収めるべき場所がないのである。


16万3000体の遺骨が安置された納骨堂内部。ひとつの骨壺に、それぞれ200体ほどのお骨が収められている。

現在、関東大震災と東京大空襲で亡くなった犠牲者のうち、この慰霊堂に収められているお骨は16万3000体。そのうち性別・氏名のわかっている3700名ほどのお骨は、ひとつずつ骨壺に収められているが、あとは大きな骨壺ひとつあたりに200名ほどのお骨が収められ、納骨堂1階に安置されている。薄暗い部屋の、天井近くまで整然と並ぶ、見たこともないほど大きな骨壺の列。これが16万人分の骨なのだ。

納骨堂はふだん非公開だが、三重塔に付随するゴシック教会を思わせる講堂は常時一般に開放されていて、参拝が可能となっている。大震災と大空襲、ふたつの大きな慰霊の牌が祭壇に奉られているが、注目すべきは堂の両側に掲げられた大震災の油絵である。


(左上)火災による大旋風に巻き上げられた犠牲者(右上)混乱する被災者たちの光景と、画家・徳永柳州の自画像(左下)浅草六区にそびえていた通称「十二階」の崩落図(右下)被服廠跡で露天火葬されたお骨の山に合掌する僧侶

関東大震災の当時、その惨状を伝える絵葉書が売り出されたことはよく知られているが、洋画家の徳永柳洲が弟子たちとともに描いた『被服廠跡』、『十二階の崩壊』、『旋風』などと題された大型の油彩作品は、地震被害の凄まじさを描ききって凄まじい迫力である。
また太平洋戦争当時、警視庁所属のカメラマンだった石川光陽による、大空襲の写真群も見逃すことができない。戦時中、一般市民による空襲被害の撮影が制限されていたなかで、石川の写真は唯一残された大空襲の記録であり、戦後GHQのネガ提出命令にも屈せず、ネガを自宅の庭に埋めて守り抜いた、貴重なものだ。


石川光陽によって撮影された、東京大空襲の焼死者の山

慰霊堂の脇に建つ復興記念館は付帯施設として、慰霊堂が建った翌年の1931(昭和6)年に完成、一般公開された。設計は慰霊堂と同じく伊東忠太。鉄筋コンクリート造2階建ての重厚な建築である。
2階建ての記念館の1階には大震災当時の記録写真と絵画、焼け出された日用品などの資料が、2階には海外からの援助資料や、東京大空襲関連の資料、それに戦後発生した地震災害等の写真も展示されている。 


復興記念館2階展示場

展示の核となっているのは慰霊堂・復興記念館完成の以前、1929(昭和4)年秋に開催された帝都復興展覧会で展示された作品と資料類。真っ黒な炭のオブジェと化した日用品や、建物の残骸。アメリカ、イタリアなど、各国で作られた「日本を救おう!」と呼びかけるポスター。復興展覧会のために制作された「新しい東京」の街路模型。なかでも大震災の模様を伝える大画面の油彩絵画の数々は、まだ絵画が美術作品である前に「記録」であった時代の、対象と向き合う画家の姿勢が滲み出るようで、ひじょうに興味深い。


関東大震災を記録した大作がずらりと並ぶ。

園内で無邪気に遊ぶ子供たち、公園を囲む高層マンションに住むお母さん、ベンチでなごむサラリーマン……だれにも気に留められないまま、慰霊堂や記念館の壁を飾る震災絵画の数々は無言のうちに、いま関東大震災以来の大災害に立ちすくみ、立ち向かおうとする我々、とりわけアーティストたちに、大切ななにかを教えてくれているようだ。

東京都慰霊堂、復興記念館
東京都墨田区横網2-3 横網町公園内
AM9:00 – PM4:30 (月休)
http://www.tokyoireikyoukai.or.jp/kinenkan.html

Copyrighted Image