Curators on the Move 18

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト+侯瀚如(ホウ・ハンルウ) 往復書簡
地球上にある自由:メタボリズム、ファヴェーラ、陽江グループ

 


鄭國谷「帝国 」 ©鄭國谷

 

親愛なるHUOへ、

君のメタボリズムに関する指摘、特にダミッシュの「雲の理論」の箇所はとても興味深く読ませてもらったよ。建築の機能や構造、本質を–ここでは持続可能性を中心課題として–、急成長する都市というグローバルな動向を踏まえて再考することは、とても適切だと思う。それは多くの事を示唆するが、中でも、完成品ではないプロセスとしての建築–ひいては創造行為全般–というユートピア思想を想起させる。現代の文脈に置き換えると、それは欲望、先を見る目、資本主義の論理に抵抗するための戦略、消費者主義的および全体主義的生産–生命過程や永遠に続く変化の地平という意味での、本来の生命の価値を侵害するスペクタクルな社会的生産–システムを暗示している。

同様の理想を抱いた者は、日本のメタボリストたち以外にもいた。興味深いことに、日本と海を隔てながらも、1960-70年代に日本とよく似た経済成長を経験したラテンアメリカでも、あらゆる創造的な分野において、類似した革新的メッセージや社会解放の大志を抱いたムーブメントが巻き起こっていた。エリオ・オイチシカを中心に、リジア・クラークやリジア・パペらが、貧民街における有機的で自己組織的な生産空間での生活様式に触発されて立ち上げた「トロピカリア」はよく知られる所だろう。この芸術運動と同じくらい重要で興味深いのが、 セルジオ・フェッロ、フラヴィオ・インペリオ、ロドリーゴ・ルフェーブルらによるブラジルの建築シーンに登場した「アルキテトゥラ・ノヴァ」 だ。彼らは、建築にとって最も重要なのはプロセスであると考え、オスカー・ニーマイヤーに代表される当時の「前衛芸術家」の主流派と対立し、デザインよりも構造が要であるという考えを普及させた。彼らのラディカルな姿勢は、政治への直接介入へと結びつき、自分たちの描く建築的理想の延長としてのテロ行為へと連鎖していった。彼らの活動は、建築と都市化に柔軟性、動き、そして変化を受け入れるという、日本のメタボリズム、イギリスのアーキグラム、イタリアのスーパースタジオの特徴でもあり、当時の世界的なトレンドであった理想主義と共鳴した。

一方で、「アルキテトゥラ・ノヴァ」 はほかの運動よりはるかにラディカルで革新的であった。彼らは、社会変革の過程においてしばしば取り残され、あるいは除外され、近代化のプロセスへの参加が困難な社会の最下層の人々からインスピレーションを得、彼らのためのプロジェクトを着想した。この草の根の社会勢力は、都市および郊外空間を占拠し、活動の場と「ファヴェーラ」という名の組織を生み出した。彼らの「特別区域」は、当局の支配から逃れ、近代社会における公の事業によって根絶やしにされてきた自由を創出し、謳歌した。この社会勢力は、今日の知識人、社会運動家、クリエイターたちが熱望する、非西洋的で革新的な現代性の創造の鍵となる要素を提示している。「ファヴェーラ」が体現した自由は、次のジョン・ターナーの言葉に象徴される。

コミュニティーを自主選択する自由、自らの資源を管理する自由、自らの環境を作り上げる自由。(中略)不法占拠者たちは共通の目的を持ちながら、文化の鼓舞と成長に不可欠な特質である多様性を維持している。(1)

「アルキテトゥラ・ノヴァ」 は、安価な素材や構造を用いて、貧困層へ低価格で大量生産しやすい建物を提供するという、小規模かつ実験的な住宅プロジェクトを展開した。が、一連の企てや社会解放の成果に満足できず、その後、テロ行為である銀行強盗や爆撃など、社会革命への直接的かつ暴力的行為へと傾倒していった。したがって、「アルキテトゥラ・ノヴァ」は結果的に、同時代的な建築運動というより、「オートノミア」や「赤い旅団」といった運動により近い存在になっていった。

リチャード・J・ウィリアムズは、以下のように述べている。

「アルキテトゥラ・ノヴァ」の試みは重要である。一方で、リオデジャネイロでのオイチシカらによる芸術的戦略は、近代化と進歩に関する当局のレトリックの矛盾を指摘し、解放への鍵となるプロセスは上から押しつけられるのではなく、必ず下層から突き動かされることを説得力をもって訴えた。彼らの制作物は、遊戯の美学がいかに建物の中核を成し得るかを私たちに教えてくれる。ニーマイヤーとその仲間は、見る者を(一時的ではあるが)無力にするべく、彼らが口も聞けないほどの畏怖を喚起しようとした。それとは対照的に、本章でふれた美術家や建築家たち(「アルキテトゥラ・ノヴァ」、オイチシカ、パペ、クラーク)は、見る者に権利や尊厳を与えようとした。 (2)

興味深いことに、このボトムアップの社会解放アプローチは、21世紀における「自由主義」的資本主義のグローバル化をきっかけに、自己組織と自己実現という概念を伴い、今日、世界のいたる所で反響を巻き起こしている。私たちは、抵抗勢力による自己組織的行為の未曾有の広がりと、世界各地(特に「発展途上国世界」)に巻き起こるもうひとつのグローバーリゼーションを目の当たりにしている。

近代化とグローバルシステムへの融合に促された社会変革の最も劇的な例である中国も、社会的、文化的、さらには政治的抵抗と自己解放に対する熱が波及するという、緊迫した状況を呈している。土地の中産階級化に脅かされる地域住民と、政府と連携して住民を都市の中心部から追い出そうとするデベロッパーとの間での暴力的な衝突が、たびたび新聞の一面で取り上げられている。アートのコミュニティーもまた、取り壊しを迫られる安価なアトリエで制作を続ける権利を主張している。彼らは、自分たちの抗議の声を作品化したりクリエイティブな運動にして展開している。そのひとつの例が、2010年の2月に北京の創意正陽芸術区で起きた、アーティストたちと立退を迫る当局との衝突だ。アーティストたちは芸術区において、パフォーマンスやポスター、公開討論という形での反対運動を催し、その後、天安門広場を囲む通りに移動した。これは、厳戒態勢が敷かれた同規制区域で実行された、1989年6月以降初となる集団抗議運動だった。彼らは「暖冬」と名付けられた芸術運動を組織し(参照:www.warmwinterart.com)、当局により公開上映が禁止されていた肖歌(シャオ・グェ)監督の映像作品を上映した。

 


陽江グループ本部 © 陽江グループ

 

時を同じくして他のアーティストたちも、創作と個人(社会)の自由のための自治的なテリトリーを獲得するべく、様々なプロジェクトを展開していた。中でも、鄭國谷(ジェン・グォグゥ)をはじめとする、陳再炎(チェン・ザィヤン)や孫慶麟(スン・チンリン)らで構成される「陽江グループ」は異彩を放つ。陽江で生活し働く中で、広東州の南に位置する小さな古代都市から巨大新都市(中国の近代化、都市化、グローバリゼーションの最前線地域)が発展していく様子を目の当たりにした彼らは、同地域の急速な都市化が、私が呼ぶところの「事後計画」によって広がりをみせる事を経験した。例えば、土地の占有が決まってから浮上する都市計画や、既存のなにかの是正措置または経済的、社会的対立の調節役としての建築工事などである。このアーティスト集団、厳密に言えばクリエイター集団(彼らの作品はデザイン、建築だけでなく、あらゆる日常の要素を包含し、従来のアートの定義を超越する活動を呈している)は、最も革新的で開放的な方法で都市拡大のプロセスに介入する。1990年代、陽江グループは、大量消費のポップカルチャーの流入や、突如として変化する日常生活のあり様に反発する若い世代の反応を反映した活動、写真、インスタレーション、文学、デザインを制作した。彼らは、現代アート、建築、詩、伝統的中国絵画、書道、造園、民族工芸、コンピューターゲームなどの多様な源泉を結集させ、途方もなくハイブリッドなプロジェクト「zusammenkunstwerk」を打ち立てた。このプロジェクトは、陽江のいろいろな場所での室内および屋外空間を占拠し、展開した。商業的な住宅事業によって画一化した街の景観に、脱構築主義建築と伝統的庭園を足して2で割ったような奇抜な構造を挿入した。

もちろん、これらの介入者的建築は法的許可を得たわけでも、当局の公認規則にそって設計、建造されたわけでもなかった。変化し続ける中国の都市化のプロセスを見ていると、政治的および経済的権力によるトップダウンの押しつけと草の根の先導によるボトムアップの動きによって、従来の公的な都市計画は、猛スピードで建ち並ぶ建築物と都市の突然変異という現状に、現実問題としてなす術がないという事がわかる。鄭國谷とその仲間たちの作品は、奇妙でグロテスクにさえ見えるが、常にユーモアがあって愉快だ。この罪と違法性に染められた抵抗とユーモア、浪費と娯楽、アナキズムと楽観主義のハイブリッドこそが、中国にとってもグローバル化する全世界にとっても歴史的なこの時代に、同時代のアーティストたちが己の自由を交渉する際に発揮する、温和な独創性と創作力を形作っている。

自分たちの野望の有効性を再確認し、「陽江グループ」は、21世紀に入りよりラディカルで個性的になっていった。プロジェクトの規模を住宅やギャラリー空間よりさらに大きなスケールに拡大、陽江近郊に潜入し、農地を占拠したのだ。優秀なゲーマーで、オンラインゲームの「エイジ オブ エンパイア」(バーチャル世界の帝国の国境を征服することを目的とする、アジアの若者の間で熱狂的に支持されているゲーム)のユーザーの間で英雄視されている自分の兄から着想を得て、鄭國谷は現実世界に自らの「帝国」を築くことにした。2001年には、法整備の不備が原因で土地の購入取引は公式に認可されていないながら、陽江郊外の農夫から約40,000 平方メートルの大きな区画の土地を購入した(中国の財産権は定義が不明瞭で、それ故に過去数十年間にあらゆる分野で多くのもめ事や暴力沙汰のいざこざが起きている)。鄭とその仲間たちはこの土地の上に、やはりハイブリッドで過激、そしてもちろんユーモアもある建物や庭園一式を設計した。それは、彼らの家族やアートコミュニティーのための小さく私的な帝国だった。混迷しながらも変わろうとしている都市と田舎世界の境界地域の真ん中に、突如としてユートピアが出現した。そこでは、あらゆる種類の実験的活動を規制なしに行うことができる。アートは完全に日常と融合し、日常は完全にアートと融合している。

緩衝地帯という法制度の縁で機能しながら、鄭國谷の帝国は、自由の自治地区を生み出し、開拓していくための賢明な戦略を提示している。しかし、そのプロセスは決して容易ではない。土地取得が法的に認可されていないので、インフラを設置することが不可能なのだ。アーティストたちはありとあらゆる策略を使って、電気や水道をひき、許可なしに建物を建ててきた。周辺に住む人々と交渉したり、当局担当者に賄賂を贈るなどして、プロジェクトを継続するために最低限必要な環境条件を獲得してきた。建築作業にかかる経費を捻出するにあたって作品を売る際は、不安定なアート市場を頼らざるを得なかった。8年が経過して、プロジェクトはいまだ進化途上で、住居として機能するのは建物の一部にすぎない。そのプロセスは、「ファヴェーラ」のそれと似ている。「ファヴェーラ」がそうであったように、即興的要素の多い、この先の見えない予測不可能なプロセスにおいてこそ、創造性の奇跡とも言える、建築や空間的産物に関する既存のルールを越えた、最もオリジナルで革新的なデザインが生まれ、実現されるのだ。

帝国の建設が進む中、鄭國谷とその仲間たちはすでに別の企てに着手している。今回は、成金趣味の家が立ち並ぶハイクラスな住宅街の真ん中に土地を購入し、「陽江グループ」の本部となる4階建ての建物を建設している。この建物はグループのアトリエ、オフィス、人々が集まる場所として機能するだけでなく、 あらゆる社会的実験のオープンプラットフォームとなる。最も興味深いのは、建物が設計図なしに建てられている事である。アーティストたちは、毎日、建設現場で働く人々と打ち合わせを重ね、前日に出来上がったものを元に次のステップを決めている。 常に新しい要素が導入され、古いものは絶えず修正されている。現在のところ、雑然とした足場の向こうには、なんとなくクルト・シュヴィッタースによるメルツバウに似たような、ただし、もっと規模が大きくもっと奇抜な建物が見てとれる。完成までにはまだまだ時間を要するが、アーティストたちはすでに中で活動し始めている。この建物がいつどのように仕上がるかは、誰も知らない。すべてがオープンで予測不可能だ。唯一確実なのは、これが自由のための終わりのない瞬間であるということ。そしてそれは雲の中にあるのではなく、地球の上にしかと存在している!

では、
ハンルゥ

注1. ジョン・ターナー ”The Squatter Settlement: An Architecture that Works,” Architectural Design (1968年10月) pp. 355-60。リチャード・J・ウィリアムズ Brazil, Modern Architectures in History. (ロンドン、Reaktion Books、2009年) p. 167において引用
注2. リチャード・J・ウィリアムズ Brazil: Modern Architectures in History (ロンドン、Reaktion Books、2009年) p. 182

(訳 板井由紀)

 


 

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