Curators on the Move 9

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト+侯瀚如(ホウ・ハンルゥ) 往復書簡

ナノミュージアム

親愛なるハンルゥへ

パブリックアートに関するペリンとの示唆に富む対談報告をありがとう。そこで今日は、僕が手がけた『Everstill』展(グラナダのロルカ博物館で2008年7月まで開催中)とも関連する問題を考えてみたい。
 ひとつはアートと文学をつなぐ橋について。僕らの時代はこれをあまり重視していないように思う。20世紀アバンギャルドの主だったアートは文学と強固に結びついていた。この関係は60年代になっても続き、アラン・ロブ=グリエなどはロバート・ラウシェンバーグからソル・ルウィットに至るアーティストたちと親密なコンタクトゾーンを形成していた。それが今世紀になると、音楽、建築、ファッションといったジャンルとの対話が活発になった半面、文学との関わりは希薄になっている。いまひとつ充足感に欠けるだろ?

もうひとつは、君のパブリックアート観を踏まえてのことだが、最近あまり取り沙汰されなくなっている小規模の展覧会について。アートも展覧会も大規模化の一途を辿り、展示空間を増築する美術館がどんどん増えているいま、様々な規模があってこそ体験を多様化できるということを肝に銘じるべきだと思うんだ。

肥大化する展示空間

『Everstill』展は、僕が90年代初めから続けている「ハウスミュージアムでの現代アート展シリーズ」の第4弾だ。第1弾はスイスのシルス・マリアにあるニーチェ・ハウスで開催した『Sils』展で、その後サー・ジョン・ソーン美術館(ロンドン)の『Retrace your steps: remember tomorrow』展、バラガン邸(メキシコシティ)の『The Art is Blue』展と続いた。4つの美術館はどれも私邸の規模だから、観客と展示作品との関係は、大規模美術館の広大な空間が生み出すそれとは違ったものになる。美術館と日常世界の間には大きな溝が横たわると批判したのはテオドール・アドルノだが、その溝に橋を架ける試みだ。

普通ならまず使わないような場所での現代アート展が面白いのは、同じ作家の作品でも、大舞台で見せるときと違った見え方になるという点だ。例えば今回のロルカ博物館でも、場と作品の間に多彩な干渉作用が生じている。フィリップ・パレーノの窓の作品や、新しい「所持品」とともに家に住み直すリヴァーネ・ノイエンシュワンダーの「Macchi IN SITU」など。ギルバート&ジョージはある午後を博物館で過ごし、そのときの写真を額に入れてロルカの寝室に展示した。その他、ロルカの未完映画をペドロ・レイエスが完成させた作品や、マドリッドの文書館が所蔵するロルカの手稿に基づくジョン・アームレーダーの映像作品もある。

展示作品には通し番号のみが振られ、説明は付されていない。サー・ジョン・ソーンが自らのコレクションを展示する際に採った方法に倣ってのことで、解説パネルも音声ガイドもない。来館者は心の赴くままに各部屋をめぐり、思いがけない場所で思いがけない作品に遭遇する仕掛けになっている。

イベント主導の傾向がますます強まる文化状況にあるいま、環境との調和に基づく持続(ルビ:サステナビリティ)と継承(ルビ:レガシー)をアート施設にあるべき核として捉えなおす。『Everstill』展ではそこを念頭に置いて企画構成したつもりだ。こだわったのは加速化する一方の展示世界に、いかにしてゆるやかな時間の流れを取り戻すかだ。

そのためには様々な規模の展示という発想が重要だ。僕らはグローバリゼーションが極に達した世界に生きている。エドゥアール・グリッサンが指摘するように、同質化を強いる力が時空の差異や多様性を脅かしている。肥大化する一方の美術館に小さな美術館を投げ込む試みは、僕が常に心がけてきたことのひとつだ。

タクシーの中で観るアート展

ナノミュージアムを始めたのは、ハウスミュージアムシリーズ以前に遡る。この着想は、デュッセルドルフを拠点に活動する先見的アーティスト、ハンス=ペーター・フェルドマンと話す内に生まれた。彼は雑貨を扱うショップも経営していて、その店で僕は小ぶりの額縁を買った。それでふと思いついた。この額縁を携帯型美術館に見立てれば、どこでも展覧会が開けるってね。美術館としては最軽量で、ナノテクノロジーのパロディにもなる。通常の展覧会に付き物の煩雑な制約とは一切無縁だから、会期を3ヶ月に限定しなくてもいいし、1日2回の展示替えも可能だ。時間的制約さえなければ、可能性はぐんと広がる。

会話を回遊させる機能もある。行く先々で様々な発見が生まれるだけでなく、対話も活性化する。ミュージアムを持ち運ぶ人間(僕でも誰でもいい)がいて、友だちや通りすがりの人にそれを見せる、これだけで議論の格好の口実となるわけだ。「モノは会話を促すためにのみ存在する」とはダグラス・ゴードンの言葉だが、ちょっと似ていなくもない。重要なのはモノそれ自体ではなく、モノが誘発する何かだ。

ナノミュージアムは構造面でも運営面でも自己組織化した存在だ。経費も微少(ルビ:ナノ)で、すべてがナノレベル。いや、実際には経費もスポンサーも一切不要!

ナノミュージアムはパーマネントコレクションを持たない。展示はすべてその場限り。最後に1冊の本にまとめれば、誰もが自分の美術館を持てるという発想だ。とはいえ、営利目的の出版社はナノブックに興味を示さないだろうし、実際、出版を引き受けてくれる奇特な社はいまのところ皆無だ。でも大事なのは、ジャンルの越境に道を開き、多種多様な活動を結びつけていくことだと思う。ロベルト・ムージルは、「アートがまだ存在しているなら、それは我々がまずもって思いつかないような場所にある」と言っている。飛行機やタクシーや地下鉄の中でアートにお目にかかれるとは思わないだろうが、ナノミュージアムはまさにそうした場所に出没する。

ある意味で当然といえば当然だが、日本ではナノミュージアムの知名度は高く、マスメディアで取り上げられる機会も意外に多い。小沢剛が展開する『なすび画廊』が評判になったせいもあるだろう。このプロジェクトは展覧会内展覧会に似たもので、ローカルリサーチとも連動している。(君には言わずもがなだが)ロンドンの『Cities on the Move』展ではロンドン在住のアーティストたちに呼びかけて『なすび画廊』で自作を発表してもらったし、ヘルシンキでも同様の試みをしたからね。

美術館の終わりと始まり

「リサーチ&サイエンスという分野を立ち上げる際には、その目的にかなう場がどうしても必要だ」。以前こう話してくれたのは、チリ生まれの偉大な生物学者フランシスコ・バレーラだが、この伝で行けばナノミュージアムは携帯型実験室ということになる。バレーラはアートの文脈においても、オートポイエーシスや自己組織化理論に関する極めて重要な思索家のひとりだ。だが19世紀に中心的役割を担っていた実験・主観的科学は、20世紀に入ると西欧世界からどんどん姿を消し、いまでは仏教、ヒンズー教、老荘思想といった伝統思想の中で命脈を保っているにすぎない。バーバラ・ヴァンダーリンデンと僕が共同企画し、アントワープの写真美術館で開催した『Laboratorium』展(99年)のためにバレーラが考案してくれたのは、車輪付きの大きなクッションだった。誰でもそこに座って思索できる、いわば携帯型主観的実験室だ。すぐ横の壁にはこんな使用説明書を張り出した。

「しばし佇み、あるいはクッションに腰かけ、自ら実験室になろう。後は何もしなくていい。身も心も解きほぐし、そこでの体験を気負わずに観察する。これぞ実験だ。心に浮かんだ具体的な思いを、データのつもりで意識に留めよ。可能な限り何度でも、全身全霊でこれを繰り返そう。実験室は携帯可能、どこでも自由に持ち運びたまえ。そして発見したことを心に銘記せよ!」

ナノミュージアムが移動型アートの場として定着し、どこでも好きな場所で実験ができるとしたら、そこにまったく違う世界が広がるだろう。バレーラが的を射た指摘をしたように、美術館も実験室として、観る者に発見を促す装置になりうる。始めから整理すべきデータがあるのではなく、具体的な思いに従うのでもない。展覧会ごとに絶えず変化していく、それがナノミュージアムだ。

かつてサー・ジョン・ソーン美術館に設置したナノミュージアムで、ケリス・ウィン・エヴァンスは美術館内美術館というコンセプトを生かした印象的な作品を披露した。美術館内に置かれたナノミュージアムをポラロイド写真に撮って、ナノミュージアムに収め、それをまた写真に撮るといった具合に、無限に連なる鏡像のような密に重なりあう現実を作り出したのだ。クリフ・マルコは、シュニトケへのオマージュという形で音響世界を取り込んだ。ガブリエル・オロスコは、一連のコンピュータドローイングを作って、日々変化させた。ハンス=ペーター・フェルドマンも、ランダムに現れる画像によってナノミュージアムを常に変容させた。

ダグラス・ゴードンのプロジェクトはまだ実現していない――というか、グラスゴーのとあるパブでナノミュージアムを紛失し、しばらくして見つかったというのが真相だ――つまり未完のプロジェクト。いや、誰の目にも触れない形で実現したとも言えるかな。それはともかく、実はこのナノミュージアムを僕らはそろそろ終わらせようかと思っている。命あるものはいずれ死ぬ。ナノミュージアムにしてもただの延命に意味はない。伊東豊雄やその他アジアの建築家たちが(ヨーロッパではセドリック・プライスも)指摘しているように、建築も人と同じように死ぬのだから。ダグラスが最後のショーを開いて、葬儀と埋葬をする計画もある。復活の可能性に賭けるという意味も込めてね。

ナノミュージアムは携帯型美術館という発想に深く根ざしている。これを、世界で初めて光子のテレポーテーションを実証したオーストリアの物理学者、アントン・ザイリンガーの最近の発言に照らし合わせて考えてみるのも一興だ。ザイリンガーは、物質のテレポーテーションは10年以内に実現できると言う。となれば『スタートレック』の有名なせりふ「転送してくれ(ビームミーアップ)、スコッティ」だけでなく、美術館のテレポーテーションも夢ではないだろう。つまり死に向かうのではなく、美術館の終わりと始まりへと僕らを導く、第2の可能性を秘めていることになる。

ナノミュージアムはまだ始まったばかりだ。

ハンス・ウルリッヒ拝

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初出:『ART iT』No.19(Spring/Summer 2008)

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