連載 田中功起 質問する 10-4:小林晴夫さんから2

第10回(ゲスト:小林晴夫)——ぼくたちはいったい何に参加しているのだろうか

横浜で「芸術を発信する場」を展開するblanClassの小林晴夫さんがゲストの今回。「参加」をめぐる思考と実践のやりとりから、小林さんは新たな問いを発します。

往復書簡 田中功起 目次

件名:なるほど「参加」ですね。

田中功起様

ご返事大変遅くなりました。田中さんへなにに焦点を絞って投げ返したら良いか、すっかり悩んでしまいました。それは再度投げ返された「参加」というキーワードが、1回目の「参加」とは別の意味を纏っているかのように感ぜられたからです。それは言葉上の(繰り返されることによる)トリックなのか、実際の場で交換され得る関係性なのか、正直わからなくなりました。

といった具合で、何ごとも概念化されてしまうと、現実に起こっていることとは、まるで違う時空で起こっていることのように思えて混乱してしまいます。それは田中さんがこれまで作品を通してやってきた、極めて単純な概念を文字通りやってみせることにも通じる姿勢だと思うので、今回は、現実の関係性としての「参加」と、言葉として試されている「参加」をなんとかつなぎ合わせるために考えてみようと思います。


試しにつくった、モバイルキッチンらしきもの(2014.8.5)

まずはできることから

さて田中さんがご指摘したようにblanClassが仮設している「場」は旧来のフレームによって設計されています。それはむしろ経済的な理由から、システムを限定せざるを得なかったのです。なにしろblanClassを始めた当初は財布の中身が、ほぼ空っぽな状態でした。Bゼミを畳んで以来、実はいくつかの試みを計画しては、資金不足のために断念していました。それでもなにか新しい試みを始めたいという想いがあり、単にリスクとコストから逃げているといわれればその通りなのですが、「0円からのスタート」を唯一にして絶対の条件にして思いついたのが、ビックリするぐらい当たり前のやり方でした。それまで考えていた複雑で手間のかかるアイデアに比べて「週末にライブイベントを見ながらお酒を飲む」というシンプルな思いつきに、自分でも拍子抜けしつつ、これ以上ない思いつきだと、なぜか確信しました。

システムとも呼べないほどに、最低限な条件だけで「場」を成立させることができれば、さまざまな倹約と兼用が可能になると確信したわけです。

システム、ルール、デザインといったものを少しでも複雑にすると、そこにスペースの限定的な機能や形が現れてしまい、盲目的にその上に乗った表現が高度にゲーム化し、結果、縮小再生産が繰り広げられていく。そうするとだれともいわず制約らしきものが共有されていって、記号化、形骸化が進み、それぞれが内容の自主規制をし始めるのではないか? というのがこれまでに見回してきた文化的な営みに対して、私が感じてきた限界です。

縛りからの解放?

これはアートに限ったことでもないと思うのですが、2000年代初頭に経済的なトレンドにもなっていた「閉塞感」しかり、多くの人がさまざまな制約に縛られていると錯覚していたと思うのです。フワフワした実体のない概念に簡単に縛られてしまう、いわば「言葉による詐欺」(詐欺は言葉が最も有効な手段)がなぜ成立してしまうかといえば、結局騙される側の頭の中で起こってしまうと思うのです(巧みにマインドコントロールされたにせよ)。

同じようにアーティストを縛っているものがあるとすれば、やはりそれぞれの頭の中で勝手につくり上げられたイメージによってのみ起こっている気がします。そんなイメージがミームみたいに、あたかも共有されているもののように自分自身を縛り上げていくのではないでしょうか?

実際に起こっていることは、制約によってがんじがらめになっているという図式ではなく、それぞれの常識やリテラシーが断絶していて、ほとんど共有されていないにもかかわらず、それぞれのシステムやディレクションなどのなかに、「こうして欲しい」という要求だけが空回りしていると感じます。

blanClassにおいて、ゲストであるアーティストへ、アートが向かうべき方向を問う、暗黙の姿勢があるのは事実だと思います。同時にそれは観客として訪れる人たちへ向けられた問いでもあります。ゲストも私も傍観者のように「参加」することで、一瞬、アーティストへ向けられている素朴な要望から自由になることができるのではないでしょうか? そのときになって、仕掛ける側のアーティストと観客を隔てているものが強固なものでもなく、またいくらでも逆転してしまうことに気がつくのだと思います。

一見安全に設えられたチェーン店におけるお店とお客の関係にしても、実のところ脆弱な設定にすぎません。

空気とは距離のことではないか?

田中さんがヴェネツィア・ビエンナーレで行った展覧会で、当事者性を考える上で、「距離」というキーワードを示していました。それはある事象や事件との「距離」によって当事者性が測られると同時に、あるのは「距離」の差にすぎないことであると理解しました。

そして「距離」は当事者性を測るだけでなく、あらゆる「偏見」に対抗し得る概念だと思うのです。つまりアーティストや観客を含めたアートを取り巻く環境で、さまざまな制約や自主規制を生み出してしまったのは、それぞれの「偏見」であると言いたいのです。「偏見」を乗り越える手段もやはり相互の「距離」を測ることではないでしょうか?

拡張とはどの程度のことか?

blanClassはアーティストたちがどんな結果を生み出すかを具体的に想定して、つくったシステムではありませんし、こちら側から求める理想もありません。その意味において、私は努めてなにもしないようにしているわけです。

そうしたことで、もしかしたらそれぞれのゲストのなかで自身を縛っていたものからの解放があったのかもしれません。でもなによりもそれぞれのゲストが「空気」を読むのではなく「距離」を測りはじめた結果だと思いたいのです。

「まずはできることから」のなかには、アーティトをできるだけ1人ずつ呼ぶということがありました。それも謝礼が入場料の半分ということもあり、blanClassとゲストの間にあるシンプルな共犯関係を明快にしたかったからでもあります。

その上で協働して標榜するものがあるとするならば、「偏見」に支えられた役割分担からの「関係」の見直しなのでしょうし、田中さんがいう「作品の拡張」なのだと思います。

ただし「作品の拡張」といった場合、アートの領域にアートの外部にあるものを移植することなのか? アートの領域そのものを拡張することなのか? それとも社会のいろいろな局面に直接働きかけることのできるアートの機能の拡張なのか? が疑問です。というのも、私自身は最後にあげたアートの機能の拡張を実践しようとして、なかなか巧くことが運んでいる気がせず葛藤した結果、現在のような「まずはできることから」ポッチリポッチリはじめているからです。

では田中さんが「作品の拡張」といったときに、どの程度の拡張をイメージしているのでしょうか?

小林晴夫
2014年8月2日

近況:この秋、blanClassも5周年なので、本を出したり、トークイベントしたり、増本泰斗プロジェクト「blanClassのリノベーション」(それがモバイルキッチンになりそうなのです)のお披露目などを計画中!! 近日スケジュールを発表します。

【今回の往復書簡ゲスト】
こばやし・はるお(blanClassディレクター・アーティスト)
1968年神奈川県生まれ。1992年、現代美術の学習システム「Bゼミ」運営に参加。2001年~2004年の休業まで、所長として運営に携わる。2009年にblanClassを創立、芸術を発信する場として活動を始める。毎土曜のワンナイトイベント+公開インタビュー(Live Art)や、トークイベントなどを展開中。SNSなども活用しながら、その場で起こる「作品未満」の行為、発言、発信をオルタナティブに摸索する。作家として個展「Planning of Dance」(2000年、ギャラリー手、東京)、「雪 – snow」(2001年、ガレリエsol、東京)や、グループ展「SAPアートイング東京2001」(2001年、セゾンアートプログラム、東京)、パフォーマンス「小林 晴夫 & blanClass performers [Traffic on the table]」(2011年、新・港村blanClassブース、神奈川)などでの活動も行う。編著書に『Bゼミ〈新しい表現の学習〉の歴史』(2005年、BankART1929刊)がある。
http://blanclass.com/

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