Curators on the Move 8

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト+侯瀚如(ホウ・ハンルウ) 往復書簡
パブリックアートの未来

 

親愛なるHUOへ

美術の未来について、面白い調査結果をありがとう。僕のほうは、ペリン・タンがパブリックアートについて質問してくれたインタビューを紹介したいと思う。タンはイスタンブールを拠点に活動する、才能あふれる理論家にして歴史家だ。

星の数ほどのさまざまなプレゼンテーション、イデオロギー、ルーツが公共空間に積み重なるいま、美術的実践はどうしたらそこに入り込めるでしょううか。美術はパブリックに対抗するものを作り出せるのか、それとも「パブリックへの対抗」自体が単なる左派の理想論なのか。

実際これは、僕らが住んでいる社会が何者かという問いだ。世界中で進む都市空間の私物化は、グローバリゼーションの症状、トランスナショナルな資本主義の独占主義的モデルの押しつけか? これは日増しに現実味を増しているように思える。国から市町村に至るローカルな権力機関が、ときにはまったく非民主的で腐敗したやり方で、都市法規を変更(しばしばそれを「自由化」)してこうした風潮に追随している。他方、個人からNGOまで、この風潮に抵抗する構想と戦略を生み出そうとする勢力もますます強くなっている。この中には、形はさまざまながら「非公式な」経済、オルタナティブな組織、文化・社会・政治的プロジェクト、そしてもちろん環境問題運動も含まれる。究極的には、歴史の多様性を尊重し、健康な社会を守るような都市刷新を求めているんだ。独占と多様性、私有化と公共性との闘いは、公私が対立する空間に関する論議を、教条主義的で観念的なものからダイナミックでインタラクティブで開かれたものにした。トニ・ネグリやマイケル・ハートが指摘しているように、もはや現在の「グローバルシステム」(「帝国」)の「外」にいることは不可能だ。大切なのは、休むことなく自然発生的かつ効果的に都市空間を(高級住宅地化されているか否かに関わらず)占有し、複雑にしてときに矛盾する、さまざまな要求の寄せ集めたる公益のために、新たな性質と効用を導入することだ。この場合、ハキム・ベイの「一時的自律ゾーン」のような、「伝統的」「左派の」「ロマンチックな」さらには「ユートピア的な」思想や戦略は見直されて新しいダイナミズムが取って代わり、完全に現実的なものとなる。パブリックアートについても、新しい概念やプロジェクトを生み出すことができる。

 

アバンギャルドな「実験室」

現在では、パブリックアートは固定的で最終的で閉じられた形ではもはやない(規模の大小に関わらず、派手でも「非物質的」でも)。開かれ、常に変化し、参加的・協力的で、究極の反恒久性を持っていて、対話や協働を促して社会的関係を生み出し続ける仕組み、共通の利益を生み出す集団活動の実験室として機能している。都市の変化を模索する実験場のようなもので、(個人、集団、社会全体の)多様な利益をよりよい均衡へと導き、資本主義の支配から逃れた価値体系を構想する。だから、現代のパブリックアートの形式は多岐にわたり、しばしば分野を超えた形を取り、「美術」と「建築」、あるいは安定した構築物とパフォーマンス的で時間軸に依拠した活動との間のどこかに位置していて、なんであれ特定の見方に固定されることを嫌う。根本的に実験的で、「現実の世界」と「仮想世界」の両方において、日々の生活やコミュニケーションのあらゆる分野に浸透している。つまり、中身の濃い、充実した議論と実験のたたき台、新しい都市の形式と活動が生み出される場所だ。「パブリックへの対抗」を生み出すのではなく、刷新可能なパブリック形式の中に今日的意味を模索すること。複雑だけれど実現可能なユートピアだ。

こうしたパブリックアートのイニシアチブは、世界中に成功例が見られる。僕が企画したプロジェクトでも、多くがこうした実験の要素を含んでいる。ビエンナーレやトリエンナーレを「ローカルな」イベントとして企画し、グローバリゼーションを前にして新たな地方性を作り出そうとするのは、その実践の最たるものだ。『The Fifth System』や『Trans(ient) City』といったプロジェクトは、パブリックアートの新しい立場や戦略を探る、このかなりユニークな活動のもっと直接的な例だ。

60年代の社会運動には力がありました。ウォーラーステイン/バリバールが述べているように、こうした(ほとんどが活動家による)運動は、社会改革においてひとつの役割を果たしました。最近の現代美術には、政治的社会的な「ジェスチャー」もあり、中には社会文化運動的なものを形作ったケースもある。こうした役割を引き受けると、美術的実践の自律性は損なわれるでしょうか。あるいは美術には、オルタナティブな社会と文化の変容に直接関わる力があるのでしょうか。

美術の理解や活動にはいろいろなやり方がある。美術が大きな社会の活動家的な運動の一部だと考えるのも、まったく正当だし必要なことだ。これは、古典的なアバンギャルドの時代にまで遡り、以来完全に途絶えたことはない伝統だ。経済、文化、社会、政治、そして地政学的な状況は、グローバリゼーションの急速な進展に促されて、こうした活動家的な要素をこれまでにもまして喫緊の課題としている。今日の美術は、他の文化活動と同じく、ローカルであると同時にグローバルな活動だ。さらに、美術の世界に流通し、作家の想像、エネルギー、感情、創造性を具体化する知的土台となる言説や概念は、ポスト植民地主義、グローバリゼーション、資本主義や都市化の批判などの理論や議論に、いまでも依拠している。美術がこれほど「理論的」で、他の分野に対してオープンになったことは未だかつてなかった。美術は自律的でなくてはならないという前提、近代における指針のようなものは、妥当性や有効性をまったく失ってしまった。確かに美術は、他と異なる言語(ランゲージ)を発展させることを通して特定の役割を担い続けるべきだろう。だが、それは「自律的」でなくてはならないということではない。そうではなく、現実社会に直接間接に関与し参加して、そこから「インスピレーション」や言語・形式・精神的な内実を引き出すのだ。こうしたインタラクティブなプロセスこそが、新しい言語・形式的表現を生み出し、意味を手に入れる手段となる。美術はたぶん、このプロセスの先頭に立つもので、新しい考え、プロジェクト、活動などのアバンギャルドな「実験室」のようなものであり、ここでその公共性を獲得するんだ。その意味では、美術作品に社会的な意味合いが強いほど、その力も増す。それが社会変革の効果的な触媒だというのは疑いない。

新自由主義的な都市の不規則拡大現象(アーバンスプロール)と「場所」「住居」を求める権利の侵害……。今世紀の僕らの最重要課題が、そのさなかにおける「避難所(シェルター)」「住居」だとすれば、美術の実践が抵抗に果たせる役割は何だと思いますか。美術はアート界や都市で新しい話題として「消費」されるジェスチャーを生み出すだけか、あるいは皆をひとつにしてオルタナティブな抵抗運動の土台を生み出す実際の力になるでしょうか。

そう、グローバル化した都市は複雑かつ矛盾に満ちた場所で、世界中で多様な利益と不利益とを生み出していると指摘しておくのは非常に重要だ。世界中で起きている都市化をこの目で見ると息を飲む。イスタンブールから上海、サンパウロからドバイ、ロンドンからモスクワ、ニューヨークからラゴス……サスキア・サッセンが言うように、これらがグローバル化した都市のネットワーク、あるいはグローバル経済の司令塔を作りだしている。他方、新しい都市の形、アーバニズムが、グローバルな資本、人口、構想、想像の結果として「発明」されている。グローバル化した都市は、レム・コールハースとその信奉者が言うように、ますます普遍化している。だが忘れてならないのは、マイク・デイヴィス(『Planet of Slums』)が提起してくれたように、これがスラムの生産過程でもあるということだ。都市人口のなんと60%以上が現在スラムや都市の「暗部」に住んでいる。「避難所」や「住居」を持ち、歩行するという基本的な生活の権利が、多数の都市住民にとってはもはや稀有な「贅沢」になってしまった。

 

「都市の中の村」から始める

だが、中国などの「非西洋」都市で僕が学んだところでは、従来のアーバニズムの概念やメソッドは、後付けの計画、すなわち計画に先立って工事が行われ、都市計画が後追いの「修正的」な行為になっていることだが、その大波に飲まれてしまっている。「非公式の」都市部の膨張と許可を得ない建築という過程においては、普通の、しばしば低所得層の住民たちが、実用的で創造的な都市工事や建築物のデザインに才能を見せていて、ここに避難所から雇用、経済資源から環境問題、社会関係から都市構成、個人の権利から社会制度に至るまで、深刻な都市問題の解決を図る巨大な可能性が見出せる。こうした地域は、最もダイナミックで生き生きとした都市区域であることが多い。ラテンアメリカの諸都市の貧民街(ファベーラ)、中国で進行中の都市化における「都市の中の村」などは、こうした可能性を明白に示している。多くのソーシャルワーカーや活動家、建築家、都市計画家、社会学者が、彼らのエネルギーや才能を見出し、現状から学び、こうした「その場限りの(アドホック)」都市における生活条件を改善し、彼らに公的な立場を与える方法を生み出そうとしている。新たな都市組織による都市形成の、「オルタナティブ」な実験方法の存在論的認識だ。こうした場所はもはや単なるケーススタディの対象ではなく、高密度で柔軟でシンプルな都市生活の側面に刺激された、ロマンチックなアイディアを試す実験室だ。いまでは都市の現実の欠かせない一部分で、もう誰もこれを無視したり、白紙に戻すような解決法で「固定」したりすることはできない。

確かにこれは、都市形成と社会闘争に関心のある作家にとって大きなインスピレーションの源となる。この10年、たくさんの大規模なプロジェクト、作品、活動が世界各地で行われてきた。その中には君の言う「新しい話題として消費されるもの」もあったけれど、本当の意味で関わりを持とうとする活動や、都市の変化の不可分の一部となるまでに至ったものもたくさんあった。こうしたプロセスを通じて、さまざまな主体が一体となって、抵抗活動に留まらず、未来を見越すような土台作りができると信じている。

ではまた、
ハンルゥ

(初出:『ART iT』No.18(Winter/Spring 2008)

 


 

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