連載 田中功起 質問する 3-5:保坂健二朗さんへ 3

件名:気づいたことのまとめとリスト

保坂さんの第2信はこちら往復書簡 田中功起 目次

保坂健二朗さま

お返事ありがとうございました。
アーカイヴ+ストックとライヴ+フローの区分を聞いて、なるほどなあ、と。なにか、ふと、この一連のやりとり(保坂さん以前の土屋さんと成相さんも含んで)のなかで見えてきたことがあります。今回はその区分を借用しながら、書いてみたいと思います。


友人の犬、Shadeyのために遊べる立体を制作。

まずその前にこの「質問する」全体を読み直して気になったことがひとつ。当然ですが、それぞれの立場の違い(批評家、学芸員、アーティスト)から「作品」というものがさまざまなフェーズにおいてとらえられているということです。定義づけがそれぞれに異なるわけですね。なにを「作品」と呼ぶのか、どの視点に立つとき「作品」なのか。この「質問する」は制度の問題をゆるやかに扱いながら進行していますが、ぼくがそれを「つくる」行為との関連のなかでとらえているので、結果として「作品」とはなにか、という問いが底のほうに流れています。ただし、定義づけがぼくの目的ではありません。それよりもどこまでを「作品」ととらえるのか。

たとえば、見せるつもりもなく作られたもの、あるいは見せることに無頓着な作品は「作品」ではないのか、カタログ上の記録写真・図版も「作品」なのか、現存しない作品の再制作は「作品」なのか、YouTubeなどのデジタル・アーカイヴ上の映像は「作品」なのか、ギャラリーや美術館のなかにあるものが「作品」なのか、表現されたものはすべて「作品」なのか、うわさ・会話のなかで説明される作品は「作品」ではないのか、プロセスは「作品」なのか、などなど。

このように範囲を広げる、あるいは限定することで、見る側から言えば「どこまでを作品の体験として許容するのか」、つくる側としては「どこまでを作品の体験として考えるべきなのか」と言い直すことができます。それによって制作や鑑賞、そして「作品」の意味が変容する。保坂さんのふたつの区分はその意味の変化を考えるために有効なものです。

「現代美術」を扱うかぎりにおいては、時間・空間を限定する「展覧会」というものがいまのところライヴ+フローなものとして扱われている。たとえば形式としてはインスタレーションやパフォーマンス、リレーショナル・アート、内容としてはポリティカルなメッセージを持ったもの、社会的な背景のはっきりしたもの、あるいは制度批判というテーマもむしろこの制度に寄りそう作品です。
キュレーターにとっては限定されたテーマにおいて「展覧会」を組織しやすいし、アーティストにとっても演繹的にプロジェクトを決定しやすい。ただしあくまでその場限りです。1回かぎりのライヴ+フローな「作品」はカタログや記録メディアでの再/追体験が難しい。見逃した人は記録から類推して、作品体験を想像するしかない。ぼくはこの「展覧会」という制度から演繹的に導き出される「作品」のあり方に疑問があります。それがこの「質問する」企画のきっかけでした。

一方、YouTubeなどのデジタル・アーカイヴのなかの映像は、それがどのインターフェスにおいても同じ「作品」として扱われる。フォーマットが違っても解像度の違いぐらいのものでしかない。さらに多少のバージョン違いあっても、そうしたものを含めたすべての総体として「作品」がとらえられている。保坂さんが書いていたように、アーカイヴのなかの「その作品」にアクセスするまでにはそれぞれ時間差があり、なかには見られることが永遠に先送りされる「作品」もある。しかし、経年劣化のない「デジタル」な世界を無限の時間からとらえれば、その作品はいつしかきっとだれかには見られるとも言える。「手紙」は「遅れても届く」。ライヴ+フローなところでは1回かぎり出来事が、こちらでは何回でも無限回数見ることが出来る。

そう考えると、後者には絵画(あるいは平面作品)を入れてもおかしくない。複製は二次的なものととらえられがちですが、それを単にオリジナルとの解像度の違い程度の差ととらえることもできる。いや、それでもオリジナルと複製の差は圧倒的だ、という意見もあると思います。しかしこの世界をひとつの巨大なアナログ・アーカイヴととらえれば、そのなかにストックされている絵画作品に、時間がかかるにせよ、アクセスは可能です。ここで面白いのは、新旧ふたつのメディアが、アーカイヴ+ストックの前ではほぼ同じものとしてとらえられることです。コンピュータの画面が二次元であるかぎり、映像や絵画、ドローイング、コラージュ、テキストなどの平面がこのアーカイヴ+ストックのなかで機能する・有効なのは自明かもしれませんけれども。

そのとき「作品」が現実の「展覧会」のなかで「実物」として見られることはそれほど意味がないのかもしれない。それでも実物を見たいとぼくは思うし、アナログ・アーカイヴのなかには「無限」の時間が用意されていないので、アクセスをショートカットする「展覧会」はいまだに必要ですけれども。

ここで、別の角度から考えてみます。最近の非物質的アート(パフォーマンス/コンセプチュアル・アート)の欧米での盛り上がりは、ある意味でアーカイヴ+ストックなものへの抵抗としてとらえることができます。つまり「展覧会」というものをよりライヴにすることで、時間・空間的に限定された瞬間的・体験的なものとして強化するということです。パフォーマンス・ベースのトリス・ヴォナ・ミッチェル(*1)やロビン・ロード(*2)などがここで考えられます。たとえばトリスは記憶・イメージという曖昧なものを、言葉を多用するパフォーマンス(+音声記録メディア)によって多層なものへと分解する、感覚的で体験的な作品です。これは時間・空間的に限定された「展覧会」という制度から、帰納的に導き出されたものじゃないかなと思います。感覚的な揺らぎは、彼のパフォーマンスを経験する/しないに大きく左右されます。もちろん展示会場には彼の音声を録音したCDが置かれていたりして、それを通して作品は経験される。しかし彼のパフォーマンスを目の当たりにすると、それが「作品体験」として特権化されていて、あとは二次的なものに思えてくる。逆に言えば彼にはパフォーマンスのスキルがあるわけです。彼がそこにいなければいけない。

もう一方で、同様の活動に思えるニナ・バイエ(*3)、ティノ・セーガル(*4)や、ローマン・オンダック(*5)のパフォーマンスをベースにした活動は、ライヴ+フローなものとアーカイヴ+ストックなもの、双方をクリティカルに、そして生産的にとらえているようにも思えます。たとえば、ニナはリタイアしたダンサーに会場で踊ってもらう。パフォーマンスであるにもかかわらず、それは移動・移設可能なものとしてとらえられている。もちろんその「ダンス」は1回かぎりだけれども、それぞれのダンサーたちによるダンスは、同じアイデアの別々のバージョンとしてとらえられる。このアイデアをどこにいろいろな場所で試すことができます。
また、ティノの活動はアーカイヴ化を拒む方法論に貫かれているので、むしろアンチ・アーカイヴ+ストックにも思えます。しかし「記録しない」というアイデアを徹底することで「作品」は複数のフェーズのなかに解体される。つまり「記録がない」ためにうわさとして広まる口承(としての記録)も作品体験のひとつととらえられる。さらに美術館にコレクションされることによって、複数のパフォーマーが演じるさまざまなバージョンが存在してしまう(これはニナと同じですね)。美術館の監視員や、ギャラリーのスタッフなど、職業や立場で選ばれたパフォーマーは特別のスキルを必要とされず、さまざまなひとによって行われるパフォーマンスのそれぞれには特権的な優位性はない。トリスやロビンが、自らパフォーマンスをする必要性があるのにくらべ、ティノやニナやローマンは誰か別のひとにパフォーマンスをしてもらう。ライヴ+フローなパフォーマンスをアーカイヴ+ストックなものとしてとらえ直す。移動・移設を可能にするためにシンプルなアイデアをベースにする。事態は単純ですが、これによって制作・作品・コレクション・記録などの意味がすべて変わってしまう。

最後に自分のことも。たとえばぼくが気になるのは、「トークやレクチャーとはどんな体験なのか」ということです。「アーティスト・トーク」という枠組みをパフォーマンス作品として提示するアーティストはいます。でもぼくが念頭に置いているのはあくまでも自作解説トークやレクチャーそのものを指しています。そこではぼくは自分の、あるいはだれかの「作品」について話します。そこでは「作品」について話されているにもかかわらず、「作品」そのものの体験とは別の体験を観客に与えます。だけれども、ぼくはこの「作品についての話」を当の話されている「作品」とは別に、まったく違うもうひとつの「作品」として取り出すこともできるんじゃないかと思うのです。

レクチャーとは言葉を積み重ねることである内容をひとつのまとまったかたちとしてだれかに伝えることです。これはいわば言葉を使った彫刻的な作業です。積み重ねたり、削ったり、付け足したり、別の角度から眺めてみたり、そうやって全体の輪郭をかたち作っていく。このとき「話すこと」はそのまま「つくる」ことでもあるのかなあと。ならば、単なるレクチャーにせよ、その行為は結果としてなにかしらのかたち/彫刻を生み出していることになる。そうやってレクチャーを彫刻作品としてとらえてみる。レクチャーのなかで解説されている自作さえも、全体のかたちのための一部となる。自作、個々の作品の解説は「作品体験」ではないけれど、そのレクチャー全体はひとつの彫刻体験となる。

最後に、ぼく自身のためのまとめの意味も込めて、リストをメモします。


・作り手の視点から
1) 「見せる」ことを「作る」ことに優先する 
展覧会(時間空間的に限定された一回かぎりのもの)というフォーマットから演繹的にできあがった作品 インスタレーション パフォーマンス リレーショナル・アート

2)「作る」ことを「見せる」ことに優先する 
作品の成立を展覧会よりも優位に置く
2-1) 「作る」ことを「見せる」ことに限定しないように回避する 
コンセプチュアル・アート アイデア 
2-2) 「見せる」ことに無頓着に「作る」 
孤独化 アウトサイダー 制度のうちにおさまらない

3) 「見る」ことを複数化し、時間空間に限定させない 
作品のオリジナリティを複数の潜在可能性へと開く。記録しかない作品(現存しない作品、公開を前提としない作品)+再撮影+カタログ(テキスト)+ウェブ(テキスト)+αへと複数化する。作品を時間空間のずれのなかに再配置する。

・観者の視点から
1)「見る」ことを「作る」ことと同等とする 
受容美学 見ること/解釈の自由 観者と作者を同一平面に置く 作者からの解放

2)「作るひと」と「作られたもの」を分離し、「作られたもの」を「見る」 
作品と観者の断絶を受け入れた上で「誠実に見届けること」

・制度の問題から
1)アーカイヴ+ストック 
「見せる・見られる・見る」ことが先送りされるので時間空間に限定されない 
「作品」を観者は「孤独」に見るしかない
1-2)サイト/孤独 そのためだけの場所 
ヨゼフソンのためのメルクリによる美術館や宗教美術 
空間的に限定されるが、時間的には開かれている

2)ライヴ+フロー 
時間空間的に制限された1回かぎり 「展覧会」

ちょっといつもよりも長くなりましたが、最後のお返事、楽しみにしてます。

田中功起
2010年5月18日 LAより

  1. Tris Vonna Michell
    以下はアーティスト・インタビューそのものが彼のライヴ・パフォーマンスになっている。
    http://www.youtube.com/watch?v=SEnstIDHZtE

  2. Robin Rhode
    彼の作品のなかには自分が出てこないものもありますが、自身がパフォーマンスをすることが特権化されていることにかわりはない。
    http://en.wikipedia.org/wiki/Robin_Rhode
    http://www.perryrubenstein.com/artists/robin-rhode/images/

  3. Nina Beier
    http://www.ninabeier.com/

  4. Tino Sehgal
    http://en.wikipedia.org/wiki/Tino_Sehgal

  5. Roman Ondak
    さまざまな場所の入り口にひとを雇って行列をつくる、ギャラリーのなかをガラス越しにおじさんにのぞかせるなど、パフォーマンスをベースにした作品もあります。でも彼の活動は幅広い。以下はニューヨーク近代美術館(MoMA)でのプロジェクト。白い壁に自分の背の高さに合わせてしるしを付けてもらう、子どものころにやったアレです。そこにはたくさんの観客の名前と背の高さが記録されていくことで、「measuring the universe」(世界を計ること)となる。サイトにアップされている彼のコメント自体も分かりやすくておもしろい。
    http://www.moma.org/visit/calendar/exhibitions/980

    *それぞれYouTubeやwikiなど含めて検索すると、作品の画像やプロジェクトをけっこう見ることができます。

近況:
ここ最近は、やっと落ち着いて制作してます。Yerba Buena Center For the Arts(サンフランシスコ)での個展をメインに秋口以降から来年頭までの、いくつかの展示に向けて、新しいプロジェクトをゆっくりとはじめています。
ポッドキャスト「言葉にする」では、南川史門さんとの対話(全5回)をアップしてます。こちらもよろしくお願いします。
http://kktnk.com/alter/nihon_go.html

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質問する 3-1:保坂健二朗さんへ 1
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質問する 3-3:保坂健二朗さんへ 2
質問する 3-4:保坂健二朗さんから 2

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