連載 清水穣 批評のフィールドワーク: 2

日本現代美術観測

コラージュへ/コラージュから


ヴァルダ・カイヴァーノ「Untitled」2007年
油彩、カンヴァンス 51 x 70 cm 写真提供:小山登美夫ギャラリー

小山登美夫ギャラリー京都のヴァルダ・カイヴァーノ、京都国立近代美術館のウィリアム・ケントリッジ、柴田敏雄の写真、タカ・イシイギャラリーの木村友紀、さらにはタケニナガワの新人、松村有輝……に共通して見られる現象、それが「コラージュ」である。1907年〜1916年は通称ピカソのキュビスト時代と言われるわけだが、まるで示し合わせたかのように、場所も世代も異なる作家たちが、意識的、無意識的にこの時代——キュビスムの時代、シェーンベルクの自由な無調時代、ストレート・フォトグラフィーの倫理の成立期——を参照点とするような作品群を展開しているように見えるのである。モダニズムの揺籃期(100年前!)に回帰するかのようなこれらの作品は、最近耳にする、Alternative modernismという、現代美術の歴史を複数化する傾向、すなわち過去の美術のうちから、ありえたはずだが未展開に終わった潜在的可能性を、現代に延長してきて展開する傾向のなかでも、美術史家の徒な饒舌を待つだけの下らないアカデミスムを免れている最上の部分であろうが、それでも実はアナクロニズムではないか、温故知新にすぎないのではないか、というような問いは、とりあえず措いておこう。00年代における同時多発的なコラージュ復活は、何を意味しているのだろうか?


柴田敏雄
©Toshio Shibata 写真提供:ユミコチバアソシエイツ、ツァイト・フォト・サロン

「この時点での主要な問題は、絵画の「内部」——その内容——が「外部」——絵画の文字通りの表面——と融合してしまわないようにしておくこととなった。描かれた平面性——すなわち切子面状の面——は、両者との間に最小限度の三次元的空間のイリュージョンが存続するのを許すに足るだけ、文字通りの平面性から分離されていなければならなかった。[…] 平面化の進行は止め難いように見え、表面がイリュージョンと融合してしまわないようにするためには、表面をなおいっそう強調することが必要となった。一九一二年の九月にブラックが木目模様の壁紙のテクスチュアを絵具で模造しようとせず、紙に描いたドローイングにその実際の紙片を糊付けするという急進的で画期的な段階に到達したのはこの理由からであって、私には他の理由は全く見あたらない」

グリーンバーグの「コラージュ」(1958)の一節である(*1) 。かつてこの有名な箇所を読んだとき、私はその鋭さに驚くことが出来なかった。むしろ、実際の紙片を画面に貼り付けて、作品の文字通りの物理的平面性を際立たせることは、絵画的イリュージョンをキャンセルすることでこそあれ、その紙片によって逆にイリュージョンが強調されるというのはかなりの強弁、つまり眼にそこまで画面への「没入」を強いるのは無理ではないかと疑われたのである。さらに、

「糊付けされた紙はそれが覆う領域の大きさゆえ、一つのしるしや記号以上のものとして、描かれたのではない平面性を具体的に作り上げる。今や文字通りの平面性は絵画の主要な出来事として立ち現れるようになるのだが、するとその仕掛けは藪蛇となる。すなわち、奥行きのイリュージョンが以前より一層定まらないものになるのである。糊付けされた紙や布は、文字通りの平面性を明確にし区分することによってそれを分離する代わりに、それを解放し押し広げる。絵画はこの描かれたのではない平面性から始まるとともに、それをもって終わることになるのだが、画家はその描かれたのではない平面性以外、何物も後に残さないように見える。現実の表面が地にも背景にもなるのであり、そして——突然、逆説的に——、三次元的なイリュージョンに残された唯一の場は表面の手前、表面の上にあるということが明らかになる 」(*2)


ゲルハルト・リヒター「Venice」1986年
油彩、カンヴァス 86 cm x 121 cm

「それを解放し押し広げる」の「それ」は「文字通りの平面性」を指し、「この描かれたのではない平面性」とは解放され、押し広げられた文字通りの平面性のことである。その平面が現実の表面の手前、表面の上にある、と言われても「?」なのであった。

その後、ゲルハルト・リヒターという画家の補助線のおかげで、私はようやくグリーンバーグが「描かれたのではない平面性」という言葉で何を言っていたのかを理解した。画面に紙片を「コラージュ」する、風景写真に文字を「コラージュ」する、風景画に荒々しい絵の具の塊を「コラージュ」する。すると文字と風景のあいだ、絵の具と風景のあいだに、「描かれたのではない平面」=非物質的で透明な面が出現するのである。3次元空間のイリュージョンではなく、イリュージョンそのものを支える基底面が純粋に抽出されるのであった。グリーンバーグの「蜃気楼(ミラージュ)」とは、リヒターの「シャイン」だったのだ。

リヒターは、「絵画はそれをもって終わる」この純粋に視覚的な平面を、死んだレディメイドとして提示し続ける。だが彼をはるかに追い越してコラージュは展開していった。コラージュとは、ただ台紙や地面の上に紙片やオブジェを寄せ集めたものではなく、元の意味体系から切り離されたハイブリッドな要素同士を新しい意味体系へと組み換えることである。意味の体系とは差異の体系であるから、コラージュによって新しい意味体系が発生するときには、示差的なシステムを完結させるために必ず全体性が要請される(事後的なフレーム)。コラージュによる透明な基底面の生産と、意味の平面としてのシニフィアンの体系の生産が重ねられたとき、コラージュから2次元という限定がはずれ、それは差異化された部分同士の相互関係システムとして、次元を横断するようになる。いわゆる「新しい彫刻」の発生である。新しい彫刻=コンストラクションが絵画的であるのは、別にそれらの「部分」が幾何学図形や直線や曲線をなぞっているとか、マッスではなく表面に強調が措かれているからではなく、それらが差異の体系を形成するから、つまり透明な基底面=意味体系の平面が見えるからであった、ただし「蜃気楼」として。


松村有輝「デパス」2009年
17枚の写真 75 x 45 cm 写真提供:Take Ninagawa

紙片やオブジェは畢竟単語ではないし、差異の体系と言ってもあくまでも言語体系への比喩に他ならない。結局のところ、コラージュが発生させる意味の平面は、ぼんやりとした予感=蜃気楼でしかないのだ。コラージュは旧来のシステムを切断し、ハイブリッドな要素の混淆から別の体系が出現するかしないかのところで留まるのであり、つまり完結しないのである。コラージュの自由は、いわば次元の狭間の多義性にある。


木村友紀「猫とネズミ、名前はまだ無い」2009年
木、石、ガラス、ラッカー 30 x 50 x 62 cm
撮影:市川靖史 写真提供:タカ・イシイギャラリー

00年代のコラージュは、100年前にコラージュが出現させた「非物質的で透明な基底面」——「レイヤー」という視覚的制度——からは断絶しつつ、しかし事後的なフレームの意識(松村作品の影の輪郭、木村作品における角の意識、カイヴァーノ作品に頻出するフレーム形)と、次元を横断する多義性(ケントリッジのヴィデオ作品における2次元と3次元、動画と静止画、時間と空間の様々な横断)、さらに本質的な非完結性で共通している。既知の歴史の断片をシミュラークルとして羅列した80年代のポストモダン・アプロプリエーションが、一つの歴史を追認する制度性に捕らわれていたのとは対照的に、00年代のコラージュは非連続的に、だが本質的に歴史を参照する、放埒な自由に満ちている。

  1. 『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳、剄草書房、84、88頁。

  2. 同書89−90頁。

連載 清水穣 批評のフィールドワーク 目次

Copyrighted Image